現実という虚構

「虚構と現実の区別がつかない」というのはどういうことか

だいぶ昔に書いたコラムと同じようなテーマでまた書くことにする。最近のファンタジー(あるいはSF)にリアリティがないという話である。それは描き手や読み手が未熟なせいだと思っていた。しかし実はそうではなかったという話である。

昔は必死になって現実感を出そうとしていた。今では必死になって非現実感を出そうとしている。良い例が映画「マトリックス」だ。これはアニメやゲームにある非現実的な動きをあえて実写で表現した。今のアニメは必死でアニメらしい表現を追求しているし、ゲームは現実をシミュレートすることをやめて爽快感を追求する方向に向かっている。つまり、現実感を出すことができないのではなく、現実感を出すことをわざとやめたのだ。

「現実より虚構の方がカッコ良い」というメッセージだ。昔は違った。作られたお話であること、つまり虚構を感じさせる時点で失格の烙印を押された。ウソ臭いものはそれだけで良くないものとされたのである。それが今では違う。現実なんかよりウソ臭くてカッコ良い方がいいのだ。

そういう意味では映画「マトリックス」は本当によくこの問題をとらえている。幸せならたとえそれが現実でなくてもいいか?昔ならはっきり「ノー」と言えた。しかし今では「うーん、もしかしたらイエスかもしれない」と思い始めている。


映画「ロード・オブ・ザ・リング」で一つの指輪が商品化されている。卒直に言えば「お前そんな恐しいもの売るなよ/買うなよ」と言いたい。ファン以外が買うとも思えないが、本当にファンはこんなものを買うのだろうか?そもそも、こんなものを抵抗なく買える人はファンと呼べるだろうか?

指輪物語を読んだ人や映画を見た人ならおわかりだろう。一つの指輪というのは悪の象徴である。とてつもなく恐しいものなのだ。この話にリアリティを感じている人ならばそんな恐しいものを買うことはできないだろう。これは極めて悪趣味である。骸骨やナチの鈎十字をキーホルダーにしているようなものだ。

もちろん、骸骨と一つの指輪には大きな違いがある。前者は現実であり後者はフィクションだ。しかしフィクションを本当にあった事だと(理性的ではなく心情的に)思い込むのがファンではなかろうか。だから登場人物の誕生日をお祝いするのだし、物語の舞台となった場所へ行ってみたいと思うのだ。フィクションを「実際にはなかったこと」と割り切ることができないのがファンだと思うのだが。「しょせんただのお話だ」と言う人にはファンを名乗ってほしくないというのが心情である。

映画「ファインディング・ニモ」の後にクマノミが乱獲されたというニュースもあった。これも同じだ。映画を見てそれにリアリティを感じた人にはできるはずのない行為である。まあ乱獲自体はどこかの悪徳業者がやるのだろうが、映画を見た後にそれを買ってきて自分の家の水槽に入れるのもどうかと思う。なぜ映画を観ておきながらそんな事ができるのだろうか。

これらは虚構を自ら否定することである。「一つの指輪は滅ぼさなければならない」と言っておいて裏で一つの指輪を売る。あるいは「ニモは水槽に入れられてかわいそうだ」と言っておいてニモを水槽に入れようとする。だから「お前は言っていることとやっている事が違うじゃないか」と文句を言う。すると「ああ、さっき言ってたことは嘘なんだよ。知らなかった?常識で考えればすぐわかるだろ」と言われる。もちろん知っていた。しかしそれを自分から言ってほしくはなかった。幻滅だ。

ではストーリーと矛盾がなければいいのだろうか、というとそうでもない。若干ぶち壊し度は減るが、虚構のものに関連したグッズが商品化されている時点でどこかしら幻滅する。仮面ライダーベルトを買ってもらって喜んでいるガキと自分が同列だと思うと情けなさを感じる。だからやっぱり買う気になれないし、買うとしても堂々とは買えない。虚構で喜んでいること自体がガキなのだ。

虚構は現実ではない。それをごっちゃにしているのはガキだけだ。大人にもなって虚構と現実の区別がつかないのは情けないことである。いつまでも虚構で遊んでいないで現実だけを見なければならない。とはいってもやっぱり虚構も手放したくない。結局のところ、罪悪感を持ちながらも自分を騙して虚構と付き合っている。


こうしたリアリティの問題をぶち破った例が「萌え系」である。昔はご都合主義は嫌われた。「どう見てもモテなさそうな男に突然彼女が何人もできるなんてあり得ないだろ」と言われた。そんなのは男の身勝手な妄想である。夢オチという言葉もあって同様に嫌われた。妄想を見せるな!現実を見せろ!と読者は怒った。

