絶対に戦争をしてはいけないか

「絶対」というのは思考の放棄だ

最近、イラクや北朝鮮などによって世界がキナ臭くなってきた。世界が戦争に向かって歩んでいくと、その反対としての反戦運動も盛んになってくる。今回はこの反戦運動について考えたい。

極端に言うと、ほとんどの反戦デモは自己満足を目当てとした利己的なものだ。ぎゃあぎゃあわめき立てるだけで世の中にとって何の得にもならないし、時として邪魔な存在にもなる。筆者は「戦争礼賛」と言いたいわけではもちろんない。「戦争絶対反対」と「戦争礼賛」の両極端しかない構図、これが問題なのだ。

実際にはこの構図は多くの反対運動に当てはまる。「戦争絶対反対」と旗を掲げ、それに少しでも異議を唱える人がいるとその人を敵と決めつけ徹底的に攻撃する。これこそが「戦争」ではないのか?


反戦運動では「戦争は絶対に良くない」「平和が一番」「人は絶対に殺してはならない」といったスローガンが掲げられる。しかし一度考えてほしい。これらは絶対に正しいと言えるだろうか?例えば「平和が一番良い」というのは真実だろうか?

例えば、今の北朝鮮の国内は平和だ。国民は見事なまでに統制され、反乱分子は真っ先に処刑される。ほとんどの国民は反乱する気力も奪われ、金正日の奴隷に成り下がっている。しかしここは平和だ。国民は不満だらけだろうが平和だ。首領様バンザイと叫んで過ごすなら、ひもじい思いやつらい思いはするだろうが、強盗や殺人が横行する日本より平和だろう(というのは言い過ぎだろうが)。ということは北朝鮮は「平和で良い国」なんだろうか?

そして、もし北朝鮮の体制がクーデターで民主的な体制に代わったとしよう。その過程では当然のことながら平和は乱される。戦闘も起きるだろうし民衆も巻き添えになることだって少なくないだろう。ということは、金正日は北朝鮮を平和な国にしている偉大な指導者であり、金正日体制を崩壊させて平和を乱そうとしている人々は悪い事をしているのだろうか?

結局、「戦争のない平和な国が一番である」というのは間違いなのだ。同様に「戦争は絶対にいけない」というのも「人殺しは絶対にいけない」というのも間違いなのだ。言っている事が間違いなのではない。「絶対」という言葉をつけるのが間違いなのだ。


いろんな反対運動に凝り固まっている人は往々にして「絶対」という考え方に取り憑かれている。「もし戦争になったら多くの罪のない人が死ぬんですよ?それでもいいと言うんですか?」と聞かれても、「場合によってはその方がいい時もある」と答えよう。戦争になった時の「多くの罪もない人が死ぬ」というデメリットと、戦争にならなかった時の「金/フセイン体制が延々と続く」というデメリットの両方を天秤にかけて、どちらがいいかを考えないといけないのだ。

ある問題について自分の立場が例えば「反戦」に固まってしまうと、どうしても自分の立場に有利な情報しか言わなくなってしまう。自分の意見を押し通して、相手から肯定を引き出そうとする。これでは悪徳商法と同じだ。本来なら、メリットとデメリットを両方提示して、その人に肯定か否定かを判断してもらわなくてはならないのだ。

ある事柄についてメリットとデメリットを挙げてどちらがいいかを多角的に考えるのは難しいし労力のいる仕事だ。それに比べて盲目的に「戦争反対」と言うのはたやすい。そして「戦争はしない」という決定をするのもたやすい。しかしこれは「何もしない」と言っているのであり、単に問題を先送りするだけの効果しかないのである。こういう事を言う人に限って「政府は不良債権処理問題を先送りして……」と偉そうな事を言うから困ったものである。


さて、結論を出そう。いわゆる「反戦運動」には2つの問題がある。

一つは「絶対」という言葉を使っていかなる理屈も寄せつけないことである。「戦争絶対反対」という言葉は、どんなに納得のいく理由があっても戦争は反対だと言っているのであり、最初から相手の意見を聞こうとしていない。つまり極めて利己的で自分勝手な物言いだということである。こういう人は、人の意見がどうであるかはどうでもよく、ただ叫びたいだけなのである。

そしてもう一つの問題は「○○反対」という意見のほとんどが単なる問題の先送りであるということだ。もちろん中には何もしない方がまだいいという事もあるから一概には言えないが、こういう人たちに「対応策は?」と聞くと「従来の対応を続ければいい」という答えが返ってくる。従来の対応ではうまくいかなかったから困っているのではないか?

「戦争反対」と声高に叫ぶ人々は、もしかしたら「世間の人々は皆バカで戦争の悲惨さを知らない。だから私達が教えてあげなくちゃ! 」と思っているのかもしれない。世の中の人はそんなにバカではないし、そう思っているのなら単なるうぬぼれであり自己満足なのである。


ほとんどの反対運動は実りがない。だから対案を出してそれを推進する運動にすべきだ。