今回はネットでの「匿名性」の話をする。最近ではネットが一般に浸透して、「一部のオタクだけが使う変なもの」から脱皮しかかっている。しかし、その主な仕組みは一部のオタクのものだった頃から変わっていない。ここが様々な問題を引き起こしている。
匿名性もこの問題の一つだった。今まではネットを使うのは一部のオタクだけだったから、匿名性もあまり問題にならなかった。しかし一般の人が使うには匿名性は問題である。どこがどう問題なのかを考えてみよう。
まず匿名とは何かという話をしておこう。文字通り、自分の名前を隠すのが「匿名」だ。あるいは本名の代わりに「ペンネーム」または「ハンドル名」などと呼ばれる別の名前を用いる。ネット上では「ハンドル名」という呼称が良く用いられるから、これからはそれを使うことにしよう。
このように、匿名には2種類ある。「匿名希望」という場合と、「ハンドル名○○××さん」という場合だ。しかし後者では同じペンネームを使ってあれば誰かはわからないが同じ人だと判断できる。そして、どちらも本名を伏せているから匿名だ。
こうなると、今度は「本名って何だろう?」という議論になってくる。実際のところ、例え本名であっても「鈴木一郎」のようなありふれた名前であればどこの誰だかわからないわけで、それはハンドル名であるのと変わりはない。本当は「名前」を隠したいのではなく、本名についてくる諸々のもの、例えば年齢とか顔とか住所とか職業といったものを隠したいのだ。
少々逆説的ではあるが、名前を知らせないのが匿名なのではなく、名前以外何も知らせないのが匿名なのである。
相手の事を何も知らないまま付き合うという事は本当にあるのだろうか。普通の付き合いではそれはやりにくくてしょうがない。相手の好みや興味のある事を知っていないとなかなか雑談もできないものだ。しかし、そうでない事例が一つある。オタクの付き合いだ。ある事に興味があって自然と集まった仲間であればこういった問題は起きない。
例えば、テニスサークルで合コンをやろうという時は、参加者の趣味をそれとなく聞き出さなければならない。安い居酒屋でバカ騒ぎをするのがいいのか、落ち着いたバーのような所でしっとりと語り合うのがいいのか、あるいは川原でバーベキューの方がいいのか。好みは人それぞれだから、それぞれの好みを聞き出して多くの人がいいと思う形態でやる方がいい。
それに対してテニスオタクの飲み会は違う。何かが腹に入ってテニスの話ができればそれでいいのだ。だから雰囲気なんかにはこだわらず、一番安い場所でかまわない。とにかく一緒になってテニス話ができればいいのだから、実は飲み屋でなくとも喫茶店でもいいし、極端な話をすると会議室でもかまわない。
テニスサークルというのは「テニスをやるために集まった仲間」である。しかし仲良くなるとどうしてもその仲間とテニス以外の事をしたくなる。すると相手の情報をいろいろ集めないといけない。しかし、テニスオタクは違う。彼らの頭の中にはテニスの事しかないのだ。だから、既知である「テニスが好き」という情報以外何もなくても付き合うことができる。
ネットというのは本来オタク的なコミュニティである。ある目的のもと、あるいはある趣味のもとに人が集まり、そこではそれ以外の事はしない。別にしたい事があれば別にコミュニティを作るなり探すなりする、というのがネットの流儀である。アニメが好きな人が集まるサイトではアニメの話しかしない。特撮の話は特撮のサイトに行ってする。このように役割分担がきちんとされているから、匿名でも問題なくやっていける。
これはネットの「参加が簡単である」という利点によるものだ。普通の集会ではあちこちに出向いていては身がもたないが、ネットではあちこちの掲示板をかけ持ちしていても全然苦にならない。ある話題に対するコミュニティを検索ボタン一発で探せるし、そこにはすぐ参加できる。これは非常に便利だ。
これは現実のコミュニティにはない特徴だ。なぜなら、現実のコミュニティはネットのようにグローバルではないからだ。きっかけも必要だし活動場所も必要である。例えばテニスサークルの例では、友達同士だったとか同じテニススクールに通っていたとか同じ学校の部活OBであるとか、何らかのきっかけがあるはずだ。そして参加資格は少なくとも「毎回来られるくらい近くに住んでいる」という条件もつく。これによって、「テニスが好き」以外の様々な要因が加味されるわけだ。
それに対して、ネットのコミュニティではきっかけは何もない。ただ最初の人が「こういうコミュニティを作りたい」と思い立っただけである。そうして掲示板なりチャットなりホームページを作ると、そこに同じ趣味の人がそこに吸い寄せられるように集まってくる。現実のコミュニティと決定的に違うのは、「一人でコミュニティができる」という点である。きっかけも知り合いも必要ないのである。これはすごいことだ。
ネットのコミュニティは本来、ある目的を掲げてその目的に賛同する人だけが集まってくるものである。そしてそのコミュニティに入れるかどうかというのはその目的に賛同するかどうかだけで決まり、住んでいる場所や年齢や空いている時間には関係ない。集まってきた人の共通点は「コミュニティの目的に賛同する」というただ一点しかない。ある意味とても純粋なコミュニティだ。
そういったコミュニティでは匿名が許されるだけではない。逆に匿名である事が望まれる。例えばアニメの話をするための所ではアニメの話以外はしてはいけない。自己紹介や自分の趣味を話すのは(厳密には)目的外利用にあたる。だから、ネットが匿名なのは自然な事だ。
まとめよう。ネットのコミュニティは本来オタク的コミュニティである。それぞれのコミュニティは話題が決まっていて、それ以外の話題で盛り上がってはいけない。必然的に個人に関する話題はしてはいけない事になる。それが「匿名」という事なのだ。
ネットでの匿名に関するトラブルでは、逆に「匿名」を過剰に適用してしまう問題の方が根が深い。前に述べたように、「匿名」というのは「名前だけを知らせた状態」である。それを「名前を知らせない状態」であると勘違いする事だ。人は名前によって、その発言が他の誰でもない自分のものだという事を主張する。だから、名前を隠すとその発言が自分のものだという事すら隠されてしまう。
これは発言の責任に関わる問題である。名前というのは発言の所有者を表す。つまり、例え匿名であっても、そこにハンドル名が書いてあればそれは誰かが発言したということであり、その人がその発言に責任を持つということだ。それに対して、名前がなかったらそれは誰もその発言に責任を持つことはない。ネットでは、誰が発言したかという事は重要ではない。その発言に責任を持っている人がいるかどうかというのが重要なのだ。
「発言の責任」というのはたいして重いものではない。その発言に対する質問に答える、というのが発言の責任だ。「責任」という言葉はちょっと義務感が強いかもしれないので適切ではないかもしれないが、ある発言に対して「その発言は正しいと思っている人が少なくとも一人はいる」と公表するのが発言の責任である。つまり、発言に名前を書くことによって、「これはネタでも作り話でも嘘でもなく、私はこの発言が正しいと思っている」と表明しているのだ。だから、安心してその発言に対してわからない所を質問したり反対意見を述べたりできる。
名前のない発言は、書き手から読み手に一方的に情報が流れるだけだ。それに対して、名前を書くことによって読み手の側から書き手への通路ができる。これがコミュニケーションだ。名前を書くことにはこういうメリットがあるのだ。
匿名と無記名は違う。匿名とは無記名である事もハンドル名を使う事も含まれる。別にハンドル名はあちこちで使い分けてもいいから、少なくとも一ヶ所では一つのハンドル名を使うことにして、発言する時にはそれを必ず名乗ってほしい。それは発言の価値を高めるために重要な事である。