「セカイ系」という言葉でくくることのできるある種の考え方がある。その人の意識に「身近なこと」と「世界的なこと」の2種類しかなく、中間が抜けていることだ。普通はその間に「町内のこと」とか「会社のこと」などがあるのだが、そういったものが一切ない人だ。
こういう人に小説を書かせると、何のとりえもない高校生がいきなり世界を救ったりするからすぐわかる。そういう人にとっては、世界は個人のすぐ上にあるもので、個人の力で動かせてしまうものだ。
実際そうじゃないか、と言う人もあるかもしれない。確かに、すべての行動は誰かがすることだから、最終的には個人(例えば大統領など)が世界を救ったり破滅させたりする。しかし、その背後に膨大な他の人の協力があることが見えていない。そういった人に支えられて初めてトップが何かやれるのだということがわかっていない。
こういう人は「誰か一人を犠牲にして世界が救えるなら、それは良い事なのだろうか」などとくそ真面目に問う。そもそも一人が犠牲になった程度で世界が救えることの異常さを考えろ。一人を犠牲にしたくらいで解決するようなことなら、千人くらいで協力すれば誰も犠牲にせずに解決するんじゃないか。そして、世界の危機に対しては普通そうする。一人の行動で世界情勢が左右されるようなリスクを放っておくわけないだろ。
セカイ系の人は、「自分」と「世界」しかなく、「他人」が見えていない。そして、「世界」と「自分」は対立するものである。自分は世界に勝つか、世界に負けるかのどちらかである。彼らは、自分も世界の一部であると考えることができない。彼らは世界も結局は大勢の他人(と自分)が動かしているのだということに気がつかない。
と、セカイ系を批判してはみたものの、それはある意味しょうがないと思う。最近、みなセカイ系に近づいているんじゃないか。自分にだって思い当たるフシはある。
例えば、「俺は県の大会で一位になったんだぜ!!!」と自慢気に言う人を見かけたら、なんだかちっぽけな自慢に見えないか?実際のところ、県で一番というのはすごい事なんだが。自慢できる事の最低ランクが「日本一」になってしまっている。これがセカイ系である。
これは、テレビをはじめとするマスメディアの影響なんじゃないかなぁ。テレビが日本で一番すごい奴ばかりを取り上げて放送するから、我々の頭の中には日本一の奴しか思い浮かばない。逆に、身近な話題というと本当にくだらない身近な話題しかない。「日本一」と「身近」に二極化して、その中間がなくなってしまった。
「人間、なんでも一番にならなくちゃいかん」と言う人がいる。老人にとってはこれは真実であり、批判すべきものではない。彼らの「一番」はせいぜい「村一番」だからだ。しかし、今の人間には「一番」というと「日本一」しか思いつかない。そんなのなれるわけねーだろ。しかし、たまに「なれる」と思い込むバカがいて、イラクへ行って人質になってみたり、マルチ商法に引っかかってみたり、「株で一億円儲ける」と言って逆に多額の借金をこしらえたりする。
そういう類いの人は「一番じゃなければ意味がないんだ」と言う。「一番じゃなければ二番も番も百番も同じ」と。そういう人は、確実に二番になるより一番になるか百番になるかの分の悪い賭けを選ぶ。自分だけが勝手に滅ぶのなら勝手にすればいいのだが、人まで巻き添えにするから迷惑千万である。
二番も三番も同じわけないだろ。三番より二番の方がいいに決まってんだろうが。なんで一番にそんなにこだわるんだ。もちろん「一番を目指す」のはいいことだ。しかし、その前に三番を目指し、三番になったら二番を目指し、二番になったら一番を目指すのが普通のやり方だ。番外の人がいきなり一番を目指すのがセカイ系なのである。
ただ、無謀な賭けをやっても百万人に一人くらいは成功するから余計にたちが悪い。コインの裏表を10回連続で当てることができた超能力者が千人に一人いるのと同じ理屈だ。そして、賭けに勝った一人だけがテレビで報道される。賭けに負けた残りの人間は報道されない。テレビしか見ない我々は、それがいかに分の悪い賭けかがわからないし、賭けに負けた普通の人がどんな目に会っているのかもわからない。だから、自分ももしかしたらその「百万人に一人」になれるかもしれないと思ってしまう。もちろんなれるかもしれないが、なれない確率の方がずっと高い。
多くの成功者は、地道に三番になり二番になりというステップを踏んでいる。しかし、その間はテレビで報道されないから知ることができない。そして一番になった途端に報道され、なんだかいきなり一番になったような錯覚を受ける。テレビは極端なものしか見せないから、テレビばかり見ているとだんだん極端なものが普通のものに思えてきてしまう。これがテレビの怖さである。
セカイ系の特徴は、一番と普通の2種類の概念しかなく、そこに中間のステップが存在しないことだ。だから着実に階段を昇っていくという概念がない。階段が1段しかなくてそれが絶壁のように高くなっている。この絶壁はすごい能力の持ち主かあるいはとんでもない偶然でしか登れない。あるいは、登らなくても頂上に到達できるような掟破りの裏技を探すかである。
一番でなければ意味がないと思っているから、負けることを恐れない。既に負けていて、もはや失うものが何もない(と思っている)からだ。普通の人は階段を昇っているから、少しでも階段を昇るとそこから落ちる恐怖が生まれる。しかし、セカイ系の人には階段は1段しかなく、既にどん底まで落ちているか頂上に昇っているかの2通りしかない。だから落ちるのは全然恐くない。
その絶壁を見て多くの人は絶望して、「登れなくても仕方ねーや」と思ってしまう。登ろうという気力すらなくなってしまう。そりゃそうだ。登るのはほぼ不可能なんだから。しかし、登山は頂上に着けなければ意味がないわけではない。そこに山があるから登るのだ。地道に階段を登っていれば、見晴らしのいい景色もたまにはあるし、一服して食べる弁当もまたおいしい。頂上までたどり着けなくてもそれはそれでいいのだ。
逆に、そんなバカ騒ぎを横目で見ながら着実に階段を登っている人にしてみれば、絶壁に向かって無謀なジャンプしている人を軽蔑して見ている。そんなことしたって登れるわけないのに、と思っていると、百万人に一人くらいは何かの偶然で登れてしまうから腹立たしい。自分が一生懸命階段を登っているのがバカらしくなる。本当はそれが一番確実な方法なのだが。
最初から頂上が見えてしまうと、あまりの距離にやる気をなくしてしまう。以前は我々に遠くを見る力がなかったために、頂上を見ることができなかった。だから期待に胸を膨らませながら登っていくことができた。これができなくなったのは、望遠鏡が発明されてしまったせいだ。
とはいえ、望遠鏡はもう発明されてしまったのだから仕方がない。望遠鏡は見なければいいのだ。頂上に着くことではなく、登ることに意義があるのだから。