己の欲せざる所人に施すことなかれ

という言葉の問題点について。

「己の欲せざる所人に施すことなかれ」という言葉を座右の銘にしている人は多い。簡潔でうまく言い表した言葉だ。しかし、私はこの言葉では何かが引っかかる。

まず、原典をきちんと引いておこう。原典は論語である。この言葉が出てくる場所を意訳すると次のようになる。

子貢が質問しました。「一生守るべき信条となるような、そんな一言はありませんか」

孔子は答えました。「まずは『思いやり』だね。人にされたくない事は、自分から人にしないということだよ」

孔子は座右の銘は「恕(思いやり)」であると言っている。「己の欲せざる所人に施すことなかれ」というのはその説明である。説明だけが一人歩きしてはいないだろうか。


私がこの言葉に引っかかるのは2点ある。その1つ目は「○○しない」で終わっているということである。思うに、この言葉が座右の銘として人気があるのは、実行が簡単だからではないだろうか。極端な話、この言葉を守るためには何もしなければいい。

もう一つは、「己の欲せざる所」というところだ。人にされたくない事が多い人ほど、この言葉というのは実践しやすくなる。己に欲せざる所のないような悟りきった聖人にはこの言葉を実践することはできない。わがままな人間ほどこの標語は守る機会が多くなる。

例えば、「本は欲しいがお金を払うのは嫌だ」というわがままな人がいたとする。その人が本屋で万引をするのを見つけて店主が注意したとする。店主の行為は相手がしてほしくない事をしている。この店主には思いやりが欠けているのだろうか?思いやりの精神にのっとって、万引を見つけても見て見ぬふりをした方がいいのだろうか?そんな事はない。悪い事をしたら注意してやるのがその人のためであり、それが思いやりである。


問題はこの言葉が一人歩きしていることである。孔子は他にもいろいろな事を言った。それらを合わせて考えないといけない。

まず一つ、彼は「仁を行え」と言っている。何もするなと言ってはいない。仁を行うにあたって恕に気をつければいいと言っているのだ。彼の言う事をすべて聞いていれば、「何もしなければいい」などという発想は出てこないだろう。

もう一つ、彼は「七十にして、心の欲する所に従えど矩を越えず」と言っている。彼にとって、心の欲する所とは天の道に従う事であり、欲せざる所とは天の道に背くこと、あるいはそのような行為をされる事である。正しくない行為はしたくもないしされたくもない。だから「己の欲せざる所」というのは実はしてほしくない事ではなく、天の道に背く行為の事なのだ。


実際のところ、私はこの標語が嫌いなわけではない。この標語を振りかざす人が嫌いなのだ。人にこの標語を挙げて「他人の気持ちになって考えたらどうですか」なんて言う人を問題視している。

この標語は、喧嘩をしているわけでも問題を起こしているわけでもない普通の時に言わなくてはならない。でなければ、この言葉は単に「お前のやっている事は不快だ。やめろ」と言う意味にしかならない。単に相手に文句を言っているだけなのに、論語の言葉を借りて偉そうに言う。これが問題だ。

そしてわがままな人ほど「してほしくない事」を拡大解釈する。自分は万引をしても捕まえてほしくないし、学校には行きたくないし、誰にも叱られたくない。そして他人もきっとそうに違いないと思っている。だから相手にもそういう事はしない。そしてそれが「思いやり」だと思っている。

相手が自分のして欲しくない事をすると「思いやりが足りない」と文句を言う。自分のして欲しくない事をされたら単に「やめてくれ」と言えばいいだけなのに。なぜ「やめてくれ」と言えないのだろうか。それは、自分のしている事に対して「やめてくれ」と言われたくないからである。これもまた「思いやり」だ。そしてその発端は、「誰にも『やめてくれ』と言われたくない」というわがままから来ている。

わがままな人は、「自分のされたくない事は人にするな」という言葉によってこのような堂々巡りに陥る。自分は何もされたくないからである。だから人にも何もできない。そして、この標語によって「何もしない方がいい」あるいはもっと進んで「何かしてはいけない」という結論になってしまう。


「思いやりが足りない」という文句には、自分は必死になって「思いやり」を守っているのに相手がそうしないのは不公平だ、という思いがこもっている。つまりは、自分が嫌な事をされたくないから人にしない、というだけなのだ。だから、他の人の「思いやり」に欠ける行動には文句を言う。要するに「思いやり」の皮をかぶった自己保身だ。自分が率先してやっていないと他人に文句を言えないから、仕方なくそうしているだけなのだ。

他人に「思いやりが足りない」という人は、自分には思いやりがあると思っているのだろうか。この質問にイエスと答えるのは思い上がりである。「俺は聖人君子だ」と言っているに等しい。最近、自分を聖人君子だと思っている人が増えてきているように思う。

「思いやり」というのは、一生がんばってもなかなか果たせない難しい事である。だから孔子も「一生守るべき信条」だと言っているのである。簡単に「お前には思いやりが足りない。今すぐ持て」と言われてできるようなものではないし、「思いやりは俺にはあるがお前にはない。だから問題だ」と言えるようなものでもない。せめて「思いやりについてはまだ俺も見習い段階だから、一緒に学んでいこうよ」という態度でないとおかしい。


この言葉についての私の「引っかかり」は、言葉そのものではなく、世間での使われ方だ。「この言葉さえ守っていれば後はどうでもいい」という考え方が多いからだ。そして「これを守っている」と主張する人も多い。そういう人はこの言葉を他の孔子の言葉と共にもっとよく噛みしめるべきだ。

少なくとも、私の疑問の一つはこれで解けた。なぜこの標語を皆「座右の銘」([1])にしてわざわざ掲げるのだろうか。それは自分がこれを守りたいからではなく、皆に守ってほしいからである。他人に嫌な事をされたくないからである。意味があるのは、これを座右の銘にすることではなくこれを「掲げる」事だったのだ。だからよく目につくのだし、それに何か引っかかる思いがしたのだ。


  1. ついでに言えば、すぐに「座右の銘は?」と聞くバカも嫌いだ。そいつのちっぽけな脳みそには座右の銘を入れるスペースが一つしかないからこういう質問ができるのだ。 ↩︎