「檄を飛ばす」の本当の意味

正しい檄の飛ばしかた

またまた同じようなネタで申し訳ないが、文化庁が今年も国語に関する世論調査なるものをやった。詳細については平成15年度「国語に関する世論調査」の結果についてを見ていただきたい。去年も書いたが、この手の調査はどうも納得がいかない。

言葉の意味は一行で表せるようなものではない。だから、無理やりに一行で表そうとするとどこかに省略が入るのは避けられない。省略されているため言葉の意味を正確に表してはいない2つの文を持ってきて、一方的に正しい/誤りを決めつけるのはおかしい。と、これが私の主張である。

まあその主張は置いといて、私にとって一番違和感があった「檄を飛ばす」について見ていくことにする。


文化庁によると、「檄を飛ばす」は

  • ○:自分の主張を広く知らせる
  • ×:元気のない人に刺激を与える

だそうだ。この真偽は置いといて、「檄を飛ばす」とはどういうことかを見ていこう。

辞書を引くと、激とは「自分の主張を述べて同意を求め、行動を促す文書。檄文。」とある。こういう文書を世の中に「飛ばす」のが「檄を飛ばす」である。これを見ると、「自分の主張を広く知らせる」という意味以外は正解ではないように見える。

では次に、リンクで申し訳ないが檄の例を挙げよう。

「檄を飛ばす」が誤用だと言われて納得がいかなかった人も、これでおそらく納得がいっただろう。「檄を飛ばす」とは、こういう文を回すことである。たしかにこれらの文は「自分の主張を広く知らせる」文ではあるが、単に「自分の主張を広く知らせる」という説明で思い浮かぶものとはかけ離れている。

檄の一番重要な部分は、人々に対して行動することを求めているという部分だ。理由を示して「△△だから○○すべきだ」と言うが、一番言いたいのは「○○すべきだ」の部分である。主張を知ってもらうだけではなく、行動を起こしてもらわないと意味がないのだ。そして、行動というのはたいがい戦いやラディカルな運動である。

檄というのは人々を応援するのにも使われる。行動に出てはみたものの、本当は自分たちの方が間違っているんじゃないかと不安になった民衆に対して「俺達は正しいんだ。迷わず進め!」と言うことである。もちろん、元気がなく行動を起こすつもりのない人に行動を促すためにも用いられる。

野球で監督が「相手は大量得点で気が緩んでいる。お前たちはやればできるんだ。今がチャンスだ。気を引き締めていけば勝てるぞ!」というのも、監督自身の主張を選手に広く知らせることであり、敵の悪い点を書き味方の正しい点を人に知らせることである。だからこれは檄である。この檄の説明として「自分の主張を広く知らせる」という説明と「元気のない人に刺激を与える」という説明とどちらがよりあてはまっているだろうか?私はどっちもあまりうまく言い表していないと思う。


現代日本で一番「檄が飛んだ」のはおそらく大学紛争のころだろう。上に出した例のような文書がいくつもいくつも発行されたことだろう。このタイミングでこの言い回しが一般に定着したのではなかろうか。

そうした文書がいつの間にか「自分の主張を述べる」ではなく「刺激を与える」になってしまった。おそらく、大学紛争末期には既に主張なんてどうでもよくなっていたのではないか。ビラの内容よりビラを刷ること自体に意味が出てきてしまい、それが活動に刺激を与える役割をしたのだろう。ビラが回ってきさえすれば、内容などおかまいなしに「やるぞ!うぉー!」てな気分になったのだろう。

市民運動などで、あまりにも感情的かつ非論理的な発言が目立つところがいくつもある。会社でも、ただただ精神論と「頑張れ」しか言わないような上司がたくさんいる。本人たちは檄を飛ばしているつもりになっているのかもしれないが、他人から見たら意味不明な発言でその場の人々を振り回しているだけのことがよくある。

現代人が忘れてしまったのは、「檄を飛ばす」という言葉の意味ではなく、正しい檄の飛ばし方なのかもしれない。