まず、ゆとり教育について、私の立ち位置をもう一度記しておく。はっきり言って、教職とは無関係で、教育のことはよくわからない。だから、ここを見て「へーそうなんだ」と思ってはいけない。あくまでヨタ話だと思って聞いてほしい。そして「現実はこうなんだ」と言ってもらえるとなおうれしい。
さて、今まで「ゆとり教育バンザイ」みたいに書いてきたので、そろそろゆとり教育の恐しい面も書いておこうと思う。それは、できない生徒が置いていかれるという二極化の問題である。
最近「学力低下」が言われているが、これは本当に正しいのだろうか?実際は、「学力二極化」と言うべきなのではなかろうか。できる生徒はそれなりにできる。できない生徒がよりできなくなった。おそらくこちらの方が正しい見方だろう。
ゆとり教育というのは思想的に、できない生徒を置いてけぼりにするシステムである。だから、ゆとり教育を進める限り二極化は当然の結論である。
ゆとり教育がなぜ二極化を生むか。それは「馬を泉に連れていってやることはできるが、水を飲ませることはできない」という考え方を是とするからだ。水を飲みたくないと思う生徒に無理やり飲ませることはしない。だから、当然飲まない生徒が出てくる。
ゆとり教育の目指すものは、自分で水を飲むことを教えることだ。これを「生きる力」と呼んでいる。しかし、ここで問題が一つある。「水を飲みたいと思う気持ち」をどうやって教えればいいというのだ。現実的にはこれは不可能だ。環境を整えて、あとは本人が水を飲みたいと思うまで待つしかない。
残酷な言い方をすれば、落ちこぼれるのは「仕方がない」というのがゆとり教育の考え方だ。無理やり泉に首を押しつけて飲ませても意味がない。押し付けるのをやめたら飲まないようになるだけだ。いや、押しつけられた苦しい思い出が記憶に残って、かえって自分からは飲まないようになるかもしれない。
知識だけをつけても実社会に出れば価値はない。今や、Googleで検索すれば知識は一瞬で引き出せる時代だし、マニュアル本を読めばすぐ実践的な方法も身に付く。だからこそ、必要なのは知識や方法ではなく、意欲や心構えといったものなのだ。上っ面は誰でもすぐ身に付く時代になったのだから、今までのように上っ面だけ整えて良しというわけにはいかない、というのが根本の問題意識である。
しかし、ここで一つ哲学的な問題がある。待っていれば、本人が本当に水を飲みたいと思うだろうか?例えでなく言うと、馬が水を飲みたいと思うように、人間が知識を欲するのは本能的なものだろうか?ゆとり教育バンザイと叫ぶ人たちは、(私も含めて)この疑問にはイエスと答える。しかし、この答えには希望が入ってやしないだろうか?もしこの疑問の答えがノーだったら、我々は絶望的な状況にあると言える。
最近、若者の「考える意欲」が減退しているという話がある。これを老人の「近頃の若いモンは」だと決めつけるのは簡単だが、どうやらそうでもなさそうだ。昔ははたしてこんな風だっただろうか?
ネット上の少し長い文章は「こんな長い文章を読めるわけないだろ」といって読まない。注意書きも読まないで掲示板を使うから、掲示板が荒れ出す。そしてそこで注意書きを読めと言うと「長いから読めない」と言って開き直る。「長い文章を置く方が悪い」とでも言いたげな雰囲気だ。昔の生徒もやっぱり長い文章は読まなかったが、読めと言われたら(そしてそれが必要だと思ったら)ちゃんと読んだ。
とあるゲームサイト(ぶっちゃけた話、人狼BBS)では、「考えるのが面倒」と言って何も考えないでゲームをするプレイヤーが急増して困っているという。人狼というゲームは推理とブラフ、交渉の要素が非常に面白いゲームなのに、そこから考えることを抜いたら何が残ると言うんだ。どうもおかしい。考えるのは面倒なことではなく、楽しいことのはずなのに。考えたいからこそわざわざゲームをやっているというのに。
考えることや新しい情報を知ることを楽しいと思えない若者が増えている。ゆとり教育の目指すところと逆の結果になっている。しかし、「ゆとり教育」と称して実際何をやったかを考えれば納得はいく。ゆとり教育は環境を整えるだけで、根本的なことは何もやっていない。いや、何もできないと言った方が正しいだろう。楽しいと思えないことを無理やり楽しいと思わせるのは不可能なのだ。
いや、本当は無理やり「楽しい」と思わせることはできないことはない。例えばテストの点を競わせて、他人に勝つことや点が上がることの優越感を「楽しい」と思わせることはできる。そして、それを考えることの楽しさだと勘違いさせることはできる。しかし、本当にそんな方法でいいのか?知らない状態と勘違いしている状態とでは、どちらがいいのだろう?
