政治の話のとき、安易に「保守派」という言葉を使って、話がかみあわなくなってしまっていることがよくある。「保守」の意味をよく考えてみると、そのすれ違いの原因がわかってくる。
「保守」という言葉の意味があいまいに使われるのは、これが「反」概念だからである。「守る」という概念は、攻撃する奴がいるからこそ出てくるものであって、攻撃するものが何もないのに「守る」ことはできない。時代や国・場所によって攻撃は様々だから、それに対する守りの主張も様々だ。だから、主張の内容をもって「保守」を規定することはできない。
「保守」という言葉が出来たのは、フランス革命後の王政復古の時だ。この時、保守は王政を主張し、敵は資本主義だ。だからといって、「『保守』とは資本主義を否定し王政に戻そうとする考え方のことだ」というわけではない。当時と今とでは社会状況が違うからだ。「保守」とは、主張の内容そのものではなく、姿勢に対して言うものだ。
保守と革新
では、保守とはどういう姿勢のことなのか。それは、反対の言葉を考えるとはっきりしてくる。保守の反対は「革新」である。「革新」とは何かというと、旧体制を壊して、新しい体制を作ろうという姿勢のことだ。
旧体制を壊して新体制を作ろうという呼びかけに賛同してもらうには、いくつかの条件が必要だ。まずは当たり前のことだが、(その人たちにとって)旧体制が良くないものであって新体制が良いものであるということだ。しかし、旧体制を壊して新しくするには、大変な労力が必要だ。旧体制の抵抗を抑えなくてはならないし、新体制を一から構築しなくてはならない。「本当にそんなことできるのか?できたとして、新体制が本当にいいものなのか?壊してしまった後で、うまく行きませんでしたとなったら大変だぞ」と疑問に思うのは当然のことだ。
「本当にそんなことできるのか?」という疑問に対しては、革新派は「人々の力を信じろ。やればできるぞ」と答えるしかない。本当は自分たちだって半信半疑なのかもしれないが、それでも「やれる」と思いこまなくてはやれない。これはつまり自分たちの能力に対する楽観主義だ。「本当にいいものなのか?」という疑問に対しては、夢の未来を提示しなくてはならない。「新体制になればこんな素晴らしい世の中が実現できる」と。そして、それがうまく行くであろうことを理論的に説明する。これはつまり合理主義だ。夢の未来・楽観・合理がワンセットになったのが「革新」である。
保守は、そんな革新と対峙して、上記の質問を投げかける側である。革新派が「人々の力を信じろ」と言うと、「人々の力なんてロクなもんじゃねえよ」と否定する。団結や協調や善意や節制といった美徳によって物事を進めようとする革新派に対して、人間なんて裏切りと悪意と欲望の塊だと否定する。キラキラした夢を語るばかりで地に足のついていない人物は信用できないし、理論的な計画なんてものはどうせ「想定外の事態」でひっくり返されるのがオチだ。様々な問題を全部解決する魔法なんてものは存在しないので、過去の経験と良識から学び、せめて少しずつでも良くなるよう、地道に努力するしかない。そんな態度が「保守」である。
保守とは、何もしないことではない。家を保守するというのは、ヒビが入ったら小さいうちにきちんと埋めて、下水が詰まって大変なことになる前に掃除をすることだ。住人が年老いたら、段差を埋めたり、スロープや手すりを付けたりすることも必要になるだろう。現在の問題を見つけ、小さいうちに対処する。それはそれで結構大変な作業である。そんな面倒なことはほったらかしにして、家がひどくなったら建て替えるつもりで、新築の家をどんなのにするかあれこれ考える方が楽しいのかもしれない。
こんな観点で日本の政治家を見てみると、保守派が誰で革新派が誰なのかはっきりする。「壊す」「変える」「問題を根本から解決」「未来の希望」みたいなことを言う人は革新派であり、「守る」「変えない」「現実を見よ」という人は保守派である。
日本人の革新好き
「古いものを壊して新しいものを作る」のを革新派だと定義すると、我々日本人はなんだか普通の事のように思えてしまう。おそらくここに、欧米で言われている保守・革新とのギャップがある。日本人は新しいもの好きで、食べ物でも人でも家でも何でも、新しい=良い、古い=悪いという漠然としたイメージを持ってしまう。だから、「古いものを壊して新しいものを作る」と言われても、「新しくなるのは結構なことだ」としか思われない。
欧米では逆に、古いものは良いものと認識されるから、「古き良きものを破壊するな」という反対が起こる。だからこそ、革新にはそれを上回るパワーが必要とされる。きちんと語ること、納得いくまで説明することが求められる。しかし日本では、「古いものを壊す」と言うと、「いいぞ!やれやれ!」という声が大きく、「古いものを壊すな」なんて言おうものなら、老害とか抵抗勢力とかさんざんなことを言われる。破壊を止めようとすると「足を引っ張るな」「対案を出せ」と言われる。この場合、「できるところから小さなことをコツコツと積み上げる」というのは対案とみなされず、他の破壊と革新でないと対案とはみなされない。
「黒船」という言葉があるように、日本人は、自分たちの社会は外部から何かがやってきて壊されない限り変えられないと思っている。「少しずつ変わっていく」というのが頭になく、「変わらない」と「新しくなる」の2種類しかない。また、死と再生のモチーフが好きで、変化と不変は表裏一体であるという考え方がある。明治維新は旧体制の破壊だったにも関わらず、名目上は王政復古、つまり旧体制の復活だったのがいい例だ。このせいで、「保守」という言葉の意味がややこしくなってしまっている。
リベラルの夢
そんなわけで、日本の政治を「保守」対「リベラル」と見るのは間違っている。自分たちのことを「リベラル保守」と呼んでいた人もいたが、それは今までの話のように「保守」を定義すれば納得できる。そして、そういう人たちの人気がないのも納得できる。日本人は保守が嫌いなのだ。
リベラルがいつの間にか革新ではなく保守になった。キラキラした夢ではなく現実を追いかけ、他人を信じるのではなく逆に他人を悪者だと決めてかかる。暗い未来を喧伝するが、それを解決する秘策は持ち合わせていない。なぜ、リベラルは夢を忘れてしまったのか。マーティン・ルーサー・キング牧師が「私には夢がある」と語った頃の、あの夢を。
すべての人が自由であり、平等であり、幸福を追求できる社会。それがリベラルの夢だ。今や、この夢が揺らいでいる。皆、「自由」「平等」「幸福」という言葉の意味がわからなくなってしまったのだ。人種差別というわかりやすい構図があった時代から、構図が見えない時代へと移り変わってしまった。なんだかよくわからないけれど閉塞感があり、不幸な感じを暇つぶしでまぎらすことしかできず、しかし自分ではない誰かがこの世界で笑っている感じがして、思い切り殴ってやりたいけれどそいつがどこにいるのかわからないし、そもそもそいつが誰なのかもよくわからない。
先ほどは「日本人は革新好き」と述べたが、今の世の中には、革新に必要な要素が一つ欠けている。それは、人間性への信頼である。「人間だって捨てたもんじゃない」と主張する勢力、人間の善性に期待する勢力が見渡してみてもどこにもいない。夢と希望を語り、明るい未来を描くことができる真の革新が必要とされている。
さいごに
まだまだ書き足らないことはいくらでもあるが、どうにもまとまりがつかなくなったので、いったんはおしまいにしよう。
保守と革新は対立してはいるがどちらも重要だ。希望を持って合理的に未来を語る本物の革新と、健全な批判精神を持って良識に基づいて現実を見つめる本物の保守の言うことは、どちらも大切にしよう。