それに対して「これは妄想だ。それの何が悪い」といわば開き直ったのが「萌え系」である。開き直って気がついた。何もわざわざ現実にこだわる必要はなかったのだ。身勝手な妄想全開で良かったのだ。いかに虚構であっても楽しければそれでいい。書きたいのは女の子なんだから女の子を書いて何が悪い。読者も本当に見たいのは女の子だけなんだ。こう開き直ることで申し訳程度にもつじつまを合わせる必要がなくなり、全面女の子のオンパレードでも問題がなくなった。

書き手が開き直ったのと同様に読み手も開き直った。見たいシーンだけを見て何が悪い。ストーリーを読みたいわけでも設定の妙を味わいたいわけでもないんだからそんなものはなくていい。「妄想を見せるな!」と口では言っていたが、あれは格好をつけただけで本当は女の子の絵が好きなんだ。自分の気持ちに正直になってわかったよ。こう書き手も読み手も開き直ったことで何ら障害はなくなった。双方が幸せになるこのシステムは素晴らしいシステムであり、当然のことながら繁栄している。

こうして書き手と読み手の間に契約ができた。書き手は読み手が見たいシーンを見せるのが仕事である。それが「お約束のシーン」である。読み手の方が「こんなシーンが見たい」と要求を出し、それに書き手が応える。つまりストーリーのオンデマンドである。こんなシステムは以前は成り立つはずがなかった。「現実」はいろんな要求に応えられるほど簡単なものではないからだ。読み手が「こんなシーンを見たい」と言っても書き手が「いや、それは現実にはあり得ないから」と断わった。しかしそこで「いや、現実でなくてもいいから見たい。そもそもあんたが書いてたのはすべて現実じゃないでしょ」と言われて言い返す言葉がなくなった。「なんだ、それでよかったんだ」と。今まで苦労していたのがバカみたいだ。どうでもいい事をあれこれ考えずひたすら読み手の要求に応えることにのみエネルギーを振り向けた結果、読み手が本当に求めるものが出来上がった。

そもそも「リアリティはないよりあった方がよい」という考え方が間違っていたのだ。どれだけがんばったとしてもリアリティはまがいものだ。虚構は現実そのものには決してなれない。だったらそんな事にこだわる方がバカバカしい。虚構を「これは現実だ」と騙すのはやめよ。現実は現実、虚構は虚構と割り切ることで幸せになれる。


ホラー映画で「虚構と現実の区別がつかなくなる」問題がよく言われるが、これもはっきりさせておきたい。ホラー映画を見る人は「現実と虚構の区別がつく人」であり、ホラー映画が苦手な人が「現実と虚構の区別がつかない人」である。それも今までの話の延長線上である。ホラーを虚構だと割り切ることができる人はあまり怖がらない。ホラー映画での虚構体験を実体験と同様に受け取ってしまう人は、ジェイソンがスクリーンから飛び出てきて自分を襲うわけはないのに「そんな怖いものはどうか見せないでくれ」とホラー映画を拒絶する。怖すぎて到底見られないのだ。

ホラー映画はある意味自己矛盾を含むジャンルである。ホラーというのは観たくないものを観せることである。だからホラー映画を楽しむためには「これは虚構だ」と主張して現実と虚構の区別をつけなくてはならない。しかしいったんその区別がついてしまうとホラー映画は怖くなくなってしまう。だから虚構を現実の方に近づけること、すなわちリアリティを高める方向に進化する。

だからホラー映画に対して「現実と虚構の区別がつかなくなるのではないか」という心配はあまり当てはまらない。ホラー映画を見る人はすべて現実と虚構の区別がついている人で、あまりにもつきすぎるために悩んでいる人達だ。「スクリーンに写し出される」というだけでリアリティを感じることができなくなってしまう人だ。だからできるだけリアリティのあるお話を見たいと思う。作り手もその要求に従ってできるだけ現実と虚構の区別がなくなるような話をつくる。現実と虚構の区別をつけることのできない人はそれを見て「こんな話では現実と虚構の区別がつかなくなるのではないか」と思う。それは自分にその能力がないだけだ。

しかし、ホラー映画も同様に虚構が現実であろうとするのをやめた。そして「俺は虚構だ」と言い始めた。しかしそれではホラー映画は成り立たない。だから代わりに「現実は虚構である」と言い始めた。現実と虚構を近づけようとするのに、虚構の方を現実に持っていくのではなく現実の方を虚構に持っていこうとしたのだ。これが新しい「現実と虚構の区別がつかなくなる」問題である。


虚構というのは現実であるかのように作り上げないといけない。いや、正確には現実であるかのように作り上げたものを虚構と呼ぶ。だから虚構にはリアリティがなくてはいけないのだ。もっと正確に言えばリアリティがなければ虚構ではない。

