サービスの終焉

電車で席を譲らないのはマナー違反か

コンビニのレジに行くと、店員が袋を用意して待っているところが少なくない。そして、持っていった品物を有無を言わさずレジ袋に入れてくれる。それが「サービス」だと思っているフシがある。

最近はこんな所ばかりではなく、ちゃんと「袋にお入れしますか?」と聞いてくる所も増えてきた。良いことだ。私はいつも「袋は要りません」と言う。たいていは鞄を持っているか自動車で来ているかのどちらかだし、そのどちらにしても袋は不要なものだからだ。ゴミも出ないし地球環境にもやさしい。勝手にレジ袋に入れるようなコンビニは、客を無理やり「地球環境の破壊者」にしているのだ。(なお、私は地球環境至上主義ではないので、かばんを持っていなかったりして袋が必要な人にまで「レジ袋を使うな」とは言わない。欲しくない人にまで無理に押しつけるな、と言っているだけである。)

結局、私はレジでいつも「袋は要りません」と一言言っている。それで事足りているので問題はないのだが、一つ不思議がある。なぜ「袋は要りません」をわざわざ言わなければならないのか。今まで、「袋が欲しい」と言わない限り袋をくれなかったレジは見かけたことがない。自治体を挙げて(時には店も挙げて)「レジ袋削減運動」とか「買物カゴを使おう運動」なんてやっているのに、問答無用で袋を押しつけるのはおかしい。そういう運動を本気で推進するのなら、レジ袋は原則として出さないようにすべきだ。(おっと、書きすぎた。今回の本題はここではない)


話はがらっと変わって、電車のマナーの話をする。新聞の投稿などで、よく「最近の若者は電車で席を譲らない」なんて老人が言っている。じゃあ昔の若者は譲ったのか?という話は置いといて、よくよく考えてみよう。老人が自分の前に立っていた時、席を譲らないのはマナー違反だろうか?

老人が席を譲ってほしい場合、彼がしなければならないのは、まず優先席の前に立つこと、そして座っている人に「席を譲ってほしい」と一言言うことである。もしそう言われてもまだ若者が席を譲らないのなら、それはマナー違反である。そこまでされて席を譲らない若者はなかなかいないだろう。しかし、そこまでしている光景は見たことがない。

若者の感覚では、逆に、老人らしき人が前に立ったからといって席を譲る方がマナー違反である。それは相手を勝手によぼよぼの老人扱いすることだからである。「相手が譲ってくれと言ったら譲るが、そうでない限り譲らない」というのが正常な若者のマナー感覚である。

老人たちは「何も言わなかったけれど何もしてくれなかった」と怒るが、何も言わなければ何もしてもらえないのはよく考えれば当たり前だ。逆に、何も言わないのに何かするのは善意の押しつけである。席を譲ってもらいたければ、まず席を譲ってもらいたいことを表明しなくてはならない。話はそこからだ。


こんなことを言うと、年寄りは「気が利かない」とか「相手の立場に立ってものを考えるということをしない」と言い出す。彼らにとって「気が利く」とは、何も言わなくても相手の思っていることを察知して相手にサービスすることだ。しかし、今の時代の若者にはそんなことはできない。その能力がないのではない。相手の思っていることが多様化したからだ。商品をレジ袋に入れてくれることがサービスだと思っている人もいれば、反対に入れないことがサービスだと思っている人もいる。だから、どちらの方が相手が喜ぶのかはその人に直接聞かないことにはわからない。そして、相手の意向を聞かないで勝手にその人に何かすることはマナー違反である。

つまり、「何も言わなくてもやれ」というのは単なる老人のわがままである。「昔は皆そうだった」というのは、単に昔が今のように複雑でない、単純な世界だったからである。こういう老人に限って、ありがた迷惑な数々の「サービス」をやらかす。自分にとってはありがたいことでも他人にとっては迷惑かもしれないということに思い至らないのだ。現代の世の中では多種多様な価値観があり、自分が良いと思っていることを皆良いと思っているとは限らない。


人がやってほしいと思っていることは聞いてみないとわからない。聞かなくでもわかると思っているのは、単にわかったと勘違いしているか、いろんなと付き合っていないだけである。なぜなら、人がやってほしいと思っていることは多種多様で、場合によっては正反対のこともあるからだ。

サービスというのは、相手に気を配るということである。しかしこれは相手のことを自分勝手に推測して相手に便宜をはかるということではない。まず何をしてほしいのかを相手に聞いてからでないといけない。同様に、サービスしてほしいのなら、サービスしてほしいと言わなくてはならない。何も言わなかったくせに何もしてくれなかったと怒るのはまったくもって自分勝手だ。