神道における神

なぜ靖国神社へ参拝してもいいのか

日本の首相が靖国神社へ参拝するしないで毎回大もめにもめる。ここでは深く是非について論ずることはしない。個人的にはわざわざ国家間のトラブルを起こしてまで行く必要はないと思っている。参拝というのは形ではなく心だから、こっそり拝めばそれでいい。

しかし、大戦直後のアメリカといい、現在の中国といい、神道における神というものを一般の「神」と勘違いしているように見受けられる。神を英語でゴッドと訳すところからすでに間違いである。神社に祭られている「神」は神道の概念である。専門用語だから英語に訳しようがない。「カミ」と呼び、「ゴッド」とは別物だと言えばよかったのだ。

今回は日本人も半ば忘れかけている、神道における「神」の概念について考える。ここでは特に注釈のない限り「神」という言葉を神道の専門用語として使う。(西洋における)一般概念としての神は「ゴッド」と呼んで区別する。


神道では「万物に神が宿る」という。概念的にはすべてのものに神様がいるのだ。すべての木にも、すべての石ころにも、そして我々にも神が宿っている。そして、珍しいものやすごいもの、重要なものは特別に「神様」と呼んで崇める。すべてのものには魂がある。そしてその魂こそが「神」である。こういう考え方だ。

「神」は「ゴッド」ほどたいしたものではない。あちこちにいるものだ。そして人は死ぬと誰でも神になり祖先のもとへ帰っていく。しかしキリスト教や仏教と違ってこの世から離れて天国や極楽浄土へ行くのではない。この世とあの世はどこかでつながっている。そこで文字通り「草葉の陰から見守っている」のだ。こうして神になった人は同じように神になった祖先の集合である「氏神」となって、近くの神社にまつられる。特別な日や特別な場所を通じて神はこの世に気軽にやってくることができるし、特定の場所が気に入ればそこに居座ることもできる。

神道によれば、日本人は神の子である。これはキリスト教がいう「神の子」とはまた違う。キリスト教では人間は神によって造られたものであるが、神道では人間は文字通り神の子供であって、神の一族なのである。こう書くと不遜な考え方に見えるが、実際は「神」という言葉の定義が違っているだけである。日本人は「神」の子であって、「ゴッド」の子ではない。逆に言えば、日本人にとっての神というのはその程度の存在であるということだ。

だから、日本流の「神と崇める」という行為は、欧米流の「神と崇める」という行為とはまったく違う。神というのは自分がやがてそうなるはずのものだからである。「天皇は神様である」というのも、本来死んでからなるはずのものが何かの力によって死ぬ前になったというだけだ。天皇が特別なのは「神である」ということではなく、「生きながら神になる」という点においてである。誰でも死ねば神になるのだと考えると、その時期がちょっとだけ早まっただけのことだ。それほどすごい主張をしているわけでもない。


さて、靖国神社の話に移ろう。靖国神社は「日本の国内で戦乱に殉じた人達、あるいは外国との戦争で戦死した人達を祀る」神社である。ここにA級戦犯の人々が祀られているのはこの定義からいえば当然の話である。そしてそこへ参拝する人は自動的にA級戦犯にも参拝することになる。

ここで一つ疑問がある。神になったA級戦犯の人々に参拝することは悪いことなのだろうか?神道では死んだ時に生前の罪はすべて消え去り、純粋な魂として迎え入れられることになっている。だからA級戦犯だろうが極悪殺人鬼だろうが神になってしまえば関係ないのである。神道の立場で言えばどんな悪人(だった神)を崇拝するのも問題はない。

このように神道は性善説に基づいている。すべての魂は神であり善である。悪は魂の内側から出るのではなく、外側からやってきて魂にくっつくものである。だから「みそぎ」をする。海や川に入れば罪が洗い流される。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もあるが、悪人というのは心の底から悪い人なのではなく、たまたま悪が身にくっついてしまった不幸な人なのである。

宗教というのは多かれ少かれ「悪人を救うもの」である。キリスト教でも仏教でもそうだ。善人より悪人の方が往生をとげる。悪人だからといって石を投げてはいけない。そして神道では、悪は自分から落とそうとすれば落ちるものである。自分が善人だと思っている人が一番の困り者だ。

というわけで、A級戦犯が合祀されているということは神道の立場では問題にならない。問題にするのは心の狭い考え方だ。おそらく勘違いは「神」と「ゴッド」を混同することにあるのだろう。神道において神とはそこら中にいくらでもいるものなのである。神道でいう「参拝」はキリスト教でいう「崇拝」とは違うものである。「崇める」というより「畏れる」という言葉の方が適切だろう。


「外国人などの戦争を共に戦った犠牲者の中にここで祀られていない人もいる」という批判もある。それはその通りだ。靖国神社でもっとたくさんの人をまつってあげればいい。しかしここに「氏神」の考え方が入るとそう単純ではなくなる。

氏神とは、ある氏族がその祖先やそれに関連した神様をまつるものだ。つまり、一つの神社でまつる神様には関連がなくてはならない。言い換えれば「仲の良い」神様でなくてはならない。仲間の神様は一緒にまつれるが、仲間ではない神様を一緒にまつることはできない。神様が喧嘩するといけないからである。

