自由とリベラル

自由という言葉のいろいろな意味

リベラルの話が中途半端になってしまっていたので、続けることにする。

リベラルが「自由主義」と訳されるせいで、自由を叫ぶ人は何でもかんでもリベラルだと勘違いしている人がいる。「自由」という言葉をどういう意味で使っているのかを考えないと、その人が何を言っているのかを間違って理解してしまう。

自分の身を守る

そもそも何で自由が欲しいのか。「このクソったれた世の中でなんとかして生き抜くためだ」という理由をまず考えてみよう。

典型的なのが、全米ライフル協会の主張する「銃を持つ自由」だ。銃を持つことが禁止されたら、ショットガンを持った強盗が家に押し入ってきた時どうするんだ。女房子供がいたぶられるのを見ながら座して死を待て、とでも言うのか。自分の身を自分で守ることを、誰にもとやかく言わせないぜ。

「銃を持つ自由」は、そういう自由がない日本人にはなかなかピンとこないかもしれないが、「自分の身を自分で守る自由」というのは理解できるだろう。というか、それも理解できないようだと心配だぞ。いつまでもママのスカートの後ろに隠れていられると思うな。

できるだけ自分の力を自分の手の内に持っておきたい。税金と称して自分の金を政府に奪われたくない。俺たちの金を勝手に徴収するならせめて、どう使われるのかの決定に関与させろ。少なくとも、俺たちの金をどこにどう使うかを決める奴は、俺たちが選ぶ。経済の自由も、民主主義も、悲観と不信が根底にある。保守か革新かで言えば、保守の思想である。

多様性

「自由は社会に多様性をもたらす」という説明がされることもある。多様性のない社会は、新しい考えが生まれにくく、突発的な環境変化に対して柔軟に対処できない。均質な社会では、その時々の情勢に最適なように社会ができあがってしまう。いわゆる「ガラパゴス化」というやつだ。そうなると、情勢が変わったときに、新しい情勢に適応できなくなって総崩れになってしまう。

社会に多様性をもたらすにはどうすればいいか。これが案外難しい。一定の方法でつくられたものは多様ではあり得ないからだ。つくるのではなく、自然に出てくるのを待つしかない。何の制限もかけず、出てきたものはすべて大事にして保護する。それが自由なのだ、ということだ。

多様性のない社会は、その中にいる人にとっては、何も起きない限り効率的であり快適である。ここがこの問題を難しくする。多様性のある者と多様性のない者とで競争すれば、多様性のない者が勝つ。なぜなら、多様性の維持にはコストがかかるからだ。今現在何の意味があるのかよくわからないものを、大事にとっておく必要がある。だから、こういう意味での自由は、積極的に保護していかないと、やがて淘汰されてなくなってしまう。「自由競争」という言葉を、何の制約もない弱肉強食の世界という意味で使う人と、ここで言うように多様性を大事にして新しいものが生まれやすくする土壌という意味で使う人がいるので、注意しなくてはならない。後者の自由競争を実現するためには、保護するための様々な制限、たとえば独占禁止法みたいなものが必要となる。

なお、ここで言う「多様性」は、(もしかしたら違和感を感じるかもしれないが)保守の思想である。なぜなら、これが未来への不安と合理性への批判によるものだからだ。「思いもつかないような恐ろしいことが起こるかもしれない」というのが未来への不安であり、「たしかに今はその方が合理的だけど、思いもつかないような何かが起こったらどうするんだ」というのが合理性への批判である。

神の声に従うこと、あるいは善をなすこと

さて、今まで述べた自由は基本的に保守思想だった。次に、革新的な自由について説明しよう。ただし、これはキリスト教と密接に結びついているため、日本人にはどうしても宗教的な怪しい話に聞こえてしまう。「神」という単語は単なる用語だと思って、その意味については深く考えずに読んでほしい。

