カネの時代の終わり

カネの時代から知識の時代へ

現代は知識の時代だとよく言われる。知識の価値を重んじよ、と。20世紀はカネの時代だった。21世紀は知識の時代だ。

と言われると、うんうん、そうだよなぁ、知識も重要だよなぁ、と思う。しかしそんなのんきな話ではない。この話はもっとラディカルだ。カネの時代は終わった。21世紀は知識の時代だ。カネは完全に知識にとって代わられる。

カネというのはすなわち価値観だ。だからカネの時代の終わりというのは価値観の転換を意味する。従来の価値観はすべて見直しを迫られる。無価値だと思われてきたものが尊ばれ、今まで善だったものが悪とみなされる。特に後者に気をつけよ。今好まれているものはもうすぐ嫌われるようになるかもしれないのだ。

カネの価値観というのは、「すべての価値はカネで測られる」というものだ。誰しもカネが欲しい。カネを持っている人の方が偉い。カネさえあれば何でもできる。こういう価値観である。こう言うと、「そんな事は当たり前だ。世の中カネがすべてじゃない」と言う人もあるだろう。その通りだ。今はちょうどカネの力と知識の力が釣り合っている時期だからである。その力関係はそのうち逆転してこう変わる。「カネはなくてもいい。知識がすべてだ」と。誰しも知識が欲しい。知識を持っている人の方が偉い。知識さえあれば何でもできる。そんな時代である。

20世紀のカネの特権は、「カネを持っている人だけがカネを儲けられる」という特性によるものだ。カネを持っている人は工場に投資してよりカネを儲けられる。カネが指数関数的に増えていくのだ。それに対してカネを持っていない人は、あるかないかのほん少しずつしか増えない。だからカネを持っている人は無条件で偉い。カネを持っている人はいくら使っても倍々に増えていくから全然困らない。一般庶民はいくらコツコツと貯金を貯めてもそんな境地には至れず、そこに到達するには宝くじを当てるしかない。そういう世界である。

これがそのまま21世紀の知識の特権にあてはまる。知識を持っている人だけが知識を得られる。たくさん知識を持っている人はすらすらと本が読め、ベースとなっている基礎知識からたくさんの応用知識を生み出せる。知識が指数関数的に増えていくのだ。しかも知識はいくら使っても減ることはない。それに対して知識を持っていない勉強嫌いな人は本を読まないし、本を読もうとしてもすぐ眠たくなってしまう。Webで知識を検索するのも面倒だし難しいことを考えるのも嫌いだ。すると知識は増えない。困ったことに知識にはカネにおける宝くじのような存在はないから、知識のない者は永遠にないままだ。


カネの独占的な特権が崩れたのは、「カネを持っている人だけがカネを儲けられる」という原則が崩れたからだ。昔は工場を建てて物を造りさえすれば儲かったが、今ではそうはいかない。何を造ればいいかを考えなくてはいけない。逆に、何を造ればいいかさえ知っていれば新興株式市場を使っていくらでもカネを集めることができる。これが実際に起きたのがITバブルだ。アイデアに適当に名前をつけて会社を興せばカネがいくらでも流入した。

しかしITバブルは崩壊した。これは会社が乱立してどうしようもないクズアイデアにまでカネが流れ込んだからだと思われている。しかし一番の原因はアイデアの価値が下がったからではない。カネの価値が下がったからだ。インターネット上でやりたいことをやるのにわざわざカネを集める必要はないことに気がついたからだ。そして市場に残っているのは未だにカネをありがたがっている間抜けばかりになってしまった。これでは崩壊も時間の問題である。

インターネット上でやりたいことをやるのにカネは必要ない。どこかの無料レンタルサーバを借りてホームページを開設すればよい。それが軌道にのって無料サーバでは運営できないようになったら、「もう無料サーバでは運営できません。このままでは規模の拡大はできません」と言えばよい。もしそのサービスが本当に必要とされているならどこからかカネが出てきてなんとかなってしまうはずだ。なんともならなかったら「俺は知らん。規模が拡大できないのはお前らのせいだ」と言って、資金を出してくれる人をずっと待つだけでよい。それでも本当に資金が出てこないのならそのアイデアはその程度だったということだ。

