議論のしかた

議論には勝ち負けはない。

ここの内容も含む文書が議論のしかた にあります。


日本人は議論が苦手だ、とよく言われる。本当はこれは日本人に限ったことではない。議論好きにみえる古代ギリシャの人々でも、ソクラテスが「あなたとは議論にならない」と怒って帰ってしまったというような話がある。だから議論にならない人というのは昔からいたのだろう。

ただ日本人のよくないのは「議論はよくないことだ」という印象があることだ。「朝まで生テレビ」などの番組を見て普通の人が持つ印象は「なんであいつらはあんなに下らない事をやってるんだ」というものだろう。テレビ視聴者は議論を見たいのではなく、口喧嘩を見たがっているのだ。そして、彼らはその期待に答えてよく口喧嘩をやる。だから議論=口喧嘩のような印象を受けてしまう。

正確には「朝まで生テレビ」は議論ではなく討論だ。「ディベート」という英語があてはまるところだ。あれは議論ではない。では議論と討論はどこが違うか考えてみよう。


議論と討論の違うところは、その目的である。討論の場合は、最初から賛成派・反対派にわかれていて、お互いに自分たちに有利な主張をする。それを見て観客がどちらがより正しいかを判定する。これは敵味方がはっきりした一種の戦いである。

議論は違う。お互いに自分の意見を出し合い、相手の意見を聞く。相手の意見に対して思う所を述べ合い、最終的には(そして理想的には)全員が納得するような結論を導き出す。これは戦いではなく全員による共同作業だ。

だから討論には勝ち負けがあっても議論には勝ち負けはない。討論は一方が勝ったら一方は負けなのだが、議論は最終結論が出た時に全員が勝ちで結論が出なかったら全員が負けなのだ。議論は全員が協力してすべきものなのだから。議論と討論はこのように全然違うものなのだ。

議論においては「自分の意見を貫き通す」のはよくないことである。なぜなら、よりよい結論に向かって皆が進んでいかなければならないからだ。皆がよりよい結論に向かって進んでいる時に自分だけ昔の自分の意見から一歩も進んでいなかったら、そして進もうとしなかったら、それは議論をしている意味がない。


議論において守らなければならない鉄則がある。

  • 議論の中身について利害関係があってはならない。
  • 議論する前にその問題についての立場が決まっていてはならない。
  • 議論をする人は、ある集団を代表したものであってはならない。

例えば「ダム建設をどうするか」という議題において、賛成派、反対派から意見を聞くなどというのは議論になるはずがない。なぜなら、片方は賛成、片方は反対に決まっているのだから。ダムができる事によって得をする人は当然賛成するし、損をする人は反対する。意見の歩み寄りはあるかもしれないが、それは妥協でしかない。本来、こうした話し合いはダム建設に対して得も損もしない人を集めないと実りある議論にはなるはずもない。

議論の場合、「自分の意見がよりよい方向に変わる」というのが重要なのだ。「賛成派」のレッテルを貼られてしまったら最後、その人は賛成派から変化するのに抵抗する。変わらなければならないはずの「議論」で変われないのだ。これでは議論の価値がない。ある集団を代表している場合も同様だ。いかに代表とはいえ、構成員を無視して自分の意見をその場で簡単に変えられるわけがない。


議論で自分の意見がころころ変わるとそれを攻撃する人がいる。「あなたはさっきこう言っていたじゃありませんか」と。そしてそれに答えられない人がいる。ちゃんとした議論ならこう答えるべきだ。「あなたの意見を聞いて自分の意見も変わりました」と。意見が変わるのは決して悪いことではない。むしろよい事だ。だから自分の意見が変わった事を素直に認めればいい。

間違っているのはむしろ攻撃した方だ。攻撃は論に対してすべきで、人に対してすべきではない。議論は戦いだが、それは論と論の戦いである。誰かが自分の論を置く。そして誰かがその論を攻める。誰かがその欠点を補うような新しい論を作り上げる。そしてそれをまた誰かが攻める。こうして論を叩き上げていく。最終的にはどこをどう攻められてもびくともしない立派な論が出来上がるはずだ。それが最終結論であり、議論の参加者全員が作り出した宝物だ。

議論の場で自分の論を出した瞬間、その論は自分の手を離れて皆のものになる。それを皆で叩き上げていくわけだ。その論が自分の手を離れたという自覚がないとそれが叩かれるのは嫌かもしれないし、論を叩いていると相手を直接叩いているような気になるかもしれない。しかしそれは間違っている。攻撃対象は論であって、人ではない。

議論において自分の意見に同意している人の数を問題にする人もいる。「こんなに賛成意見が多い」と。これもまた対象は人ではなく論であるということをわかっていない。いくら賛成者が多くても間違っているものは間違っているのだ。


皆の目の前に置かれた論に対して攻撃をする書式は決まっている。「○○までは同意する。しかし××はおかしい。なぜなら△△だからだ。」反論にはこの3要素が含まれていなければならない。

だから、目の前に置かれた論に全く同意しないのはルール違反だ。全員が全否定を繰り返したら議論は何の成果も上がらなくなってしまう。討論では相手を負かすことが目的だから相手の意見は全否定しなくてはならないが、議論というのはここまでは正しいというものを積み重ねていくものなのであるから。逆に議論では全面的な賛成意見もまた不要である。なぜならそれは論をより良くするのに何の役にも立たないからである。

自分と違う意見を全否定する人、他の意見に賛成しかしない人、理由を述べず感情論に終始する人、どれも議論には不適格である。こうして見ると、議論の場でちゃんと議論ができている人は案外少ないのではなかろうか。


こうした「議論のルール」は案外知られていない。議論の本質は相手の論を攻撃することではなく、自分の論を攻撃してもらって間違いを知ることにある。攻撃されて怒るのではなく、攻撃されたら逆に喜ぶべきなのだ。