しかし、虚構はつくりものであるがゆえにどれだけがんばっても現実にはなれない。いつ「お前は現実ではない」と言われるかとびくびくしながら過ごさなければいけない。それに気がついて、虚構は自ら現実に近づくのを放棄し「俺は虚構だ」と宣言した。それはもはや虚構ではない。妄想である。しかしここで「妄想はいいものだ」と妄想を肯定してしまった。今まで虚構が必死に現実を追いかけていたのは妄想扱いされるのが嫌だったからだ。しかし妄想でも良いと開き直ってしまえばもはやわざわざ現実を追いかける理由はない。妄想には制限がなくやりたい事は何でもできる。そして妄想は独立して走り始めた。

虚構が現実に近づくのをやめ、反対に現実の方から虚構に近づき始めた。人々が現実より虚構の方に多く接するようになったからである。自分が現実だと思っているものの多くは自分が直に接しているものではなく、テレビや噂や本やインターネットで取得したものである。「本当はアポロは月へ着陸しなかった」と言われてもそれが嘘かどうかを判断することができない。現に旧石器は捏造だったじゃないか。虚構の力が増したおかげで今では現実とは見分けのつかない虚構をいくらでも作り出せる。そのせいで、「現実は確実に存在する」という安定性が崩れ去ってしまった。

現実は絶えず「それは本当は虚構じゃないか」と疑ってかからなければいけないのに対して、妄想は確実に妄想のまま変化しない。現代では現実は不安定であり、妄想こそが強固な土台である。そして妄想ならやりたい事は何でもできる。妄想は偉い。現実はどうでもいい。


話が前後して申し訳ないが、「オタク」という言葉をここで始めて出すことにする。妄想を肯定すること、あるいはそこから発展してすべてのものを肯定することが「オタク的考え方」である。

オタクはその前の世代(「シラケ」と呼ばれていた)に対するアンチテーゼだ。シラケは「現実以外のものには価値がない」と言った。すべてのものは現実(今自分の置かれた状態)にとってメリットがあるかどうかだけで決めるべきだというのだ。言い換えれば「役に立たないものには価値がない」と言ってもいいだろう。

それに対してオタクは「すべてのものには価値がある」と言う。価値がないと思えるものはそのもの自身のせいではない。単に自分がその価値を認めることができないというだけだ。つまり、すべての事に対して「それはメリットがある」と自分が思いさえすればすべては役に立つものであり価値のあるものだということだ。つまり、価値というのはものについてまわるのではなく評価する人についてまわるものだということだ。

「オタク」が真の意味で成立したのは「オタク」が侮蔑語でなくなった時点だ。以前は完全に侮蔑語だった。オタクというのは「虚構の世界にいて現実というものの価値がわからない人間のクズ」だった。それがいつの日か、オタクが「俺はオタクだ」と堂々と言うようになった。現実でないものにもいいものはたくさんある。現実でないものには価値がないというのは狭量な考え方であり、そういう一面的な物の見方しかできない方がバカだ。価値を見出せないのはその対象のせいではなく、自分の考えが足りないせいである。これがオタクの考え方である。

例えば、「クソゲー」という言葉がある。一般的にはこれは単に「つまらないゲーム」という否定的な評価だ。しかしオタク的には違う。「どうしようもなくつまらないゲーム」である。単につまらないゲームとは違って、どうしようもなくつまらないゲームはやってみる価値がある。実際にやってみてそのどうしようもなさを笑うのである。矛盾した言葉だが「どうしようもなくつまらないからこそ面白い」のである。「トンデモ本」もそうだ。単に論理の破綻した本ではなく、どうしようもなく論理が破綻した本はかえって面白い。つき抜けて価値のないものはかえって価値がある。「価値のなさ」を価値とみなすことである。

オタクにとって、価値のないことはそれ自身が「価値」である。だからすべてのものには価値がある。彼らに「それには価値がない」とは言ってはいけない。それが何であれ、それに「価値がない」と言うのはバカの証拠だからだ。抽象画を「なんだかワケがわからん」と否定するバカと同じだ。その「なんだかワケがわからん」こと自体が否定されるべきものではなくかえって肯定されるべきものなのだ。そういう理解力が足りないからバカだと言われるのだ。


オタク世代が虚構を肯定したおかげで、我々は堂々と虚構に遊ぶことができるようになった。会社員になってマンガを読んでいてももう何とも言われないし、大人になってチョコのおまけを必死になって集めるのも変人のやることではない。虚構が現実と切り離されて存在できるようになってしまうと、もはやわざわざ現実と虚構を見分ける必要もなくなってしまう。

「現実でなくても虚構で良い」これは強烈なメッセージである。既存の価値観に根本的な見直しを強いられる。オタク世代が起こす様々な衝突はこんな所にも原因がある。