カネはもはや持っていなくてよい。インターネット上に価値のある知識を提示すれば必要なだけ降って湧いてくるものだからだ。降って湧いてこなかったとしたらそれは価値のない知識だったからである。知識を持っている人は無条件で偉い。知識さえあれば必要なものは何でも調達できる。単に「俺にこれをくれ。でないともう知識は提供しない」と宣言すればいい。そしてその人の知識がそれに見合うほど価値の高いものだったら誰かがそれをくれるし、そうでなければ何も起きなくておしまい。これが知識の時代だ。


そんなバカな、ただ待っているのではなく積極的に資金提供先を探すべきだと言う人がいるかもしれない。しかしそれで何になるというのか。資金が提供されて自分の考えたサービスの規模が拡大して何になるというのか。それで自分が興した会社の株が値上がりして何億にもなったとしてそれがどうだって言うのだ。カネにはもう価値はない。そんなクズをありがたがっているのは間抜けだけだ。

「カネなんて儲けて何がうれしいんだ?」という根源的な問いが皆につきつけられる。それに「ばかばかしい。カネはあればあるほどいいんだよ。当たり前じゃないか」と言う人は旧世代の人間であり、未来はない。「金持ちにはならなくていいから自分の好きなことがしたい」という人は新世代の人間だ。ちなみに「未来はわからないけど、今はまだカネの力が残っているからあるうちに儲けて使っておいた方がいい」という人は現世代の人間であり、世の中で一番成功する。

ただ「好きなこと」がカネやモノに結びついていてはいけない。海外旅行に行きたいとか旨いものを食べたいという人はやっぱり旧世代の人間であり、そういう人にとっては知識の時代はつらいものになる。アニメ情報の収集に命を賭けているようなオタクが知識の時代に生き残る。それは次世代の価値である知識を増やすことに喜びを感じているからだ。20世紀では仕事だけが生きがいの仕事バカが大金持ちになったように、21世紀では知識だけが生きがいの知識バカが大知識持ちになる。そして21世紀では大金持ちより大知識持ちの方が偉い。


カネというのはモノと密接に結びついている。カネという仕組みはモノをやりとりし、モノの価値を評価するための仕組みだ。だからカネの時代の終わりはモノの時代の終わりでもある。

カネはモノとはなじむが知識とはなじまない。モノとカネはコピーできないが知識はいくらでもコピーできる。モノとカネは使うと減るが知識はいくら使っても減らない。モノやカネはだれか一人が使っていれば他の人は使えないが、知識は同じものを皆で使うことができる。モノやカネをつくるにはモノやカネが必要だ(カネをつくるとはすなわち投資や利子である)が知識の場合にはひらめきによって無からつくり出すことができる。

知識を産むのは基礎知識が助けになるが主に時間である。基礎知識もそれを修得する時間を費した成果であるから、結局のところ知識を産むのは時間だと言ってよい。逆に時間がなくては知識は獲得できない。時間というのは誰にでも平等にやってくるものであるから、それをどう有効に活用するかが勝負である。

このように知識とカネは性質が違うものだから、知識をカネで流通させるのには無理がある。知的財産権は失敗するし、著作権は無視される。インターネットビジネスはモノを介さない限り儲からない。知識を売ってカネに替えようとするから無理が生じるのだ。この理論でいけば、知識を無限にコピーして売れば無限にカネに替えられることになる。しかしカネは無限にあるものではない。この矛盾の発端は知識を売ってカネに替えることができるというところである。「売る」という概念そのものが時代遅れなのだ。

人参や大根が欲しいからといってお金を売って人参を受け取る人はいない。お金を出して人参を買うのだ。お金というのは普遍的価値であって、人参というのは価値が変わるものだからだ。21世紀では知識が普遍的価値であって、お金は価値が変わるものだ。だから知識を売ってカネを受け取るのではなく、知識を出してカネを買うのだ。スーパーで安いからといって必要以上に人参を買い込むと「そんなに人参を買ってきてどうするつもりだ。食べ切れないよ」とバカにされる。同様に、21世紀では必要以上にカネを儲けても「そんなにカネを儲けてどうするつもりだ。使い切れないよ」とバカにされる。

