敬語は本当に必要か

なぜ変な敬語が増えるのか

最近、よく「敬語を使え」と言う人を見かける。小中高校生くらいまでの人のウェブサイトを見ると、どのサイトにも「私のサイトでは敬語を使ってください」とまるで約束事のように書かれている。初対面の相手に向かって「私を敬いなさい」と言うとはものすごく偉そうだ。そして、それに加えて「そんなこともできないような人は社会人失格」とまで言う。日本中の人は自分を敬わなければならないとでも言い出しかねない。

こういうことを言う人は低年齢の人に多いのが面白い。まともな社会人なら、きっと相手が自分に向かって敬語を使わないからといってそうそう気を悪くする事はないだろう。すぐ人を社会人失格呼ばわりする人はたいてい社会人失格である。

ある程度年配の人は敬語をあまり使わない。もちろん目上だからというのもあるが、売り手と客という立場でも変わらない。「ちょっとそこのお姉さん、今日は大根が安いよ。一本おまけしとくよ。見てるだけじゃなくて買ってってよ」のどこにも敬語は入っていないが、別に失礼でもなければ変でもない。本来なら、売り手と客というのは対等の立場のはずである。

この問題の奥には、「敬語」という言葉の意味が変わってきているという問題がある。若い人達が使う「敬語」という言葉をその本来の意味で考えてはいけないのだ。「敬語を使え」「敬語を使う必要なんてないだろ」と言う前に、自分が敬語という言葉をどんな意味で使っているのかを確認せよ。


「敬語」の反対語は何だろう?これに「敬語に反対語なんてあるのか?敬語の反対は普通の言葉だろうが」と言う人は考え方が古い。敬語の反対語は「タメ語」である。同い歳の友達のように、相手と対等の立場で話すときのくだけた言い方である。

今では「敬語」は相手を敬う言葉ではなく、自分と相手との距離を表す言葉である。自分と相手が親しい間柄にある場合にタメ語を使い、それ以外の場合では敬語を使う。「敬語で話せ」というのは「最初からなれなれしく話すな」ということである。

昔は「敬語」と「普通の言葉」だったのが、今は「敬語」と「タメ語」になっている。敬語とは上下関係を示すものではなく、相手との距離を示すものなのである。親しい関係かそうでないかを示すものである。

例えば、学校で先生に敬語を使うか?と考えると、生徒に人気のある先生ほど敬語は使われない。そして、人気のある先生ほど生徒は尊敬しているものだ。尊敬しているからこそ敬語を使わない。敬語を使うということはその人との間に距離があるということであり、それは相手が自分にとって重要ではないと言っていることだからだ。敬語を使わないということは、相手に強い結びつきを感じているということだ。それは友情であったり、尊敬であったり、愛情であったりする。

敬語を使うということは、「お前は俺にとってたいして重要な存在ではない」と言っていることと同じことだ。この用法で考えると、敬語を使うというのは相手にとって失礼にあたる行為なのだ。実は、敬語を使うとかえって失礼にあたるということは別に珍しいことではない。「貴様」がいつのまにか侮蔑語になったように。


敬語は上下関係ではなく距離なのだから、お互いに敬語を使うかお互いに使わないかのどちらかだ。それが従来の敬語とは違う。昔は、下の者は敬語を使うが上の者は敬語を使わない。

江戸時代は身分制度があったから、敬語の使い方は簡単でよかった。偉い人には敬語を使い、平民同士には使わない。偉い人はいついかなる時にも、誰が見ても偉い。この区別がはっきりしていたから、敬語を使うのも楽だった。時代劇を見ても、普通の人は敬語をあまり使わない(時代劇が正しい時代考証をしているとはとても言えないのだが)。「昔の人はきちんと敬語を使えたのに今の若いモンは……」とよく言われるが、これを「昔の人は敬語をたくさん使っていた」と聞き違えてはいけない。昔の人は、ここぞという時にだけ敬語を使い、それ以外では使わなかったのだ。もう一つ言うと、江戸の庶民の場合、偉い人というのは悪いことをした時くらいにしか関わりがなかったので、やはり敬語なんて使えなかった。

この身分制度は、会社の中では最近まで社長→専務→部長→……→平社員という形で残っていた。学校なら先輩後輩だ。下から上に向かっては敬語で話し、それ以外はすべて敬語ではなかった。

しかし、会社に身分関係はなくなってしまい、自分の会社以外の交流の場も増えた。それで、どちらが上でどちらが下なのか判断に困るようになってしまった。その場合の普遍的なものさしは年齢だ。だから、ある世代の人は初対面の人にまず年齢を聞く。どちらが上かを決めないといけないからだ。

しかし、そのうち「年齢で上下関係を決めるのもおかしい。そもそも人に上下関係などないのだ」という風潮になってしまった。そうすると、どちらが上かが決定できなくなってしまう。身分が下の者が上の者に敬語を使わないのは無礼千万だが、上の者が下の者に敬語を使うのは問題ない。だからみんな初対面の相手には敬語を使うようになった。要は事なかれ主義である。