自由とは「神の声に従うこと」である。そう言うと、「従う」と「自由」は正反対ではないか、と思われるかもしれない。しかし、「神=この世のすべてから超越した存在」であるから、神の声に従うとは、「この世の何物にも従わない」ということであり、これこそが自由である。しかし、「この世の何物にも従わない」というだけでは「何をやってもいい」ということになってしまう。そうではなくて、神の声には従うのだ。

「神の声に従う」と言うと、どこかにヒゲを生やした教祖さまがいて、その教祖さまの言うことを絶対正しいと思いこんでしまう、みたいに考えてしまう人がいるかもしれないが、そうではない。神の声は、各個人の心の内に直接語り掛けてくる。だから、自分の心の声、内なる声を耳をすませて聞くことこそが、神の声を聞くということなのである。

人の心の内に語り掛けてくるのは、神だけではない。悪魔もまた、心の内に直接語り掛けてくる。アメリカのマンガでよくある、心の中で天使と悪魔が言い争っている構図だ。残念なことに、悪魔はとても狡猾で、神とよく似た形で語り掛けてくる。そうなると、我々は声が神のものなのか悪魔のものなのか、はっきりと判別できない。だから、我々は内容をよく吟味して、それが神の声なのか、悪魔の声なのかを判断しなくてはならない。神の声は善に向かい、悪魔の声は悪に向かう。そこを手がかりに判断するしかない。判断に悩むときには、他人の意見を聞いたり、本を読んだりしてよく考える。教祖さまの言うことも、他人の意見の一つでしかないので、鵜呑みにしないでよく考える。判断した後も、本当にそれが正しかったのかを常々よく考えて、間違いだと気づいたら方針転換する。

結局、自由とは、自分のすること、したことに対してそれが善なのかどうかを自分でよく考えるということだ。善いかどうかの判断を他人に委ねない。そして、善をなし、悪は退ける。この自由の定義には、それ自体に「なぜ自由がいいのか」が含まれている。自由=善ということなのだ。

自由の敵

こうした「神の声に従う自由」を妨げているものは何か。間違った法律を作って従わせようとする政府や、昔からの慣習というだけで無批判に受け入れることを強要する社会は自由の敵であるが、それだけではない。

正しく考えるには、正しく情報が入ってくることも重要である。間違った情報はもちろん問題だが、情報が入ってこないことや、情報が偏っていることはもっと問題だ。情報が間違っているかどうかは詳しく調べればわかるかもしれないが、今得ている情報に偏りがあるかどうかはわからないからだ。他人に与える情報を故意に偏向させることで、その人の考え方を操ることができる。もちろんこれは相手を自分の声に従わせる手段であり、自由の敵である。

この問題に対しては、情報が「入ってくる」ではなく、情報を「取りに行く」ように意識を改めなくてはならない。そして、取ろうとしても取れなかった場合に、「情報が隠されているのではないか」と考える。情報を隠すということは、他人に悪を行わせようとすることであり、単に自分で悪を行うよりずっとたちが悪い。情報の流通をコントロールするのは、悪である。これは、単なるモノの流通をコントロールするのとはわけが違う。自由、つまりは善悪に直接関係することなのだ。

さらに言うと、敵は他人とは限らない。自分の内に潜む「悪」もまた、自由の敵である。これについては、七つの大罪という形でわかりやすくまとめられている。

  • 欲望に身を任せること
  • 必要以上に食にこだわること
  • 必要のないものを所有したがること
  • 自分の内にある神の声を聞こうとしないこと
  • 怒りに身を任せること
  • 他人やその持ち物を羨ましく思うこと
  • 自分を他の人より上だと思うこと

これらの悪は、人を欲望や感情の奴隷にしてしまう。そんな状態は自由ではない。自由というのは、様々な欲望や感情から解き放たれ、清く正しい善の心が正面に出た状態を言うのだ。

だから、権威主義や全体主義はもちろん自由の敵だが、人間の欲望丸出しの商業主義もまた敵視する。七つの大罪なんて、今のネット社会そのものじゃないか。いいように操られて隷属させられて、やれ承認欲求だの自己肯定感だの言っている。神様が直接語り掛けてくれてる以上の何が必要だって言うんだ。

