直接民主制と間接民主制

民主政治と衆愚政治は紙一重

最近、首相公選制とか住民投票とか、政治に住民全員の判断を生かそうという考え方が高まっている。陪審員制度なんかもそうだ。電子投票などが広まって投票が簡単になれば、こうした制度はもっと利用されていくことだろう。

これらは一見いい制度のように見える。そして、「これは間接民主制を否定するものだ」と政治家が言うと、自分達の既得権益を守ろうとする抵抗勢力と見なされ、悪だと決めつけられる。しかし、実際にこれらは間接民主制を否定するものだ。政治家の言うことは正しい。

直接民主制は住民一人一人の意見が反映されていいように見えるが、実際はそうではない。古代ギリシアでは直接民主制だったが、それはやがて衆愚政治になった。一般大衆を口先だけで丸め込みさえすれば何でもできる政治だ。今の日本もここに向かいかけているのではないか。


「今の裁判官には一般庶民の感覚がわからないから、陪審員制度を設けて主婦やサラリーマンなど一般人の意見も採用すべきだ」という論議がある。はたしてそうだろうか?一般庶民感覚というのは、主婦がお昼のサスペンスドラマの再放送を見て「あの人は悪役の顔だから、きっとあれが犯人だ」なんてクッキーをかじりながら推理するような感覚だろうか?

極言すれば、裁判官は一般庶民感覚ではなく「法に背いたかどうか」だけで裁くべきだ。一般庶民やマスコミがどれだけ「あいつは悪い奴に違いない」と思っても、法に背いていなければ裁くべきではない。そして、法に背いたかどうかを判定するには法律を熟知していなければならない。つまり、司法試験に受かったエリートでないといけないわけだ。

政治も同じ事だ。「道路は無駄使いっぽいからやめよう」ではなく、ちゃんと統計を取って「○○億円無駄になっているから、こことここは建設中止しよう」と言わなくてはならない。一般庶民がそこまで調べられるだろうか?できないなら、根拠もなしに「道路は無駄使いっぽい」と言ってはいけない。


日本ではなぜか「棄権はよくない事だ」という社会通念がある。朝一番に投票所へ出向くお婆さんを偉いと思う風潮がある。しかし、それは間違いだ。投票にかけられている問題について何もわかってないのに投票するのは社会にとって悪である。ちゃんとその問題について考え抜いて投票した人の投票分がいい加減な投票によってかき消されてしまうからである。例えば国会議員は本来キャリアとか手腕とか能力で投票すべきものであるが、そういった事に何も興味のない人が顔とかテレビの露出度だけで投票してしまうおかげで、国会に無能なタレント議員ばかりが増えてしまうのだ。

投票するからには、「この人が日本を良い方向へ導いてくれる」と思う人に投票すべきだ。そして、それがわからないなら棄権すべきだ。「私はだれが国会議員にふさわしいかを正しく判断する情報に欠けているしそれを考える暇もないので今回は棄権します。」というのが正しい姿勢だ。こういう人を「棄権はよくない」といって無理やり投票所に持っていこうとするから、タレント議員とか二世議員みたいな困った人たちが当選してしまうのだ。


「○○反対運動への署名」というのも住民の力が悪い方向へ導かれる例だ。署名運動では「この問題について一緒に考えましょう」ではなく、たいてい署名だけが求められる。署名運動に参加するのはよい事みたいだから、あるいはマスコミでこの問題は大きく取り上げられているから、求められた方はなんとなく名前だけ書く。そうした「よく知りもしない連中」の署名を頭数だけ揃えてさも反対意見が多数なように見せかける。

本当なら1万人の何も知らない市民の声よりその問題に精通した1人の専門家の意見の方が重くあるべきだ。いくら「市民の常識とかけ離れている」といったって、市民の常識の方が間違っている場合だってあるのだから。地球は回っているという事も、光速に近い速度で走る物体は間の進み方が遅くなるという事も、素粒子は位置が不確定だという事も、常識ではまったく考えられないが事実なのだ。素人より専門家の意見の方が正しいのは当たり前じゃないか。

有識者が特定の問題について専門知識を延々と話し始めると、「エリート達は難しい議論で煙に巻こうとしている」といって頭から否定する。煙に巻こうとしているのではない。実際に難しいのだ。自分達が理解できないのは脳ミソが足りないからなのであって有識者達が悪いわけではない。そして問題を理解できない人間は議論に入る資格はないのだ。理論的な裏付けのない感情的なたわ言をわめき散らす人は議論の場からつまみ出されてしかるべきである。


参加する人がみなその問題についてよく考えている限り、直接民主制はうまく機能する。賛成派反対派で議論しあい、お互いを理解し合おうとすればこそだ。しかし皆が皆そんな事をしている暇がないから、代表を出してその人達に議論をお願いすることにした。それが間接民主制だ。これは時代の要請によって造られたそれなりに理由のある制度なのだ。

住民は政治参加すべきだと言って猫も杓子も政治に駆り出すべきではない。政治は政治家の仕事だ。政治は知力が要求される難しい仕事なのである。なぜ何の経験もない人達がたやすくできると思い込むのだろう?

特に問題なのは、少し脳ミソの足りない連中がこうしたキャッチフレーズに踊らされやすいことだ。わからない問題については当て推量で物を言うのではなく、いさぎよく「わからない」と言える事が大事である。