ここで大きな矛盾が一つある。「人に上下関係はない」と言っておきながら敬語を使う。敬語は本来上下関係を表すものだから、上下関係がなくなってしまえば必要なくなるはずだ。つまり、「人間みな平等」という考え方と、「敬語を使う」という考え方は矛盾するのだ。

敬語にこだわる人は、相手を自分と対等の立場に置くことができない人だ。常にどちらかが上でどちらかが下でないと気がすまない。そして、常に自分を下に置くように見せることで、実際には自分が上だと感じている。だから、自分で自分を下に置いたくせに相手からも下に見られると怒るのである。本当に相手を敬っている、つまり相手が上で自分が下だと思っているのなら、相手が自分に敬語を使わないことは問題にならないはずである。


バイト店員の変な敬語というのが時々話題にのぼる。尊敬語と謙譲語の使い分けができないという話もある。これらは上のことを考えれば当然の成行きである。

尊敬語は相手を上げる言い方で、謙譲語は自分を下げる言い方だ。しかし、今では敬語というのは上下関係ではなく相対距離を示すものだ。だから、「相手を上げる」「自分を下げる」という概念がない。「初対面の人には敬語を使う」「打ち解けた間柄の人にはタメ語を使う」の2種類しかない。だから使い分けはできなくて当然だ。若い人にとって敬語が難しいのは、敬語が使われるもととなっている身分制度を実感していないし、敬語の用途も違うからだ。

今では「初対面の人には敬語を使う」という規則なのだから、それに加えて自分が下であることを表す方法がない。だからバイト店員は困るわけである。普通にですます調で話すだけなら、クラスのあまり知らない同級生と話すのと同じになってしまう。本当はそれでいいんだが、「社会人は敬語を使わないといけない」という固定観念から、それ以上の何かをしなければならないように考えてしまう。そのため、敬語に敬語を積み重ねたような変な表現になってしまうのである。

変な敬語が耳につくのは、敬語を使いすぎるからだ。そしてなぜそうなるかというと、誰かさんが「お客様には親しみをもって敬語を使え」と矛盾したことを言うからだ。敬語は親しみがないことを示す言葉なのだから、こんなことはできるはずがない。だから、「親しみをもった敬語」を新たに発明した。これが最近良く聞く変な敬語の正体である。


敬語がいろいろと問題視されるのは、(本来の用途での)敬語がもう時代遅れだからだ。人に上下関係をつけることができるという考え方は100年も前に福沢諭吉が否定したにもかかわらず、まだそんな江戸時代の考え方に固執している人がいる。店員に敬語を使われて自分がお侍様か華族にでもなったようないい気がするのは老人だけで、今の時代の人はそもそもお侍様も華族も知らないから何とも思わない。これは天皇に無意識に「陛下」を付けてしまう世代とそうでない世代の違いとほぼ一致する。

そんなわけで、ある世代の人は敬語排斥運動を始めた。これはかっこ良く言えば平等を勝ち取る戦いだ。「近頃の若いモンは敬語を使えない」と年寄りに言われたが、まったく気にしなかった。敬語はない方がいいものであり、敬語を使うのは頭が古い証だったからだ。

それが、時代は変わって、新しい世代が社会に出始めた。彼らは敬語を上下関係ではなく距離を表す道具として使うようになった。彼らは上下関係というもはや存在しないものを表すための道具というものは想像することすらできなかった。だから、敬語を距離を表すための道具として使い始めた。

どこかの頭の古い老人はいまだに「最近の若いモンは敬語を使わない」と言う。それは違う。最近の若いモンは敬語には非常に敏感だ。「敬語を使え」はもはや老人が若者に言う言葉ではなく、若者自らが言う言葉になった。最近になって変な敬語が耳につくのは、最近の若者が敬語を使わないからではなく、逆に若者が敬語を使うようになったからである。少し前までは若者は敬語を使わなかったから、変な敬語が耳につくこともなかった。

結局、敬語が距離を表すようになるのは時代の流れであり、敬語排斥運動の成果である。我々はもはや不要になった敬語というツールを別の用途に転用することにしたのである。そう解釈すれば万事問題なし。


しかし一つ気になることがある。掲示板で「敬語を使え」と書いてあるということは、初対面の人を距離が離れているとみなすところである。趣味や話題が合った人同士なのに、最初から親しく話をすることに拒否反応を示すところが何だかなぁと思うわけである。

電車の中で初対面の人に気軽に話しかける人は、特に年配の方に多い。誰にでもああやって気軽に話しかけることができれば楽しいだろうなぁと思う。しかし、聞く方の立場になってみると、たいてい電車の中で知らない人から興味のない話を延々と聞かされることが多い。知らない人にむやみに話しかけないというのが現代人のマナーだというのには異論はない。

問題は、それがゲストブックや掲示板にまで適用されていることだ。もともとこれらは交流の場である。つまり、いろんな人に気軽に話しかけるための場なのである。そこで「気軽に話しかけるな」というのはおかしい。だったら何のためのゲストブックなんだ。

「敬語で話せと言ってはいけない」と言いたいわけじゃない。そう主張するのは勝手だが、そんな下らないことで人を拒否するなんて少々もったいないんじゃないか、と思うわけである。