もう一つ、怠惰な人間も敵視する。言い換えてあるからわかりにくいかもしれないが、怠惰は先に挙げたリストの4番目だ。ボランティア活動に熱心な人が、ホームレスの人に手を差し伸べてみたものの、当人が「やっぱホームレスの方が気楽でいいや」と戻ってしまうと激怒するのは、そういうわけなのだ。

自由の保守化

自由経済や多様性といったキーワードとは一線を画す、かなり過激な「自由」の概念が存在するということは、おわかりいただけたことと思う。既存の価値観すべてを破壊して、その代わりに「神の声にのみ従う」を唯一の答えとする。神という単語に違和感があるなら、「良心」に置き換えてもいい。自分の良心以外の何物にも従わない、ということだ。「そんな思想が本当に正しいと言えるのか」という問いには、「定義上、自由は正しい」と答える。自由とは「正しいことをする」という意味なのだから。

他の革新思想と同様に、ここで言う「自由」もまた理想主義的で、本当にそうなったらどんなにいいだろうかと思う反面、全面的に現実に移してしまうと様々な問題が出てくる机上の空論でもある。革新思想はたいてい、その思想の枠外のものが存在することを想定していない。だから、革新思想は他の思想と戦っているうちはいいが、戦いに勝ってその思想一色に染まってしまうと弊害が目立ってくる。

自由という思想が持つ危うさについては、あれこれ言わなくてもわかるだろう。本当に、人間には良心というものがあるのか。行動を人間の良心にまかせてしまっていいのか。この問いの答えが「イエス」ではないことはうすうす感じながらも、「ノー」と答えてしまうとこの世界に希望がなくなってお先真っ暗になってしまう。そんな危うさである。多くの人々は、そんな危うさを感じながら、答えを出すことを保留して、理想と現実の折り合いをつけながら暮らしている。これが「保守的な態度」である。(なお、「イエス」と言い切ってしまうのが革新的な態度であり、「ノー」と言い切ってしまうのはただのバカである。)

この自由思想は、上の世代にとっては(賛同するかどうかは別として)ごく当たり前に存在するものだが、どうも最近では存在すら知らない人が増えているようなのだ。上の世代にとっては当たり前すぎてわざわざ言うことすら思いつかないことを、下の世代が知らない。ここに世代の断絶が生まれる。そうなると、意味がわからない上に説明すら存在しない言葉に出会った下の世代は、例を見て自分なりに想像するしかなく、結果的に誤解してしまう。こうして、言葉の意味が変質していく。革新思想としての「自由」を、保守思想の自由と取り違えてしまうのだ。

革新思想としての「自由」は、人間の内面に関することであって、外に向かう行動については何も言っていない。だから、「自由」そのものが語られなくなると、外からは見えてこなくなる。行動や意見自体は、ここで言う「自由」の結果であって、それ自体は「自由」とは関係ない。このことが、この問題を難しくする。たとえば、日頃から「自由」を主張する人が、積極的に地球温暖化防止活動をしたとしよう。この場合、「地球温暖化防止活動」自体は、「自由」とは関係がない。単に、その人が正しいと思うことをしただけだ。しかし、何も知らない人が外から見ると、「自由とは地球温暖化防止活動をすることなんだ」と思ってしまう。

自由の没落

自由が革新思想であった時代から、当たり前のように認識される時代を経て、もはや忘れ去られている時代に到達した。今は、支配をはねのけて「何物にも従わない」と主張するどころか、人々は従う先を必死に探している時代である。

革新思想である「自由」を叫ぶ人は、それがもう忘れ去られていて、別の意味に勘違いされているということに気づいていない。自分たちが悪として糾弾しているものを、肯定するどころか、悪だと言う人がいることすら想像できない人が多数派になっていることに気づいていない。だから、自由についての話がすれ違ってしまうのだ。

革新思想としての自由に対して、青臭いとか理想を追いすぎるとか言いたくなるのはもっともだ。それは革新に対する保守の通常の態度だ。しかし、彼らが追っている理想がどんなものなのかは、理解してやらなくてはならない。