「若者の活字離れ」が問題視されて久しい。「若者の〜」というのは、その後に何が続いたとしてもたいてい今に始まった事ではないから、これについてはあまり問題視しない。いつの時代でも若者はあまり本を読まないし、そして本は読むに越したことはない。本来なら「今の若者は〜」というのは年寄りの愚痴として半分聞き流していればいいだけだ。
ただ、これに対して次のような反論がされることがある。「いや、決して活字離れにはなっていない。メールやチャットやネットで昔よりずっと活字に接する機会は多くなっている」と。しかし、活字に触れてさえいれば活字離れではないのだろうか?
まず、「活字離れ」という言葉の「活字」とは、文字通りの活字の事を言っているのではなく本の事を言っているのだということはここでは前提としたい。活字さえ見れば活字離れではないというのは、活字から離れないように活字をキーホルダーにして肌身離さず持っていればいいという話と同じくらい滑稽な話だ。
今回の話は、「メールやチャットやインターネットは本とどう違うか」という話である。
まず物理的な違いの話をしよう。紙と画面というメディアの違いだ。そして(これはWebブラウザというソフトに起因することだが)ページという概念があるかないかの違いでもあるし、縦書きと横書きの違いでもある。
17インチのPC画面の大きさはだいたいA4と同じ大きさである。Webブラウザを全画面にして前回のコラムを表示させてみると、だいたい横80文字×縦52文字=4160文字くらいになる。ではA4の雑誌ではどのくらいの文字が書かれているだろうか。手元にあった雑誌で調べてみると、横22文字×縦63文字×3段=4158文字だった。両者の文字数はほとんど同じである。
ところで、本というのは普通は開いて使われる。見開き2ページが普通の編集単位だ。雑誌のコラムのほとんどは1ページあるいは2ページを単位としている。本コラムは文字数制限がないので適当に書いているが、ほとんどが雑誌のページ換算で1ページから2ページ分に収まっている。長い文章でもだいたい1章分(ブラウザで一度に表示される分量)が雑誌の2ページ分にあたるように作ってある。あまり意識してはいないので逸脱はかなりあるかもしれないが。
本では原稿用紙100枚から120枚程度が次の単位になる。A4の雑誌で10ページ、文庫本で50ページ程度だ。これはだいたい短編小説や科学技術雑誌での1記事の量にあたる。文字数だけでごく大ざっぱに数えると、当サイトの「議論のしかた」は原稿用紙換算で約150枚、他の文書はこれほど多くはないがだいたい100枚前後である。
回りくどくなってしまったが、ここまでで言いたかったのは、Webブラウザと本では文字の表示能力にはほとんど違いはないということと、当サイトの分量はだいたい本の常識に合わせて作ってある(つもりだ)ということだ。
では当サイトはWebの常識からするとどうだろうか?「文字ばかりで読みにくく、しかもやたら長い」という正直な感想をよく聞く。しかし本の世界ではさし絵など入っていない方が普通だし、この文章量では「短編」と呼ばれる。本の常識とWebの常識はこれだけずれている。
このずれこそが本とWebの大きな違いである。視覚に訴えるものがあるかないか、そして文章量だ。本(それも雑誌ではなく小説や論説)では視覚に訴えるものはない。そしてその分文字で表される情報量が多い。この違いだ。
本と同じような内容のWebコンテンツでさえこのように違いがあるのだから、それ以外のコンテンツではなおさらだ。チャットは会話をそのまま文章に置き換えたものだから本とは性格が違うのは当然として、掲示板でも最近とみにチャット化の傾向が強い。「掲示板」という言葉からすると各人が皆に知らせたい事を一方的に掲示する場なのだが、現在では皆が双方向のコミュニケーションツールとして使っている。
同じ事は日記やBlogにも言える。全部を合わせればすごい文章量になるのだが、トピックが細切れであってそれぞれのトピックは数行程度の文章しかない。これらのサイトでは文章を長々と書くことではなく少しずつ毎日書く事に意義があるのだから当然のことだが、これは本とは意味合いが違う。
本とネットの違いは当然ある。本は一方的なメディアなのに対してネットは双方向のメディアだからだ。本では情報を「受ける」ことに意義があるのに対して、ネットでは情報を「発信する」ことに意義がある。しかし情報を受ける事より発信する事の方が難しい。だから普通の人は「本なみの情報をたまに発信する」か「量を少なくして頻繁に発信する」かの二択をせまられる。そしてネットでは内容より発信する事の方に意義があるのだから、量を少なくしてでも頻繁に発信しようとする。だから相対的にネットの方が本より文章量が少なくなってしまう。
本の特質というのは一方的なメディアであることによる。相手からのフィードバックがないから、すべての事を一度に盛り込まなくてはならない。そして受け手も気軽に質問はできないから、文章だけから相手の言いたい事を自分で読み取っていかなくてはならない。だからこそ「大量の情報をいっぺんに消化する力」を身につけることができる。
双方向メディアではそうではない。わからない所はその都度聞けばいいし、言い足りない事は質問があった時に言えばいい。だから必然的に情報は細切れになる。それで身につくのは「細切れの情報を次々に消化する力」である。
前者がゆっくりと深い思考を要求するのに対して、後者は速く浅い思考を要求する。現代生活はスピードとの戦いだから、後者を鍛える方が現代人にとってはためになるかもしれない。しかし深い思考もできるようにしておいて損はない。
本とWebの違いは原理的にはない。1画面に表示できる情報量も同じくらいだし、本の内容はそっくりそのままWebに持ってくることができる。だから「ネットでは本の代わりにはならない」というのは間違いだ。「やはり紙の感触がいい」というのは単なる懐古趣味だし、「本はどこでも読めるから」というのは技術革新によってどうにでもなる。
しかし現状では本がすべての情報を文字で表現しているのに対して、Webは絵やレイアウトなどの視覚に訴える部分が大きい。そして双方向のコミュニケーションツールであるから文章量はどうしても少なくなる。だから「現状のWeb コンテンツのほとんどは本の代わりにはならない」というのは正しい。目指しているものが違っているからだ。
結論。「活字を読め」というのは「まとまった文書を読め」ということであり、いくらチャットやメールに精を出してもそれは活字離れを食い止めていることにはならない。しかしだからといってネットでは活字離れを食い止められないというのも間違いだ。内容によっては十分活字の代わりになる。
なお念のため付け加えておくが、チャットやメールに精を出すなというわけでもないし日記やBlogを書くなと言っているわけでもない。本とは違うと言っているだけだ。そこの所をお間違えなきよう。