結局、ゆとり教育と称してやったことは、生徒たちを全然関係ないエサで釣って無理やり勉強させようとするのをやめたこと、そして自分から勉強したいと思うまで見守ることである。だから、自分から勉強したいと思わない生徒の成績が落ちるのは当たり前のことである。そして、それは変な勘違いをして将来性格のねじ曲がった大人になるよりはマシだと判断したのである。
「一度も水を飲んだことのない馬が、水を飲みたいと思うわけがない」という意見はその通りだ。考える楽しみはどれも間口が狭い。まるでわからないうちは全然楽しくなく、基礎を修得して初めて楽しめるようになる。スポーツでもゲームでも学問でもこれは同じだ。
だから、「基礎は有無を言わさず叩き込むべきだ」という意見はもっともだ。では、いつまで基礎を叩き込まれないといけないのだろう。我々の受けた教育では高校までは基礎で、楽しめるようになるのは大学に入ってから、それも専門的な教育を受ける後期になってからだった。学問というのは本当にそこまで叩き込まれないといけないものなのだろうか?我々が教えたいのは、「少し我慢して基礎を修得すると、面白いことが待ってるよ」ということだ。だから、まず簡単なことに対して基礎を叩き込んで、面白さを体験してもらう必要がある。学問はそれからゆっくり始めればいいのだ。そうすれば、生徒はなぜ基礎を叩き込まれたのかがわかる。そして、今度はわざわざ叩き込まれなくても自分からやるようになる。
しかし、現代にはこの図式の天敵がいる。メディアである。メディア各社は売上を伸ばそうと、基礎を叩き込まれなくても面白いものをせっせと開発した。このせいで、面白いと思うまで基礎を修得することに抵抗感が出来てしまった。我慢しなくても面白いことがいくらでもあるからだ。
平たく言えば、今の子供たちには面白いことがあり過ぎる。昔は面白いことはすべて基礎修練が必要だった。しかし現在では、面白いことはどれも基礎修練を積まなくても面白い。その分面白さの度合いは低いのだが、それはそれで都合がよかった、面白いものをちょっとやってはすぐに飽きて、の繰り返しが会社にとって一番儲かる。
今では面白いものがありすぎて、面白いものをちょっとやっては捨て、の繰り返しでも何とかなるようになってしまった。若手芸人もわんさか登場するため、1年ごとに使い捨てにしても困らないようになった。どのTV番組もそれなりに面白くなったので、一部の本当に面白い番組だけが高視聴率をとるということがなくなった。これは世の中が進歩したせいである。当然、面白いことに対するありがたみも薄れていく。物の大切さを多少説いても、企業が社運をかけて発する「使い捨てはすばらしい」というメッセージにかき消されてしまう。
一言で言えば「飽食の時代」ということになってしまうだろう。喉がカラカラになったことが一度もないんだから、自分から水を飲もうとしないのは当然のことだ。そして、喉をカラカラにすることは学校の先生には不可能だし、そもそもそんなことを強要していいのだろうかという疑問も残る。
学力低下をゆとり教育だけのせいにするのは酷だ。今の環境では、ゆとり教育でなくたってきっと学力低下は起きるだろう。実際、PISAの国際比較を見ると、国際的には(今のところ)あまりパッとしない国が上位に並んでいる。日本も韓国や香港といったグループから抜け出してアメリカやフランスやドイツのグループの仲間入りをしつつある、ということだ。それが良いか悪いかはともかく。
学級崩壊の問題は教育のせいだけではなく、大部分は社会のせいである。学校のやり方を昔に戻したら昔のようになると思うのは大間違いだ。問題はそんなに単純なものじゃない。
社会が変わったのだから、学校も変わらないといけない。そこでは昔のものさしは通用しない。「授業の最中にケータイをいじっている」と言うけれど、我々の時代にも授業の最中にノートの端にパラパラマンガを書いてたり、社会の教科書の肖像画にヒゲを書いてたりしてた。パラパラマンガを書くよりケータイをいじる方が本当に悪いのか?。「自分勝手な子が多すぎて全員一斉に授業ができない」と言うが、そもそも授業を全員一斉にすること自体が間違っていたのではないのか?
もちろん、今の学級崩壊の現象を肯定するわけではない。しかし、やらなければいけないのは昔に戻すことではなく、新しいやり方を模索することだ。そしてそのためには、旧来是としていたものをあえて否定し、その上で何が本当に必要なのかを再確認していかなくてはならない。
結論。子供の学力が低下するのも落ちこぼれが増えるのも時代の流れ。だからといって放っておいて良いというものではないが、それをもって「改革は失敗だった」とだけ言うのではなく、どこが良くなくてなぜそうなってどこを直せばいいのかを分析すべきだ。元に戻せばいいという解決法で満足してはいけない。