そもそも、A級戦犯だって「お国のために」働いたという面では同じである。ただやり方が悪かっただけである。逆に強制連行で働かされた外国人は「お国のため」とは考えなかっただろう。ここでいう「お国のため」とは、自分がそこに所属していてそれの利益のために働くということである。ここでお国=氏族とすれば理解できるだろう。「お国のために働いた人をまつる」というのは、お国のために働いた人が偉いからまつるのではなく、お国のために働いたということは自分たちの仲間であるということだからまつるのである。自分たちの仲間であればどんな極悪人でもまつるのである。なぜなら罪という概念は死んだ時点で消えるのだから。

靖国神社に入れない神様がいるというのは靖国神社の責任ではない。無理に靖国神社に入れるのではなく、他に入る場所を建ててあげればいい。しかし、すべての人を同じ神社に一緒に入れることはできない。「仲間」ごとに別々に入れてあげないといけないからだ。逆に「俺を勝手に靖国神社へ入れるな」というのは正当な要求である。ただ、ここにはお金の話(遺族年金の話)が関係するから実際はもっとややこしい話だが。


このように、「まつる」という概念は神道独特の概念であって、なかなか理解の難しいものである。この問題について善し悪しだけで判断してはならない。なぜなら善し悪しの概念そのものが食い違っているからである。結局、靖国神社の行為が問題ではなく、その裏に国家が見え隠れしているから問題なのである。これは神道の問題ではなく政教分離の問題だ。

ではどうしたらいいのだろう?もし本当に「政教分離」をうたうなら、政治は宗教的な行為は一切してはいけない。「追悼」は宗教だ。そもそも追悼が必要だという概念が宗教なのである。○周年記念というのも宗教だ。毎年8月15日に何かをしなければならない理由はどこにもない。こう言うと、ほとんどの式典はできないことになる。式典というのはつまり宗教だからだ。

まじめに政教分離を目指している国はそう多くはない。アメリカだって大統領は聖書に手を置いて宣誓する。イギリスには国教会がある。そもそも「日曜日は祝日」という概念すらキリスト教のものである。本来、宗教というのは人々の生活習慣に深く根ざしたものであるから、簡単に分離することはできないものである。

日本でのこの問題における混乱は、神道というものが日本にしかなく、一派しかなかったことが原因だ。戦前に日本の神道がカルト色を強めていった時に、その他の神道が存在しなかった。残念ながらカルト以前の神道は明確な形として存在してはいなかったし、一時期は信者のほぼ全員がカルト的分派に属してしまっていた。そして戦後に神道が一緒くたにされて否定されてしまった。本当は悪いのは神道そのものではなく、神道をかたるカルト的一分派(国家神道)だったはずだ。キリスト教なら、たとえどこかの異端の一派が悪であってもそれはキリスト教が悪であることにはならない。しかし神道は(表立っては)一派しか存在しなかったから、「神道は悪」と決めつけられてしまった。そして皆その他に宗教を知らなかったから、「宗教は悪」になってしまったのだ。

「神道は悪」と決められてしまった日本人は、神道が形のないものであることに目をつけて「これは宗教ではない」と言うことによって自らの神道を正当化した。そして「神道」という言葉の代わりになるものを何も考えなかった。古来からあるものにせっかく「神道」という名前をつけたのに、また名前がなく何とも呼びようがないものに戻ってしまったのである。そして、宗教とは何かがうやむやになってしまった。

今の日本では「宗教をやっている」というだけでうさん臭い人に見られる。宗教と言うとオウム真理教とか統一教会といった社会的に問題のあるカルト宗教の名前しか出てこない。こういう考え方をする人は、自分がいかに「宗教をやっている」かに気づいていない。初詣に行くのも葬式をするのも立派な宗教行事である。ご飯の前に「いただきます」と手を合わせるのだってある意味宗教行事だ。宗教というのは本来人間の生活の根本にかかわる大事なことだ。日本人は宗教を信じていないわけではない。自分たちの宗教に名前をつけていないだけなのだ。


まとめよう。厳密に政教分離を適用しようとするなら国家はいかなる行事もしてはならない。そうではないなら、一般に日本人が信じている広い意味での「日本教」に基づいて行事をすべきだ。ここは日本なのだから、日本国は日本で一般に信じられている宗教に基づいた宗教行事をして悪いということはない。

ただ、明治以降につくられたいわゆる国家神道は「日本教」ではないし神道そのものでもない。例えて言えばオウム真理教と仏教の関係のようなものだ。国家神道は悪だったかもしれないが、神道自体は悪でもなんでもない。だから、問題にすべきは「その行事が宗教的か否か」ではなく「その行事は広い意味の「日本教」のものなのか、国家神道特有のものなのか」である。そして広い意味の日本教には国がかかわってもいいが、国家神道という特定の一派にはかかわってはいけない。これが「政教分離」である。

最後に補足しておくが、こうした政教分離の概念も最近では揺らいでいる。フランスであったスカーフ着用問題などである。これは、上で述べた「日本人が信じている広い意味での宗教」というものが多様化によってもはや存在しなくなったという問題である。昔は国民というものの最大公約数をとると何かが残った。それが「日本人」であり「日本という国家」である。しかし今では多様化によって公約数は何も残らなくなってしまった。すると今度は「日本人とは何だろう」「日本とは何だろう」という問いになってしまう。これは難しい問題なのでここでは問うだけにとどめるが、この問いに答えが出せない限り「国は儀式を一切してはいけない」としか言えなくなる。