感情を持ったロボットとは

なんて問いを発すること自体がおかしい。

「鉄腕アトムの誕生日」がとうとうやってきた。また一つ、SFの夢が実現されなかったのだ。「わたしはロボット」のロビーや「2001年宇宙の旅」が実現されなかったように。

とはいっても、折りからのロボットブーム(既に一部終息の感があるが)にのって、人型のロボットがたくさん世の中に出るようになった。一昔前では信じられなかったことだ。そして、そうしたロボットは「鉄腕アトムのような」「感情を持った」ロボットだと宣伝される。

ここではストレートに「ロボットは感情を持てるのか?」という問いを考えてみたい。そして、答えはイエスでもノーでもなく「問いが間違っている」というものである。


さて、「感情を持ったロボット」と聞くとどんなものを思い浮かべるだろうか?普通の人は鉄腕アトムのような、あるいはASIMOやAIBOのようなものを思い浮かべるだろう。そしてここにこの問題の本質がある。つまり、「感情を持ったロボット」は人型あるいは動物型をしていないといけないのだ。

そもそもロボットとは何だろう?「自律機械」という定義が一般的だが、「自律」とは何だろう?うちの冷蔵庫は人間がいちいち命令しなくても中に入れてある物を勝手に適温に冷やしてくれる。洗濯機は洗濯物を放り込むだけで勝手に洗って脱水までしてくれる。これは「自律機械」ではないのか?

なぜこうした機械をロボットと呼ばないのだろうか。それは、「ロボット」という言葉の世の中一般の定義は「自律しているかどうか」ではなく「人間や動物に似ているかどうか」だからだ。「自律とは人間や動物のように行動することである」という定義だから、それに似ているのがロボットなのである。


では「感情を持った」とは何だろう?これもまた同様である。「人間や動物は感情を持っている」という定義があり、それらと似た振舞いをするのが「感情を持ったロボット」なのである。つまり「感情を持った」とは「感情を持ったものに似た振舞いをするもの」という定義なのである。この定義がいかに奇妙なものであるかはわざわざ言うまでもないだろう。

「感情を持つ」というものを客観的に定義することはできない。なぜなら「感情」というのは主観的なものだからだ。同じ事は「心を持ったロボット」にも言える。心とは何か?それを客観的に定義できないなら、こんな事は言ってはいけない。


結局のところ、「感情を持った」というのはロボットの問題ではなく、それを見る人間側の問題なのである。人間側が「こいつは感情を持っているように見える」というのが「感情を持ったロボット」ということなのだから。つまりは見かけだけの問題なのである。

宮崎アニメなどでよく老人が「森には感情があるのじゃ」とか「石にも感情があるのじゃ」などというのと同じだ。つまり、感情なんてものは人間側の感受性の問題で、客観的に言えるものではないのだ。