必要以上のカネは意味がないどころか知識への足枷である。会社で偉くなればカネはたくさん儲かるがその分残業が多くなって知識を得るための時間が減る。逆にフリーターはカネは儲からないが知識を得る時間はたっぷりとれる。最近フリーターが増えているわけはここにある。カネより時間の方が重要だからだ。ただしだからといってフリーターになるべきだというわけではない。会社に勤めていても頭脳労働をしていれば仕事を通じて知識は得られるし、フリーターでは単純労働をしている間は知識が得られないからだ。一生のうちに獲得できる知識の総量を考えよ。それが知識の時代の価値判断である。


カネの時代から知識の時代へ移行する一つのきっかけはデフレ経済である。デフレというのはモノの価値が下がることだ。デフレ経済では物はどんどん安売りされるようになる。そこでは安売りバーゲンの情報はそのままお金につながる情報だ。1000円のものが900円で買える店の情報は、その物を1個買うだけで100円分の収益が上がるわけである。

専門的に言えばここに金融工学も加わるだろう。先物やオプション取引を使えばお金のない人でもあたかもお金があるかのように投資をすることができる。20世紀ではお金のある人だけが資本家(ブルジョア)になれた。今では資本家の条件はお金のあるなしではなく投資に関する知識のあるなしで決まる。ここでも知識がカネに取って代わっている。

「デフレ」という言葉を勘違いしてはならない。「モノの価値が下がるということはカネの価値が上がるということだ」という旧来の説明は間違いだ。これは20世紀的なデフレの説明である。21世紀のデフレではカネの価値は下がり、そして同時にモノの価値も下がる。上がるのは知識の価値である。今のデフレは日本がカネの時代から脱却しようとしている証である。経済が良くなるか悪くなるかという質問がよくなされるが、それに対する真の答えは「経済はもうどうでもよくなる」というものである。


カネの時代に引導を渡したのはインターネットだ。インターネットの前はCD にせよ本にせよメディアという「モノ」を必要とした。TVは電波だが、放送機器という高価なモノが必要になる。誰かが誰かに知識を売りたいと思ったらモノを介するよりほかに方法がなく、だからカネを使うしかなかった。

それがインターネットの出現、もっと正確に言えば定額の接続サービスや無料ホームページで変わった。カネがなくても誰でも情報を売ることができる。ここで言う「売る」とは昔ながらのカネによる方法のことではなく、誰かに情報を渡して利益を得ることである。そして利益というのもカネではない何か、例えば知識や満足や信頼や仲間を得ることである。これで知識はカネから脱却した。もうカネなどという不便な代物に頼る必要はない。

21世紀は知識の時代だ。知識があればカネを得ることができる。しかし知識は時間に基づくものであるからカネで買うことはできない。それだけではなく、人から奪うことも人に譲ることもできないのだ。時間は誰でも同じようにしか降ってこないからそれをコツコツ貯めるしかない。そして時間をどれだけ効率よく知識に変換できるかが勝負である。

これはカネより平等な価値観だと思っている人もいるかもしれないが、実際はそうではない。少なくともカネは金持ちから奪って貧乏人に分配することができるが、知識は本人が努力して獲得しなければ増えることはない。そして知識の獲得をどうやってやればいいのか知らなければ、その人は誰がどう手助けしようと永遠に知識を獲得することができない。「知識の獲得のしかた」というのは誰かが教えればいいという簡単なものではなくもっと根源的なものである。

知識を得る喜びを知る人と知らない人、と言い換えた方が適切だろうか。世の中には好奇心旺盛で何でもやりたがる人と、休みの日には家で何もせずボーッとしている人と二通りある。前者は放っておいても勝手に知識を獲得していくが、後者はいくら尻をひっぱたいても義務的にやるだけで自分から進んでやろうとしないから、本当に自分の身になる知識を獲得することはできない。放っておくと格差は広がるばかりだ。しかし何をすれば後者が前者に変わるのか見当もつかない。おそらくこれが21世紀の格差問題である。お金のように外部から解決できないから相当やっかいな問題だ。