嘘も方便

目的のためには嘘をついてもいいのはどういうときか。

時事ネタのつもりがもはやとんでもなく風化してしまったけれど、よく考えるといつも風化したネタばっかりじゃないかと思い直して、そのまま書くことにした。


ちょっと前にニュースで「方便」という言葉が話題となっていたが、この言葉は「悟りに近づくための方法」という意味で、決して悪い意味ではない。「嘘も方便」という言葉があり、これも悪い意味ではないのだが、悪い意味に解釈する人が多い。しかも、年齢が上の人ほど悪い意味に解釈し、下の人はいい意味に解釈する傾向にあるらしい。

仏教用語である「方便」の意味を考えれば、「嘘も方便」の解釈が分かれる理由もわかってくることだろう。「目的のためには手段を選ばない」というような解釈は、まったく当たっていないわけではないが、だいぶ違った感じを受ける。


方便というのは、仏教用語で「悟りに近づくための方法」という意味だ。しかし、仏教ではこれは仮の方法であると明言する。これはなぜかというと、仏教はもともと「言葉なんかに頼るな。考えるんじゃない、感じるんだ」という教えだからだ。

単純に言えば、「言葉なんてみんな嘘なんだから、信じるなよ」と言葉で言っているということだ。そして、その矛盾自体をごまかしたり隠したりせず、堂々と「言葉なんてみんな嘘なんだぞ。もちろんこの言葉も嘘だ」と言う。

もしかして「そんなのおかしい。自己矛盾してるじゃないか」と言いたくなった人がいるかもしれない。しかし、それは「考えている」証拠だ。「自己矛盾なのはおかしい」という考え自体を捨てなくてはならないのだ。ある文が正しいとか正しくないとかいうことは実はどうでもよくて、そんなことにこだわっていては真理をつかむことはできない。


法華経には、「家が火事だから逃げなさい」と言っても遊びに夢中になっていて逃げない子供に対して、「欲しかったおもちゃを買ってあげるからついてきなさい」といって外へ出させる話がある。

仏教的に言うと、真理を説いても一般庶民はちっとも食いついてこないので、「お経を唱えたり座禅を組んだりするとあーら不思議、悩みが全部消えて天国に行けるよ」と宣伝する。実際は、お経を唱えることでそこに書いてある内容を暗記するまで熟読し、座禅を組んでひとり静かに考えることで、「悩みが全部消えて天国に行ける」ということを望むこと自体が間違っていたのだと気付くようになる。

相手が持っている目的自体が間違っている、ということを言うために、直接お前の目的はおかしいと言うのではなく、いったんは相手の目的に合うように話を進めながら、目的自体が間違っていたということを自分自身で気がつけるように導く。これが真の「嘘も方便」なのだ。

目的、言い換えると価値観自体を否定することは誰にもできない。自分の価値観を変えることができるのは自分だけだ。価値観を変えるということは、「自分の価値観は間違っていた」ということを自分の価値観から導き出すことであり、ある種矛盾した状況だ。論理の世界だけでは、この矛盾を打破することはできない。ある種の「嘘」が必要になるのだ。


「嘘も方便」という言葉を、「目的のためには手段を選ばない」というような意味にとって、よくないことだと言う人がいる。しかし、「目的のためには手段を選ばない」ということが悪いことだとされる本当の理由は、このこと自体にあるのではない。「目的」自体が悪いのだ。

たとえば、「お金を儲ける」という目的をたてて、そのために手段を選ばないのであれば、当然批判されることになる。これがもし「自分もお金を儲けて、周囲の人みんなも幸せにする」という目的をたてるなら、そのためにどんな手段をとってもあまり批判はされない。つまり、本当の問題は、単純な目的を掲げてそれ以外の要素をすべて切り捨ててしまうことにある。

目的が正しいなら、「目的のためには手段を選ばない」というのはいいことだ。問題は、何がいいことかを決めるのは目的そのものだということだ。はたして「目的が正しい」とはどういうことなのか。何をもって「目的が正しい」と言うのか。「目的のためには手段を選ばない」ということがよくないとされる本当の理由は、目的自体の正しさを適切に評価する方法がないからだ。

一神教では、目的の正しさは神様が決めてくれる。仏教ではそういう存在はないが、そんなことはよーく考えれば自分でわかる、ということになっている。しかし、こうした宗教を受け入れてない人に対しては、目的が良くないと言うことはできないので、手段が良くないと言うしかなくなってしまう。だから、手段を選ばないのはよくない、と言うしかない。

「嘘も方便」という言葉が示す「目的」とは、相手に本当の目的を気付かせることである。そのために、最終的な「本当の目的」とは矛盾する「嘘」を使う。目的そのものを変えるには、こうする以外に手立てはない。目的そのものの評価はできないからだ。


「嘘も方便」という言葉には、自分が正しいことを言ったとしても相手がそれを理解できないという前提がある。だから、一般的なことがらに対して使うと、相手をバカにしていることになる。

相手の目的を自分が思っている目的に誘導しようとすることも、一般的にはよくない行為だ。「嘘も方便」など使わなくても、本来ならば正攻法で話せばちゃんとわかってくれるはずで、もしそれでも相手が態度を変えないならば、それは相手がバカだからではなく、自分が思っている目的自体が悪いのだ。

たいてい、「相手には理解力が足りないから言ってもわからない」と自分が思っている場合には、相手も同じように思っている。この場合、どっちが正しいかはわからない。こんな状態で相手を非難しても、それはそっくりそのまま自分に返ってくる。「お前はバカだ」「相手がバカだと思っているお前がバカだ」「相手がバカだと思っているお前がバカだと思っているお前がバカだ」と永遠に続いてしまう。

「嘘も方便」を主張するには、この堂々巡りを解決しなくてはならない。それができるのは宗教だけだ。宗教ならば、超越的な視点を使ってこの問題を解決できる。「神は絶対だ」とか、「論理にとらわれているやつはそういう堂々巡りから抜けられないんだ」と言ってしまえばいい。

宗教は人間の自己矛盾性、あるいは世界の不条理さ、人間の限界といったものを凝縮したものだ。逆に言うと、宗教を否定するということは、自分の自己矛盾性や不条理さ、弱さといったものから目をそむけることだ。


さて、そろそろまとめよう。見識が狭くて、正しいことを主張しても受け入れられない人に対しては、相手の見識に合わせて本来は多少間違っていることでも言う必要がある。そうやっていろんなことを受け入れていくことによって、そのうち相手は自分が間違っていたことがわかるだろう。「嘘も方便」とは、そういう意味の言葉だ。

しかし、これを使うには注意が必要だ。相手の見識が狭くて主張が受け入れられないのではなく、自分の見識の方が狭くて、相手が言う「その主張は受け入れられない」という主張を受け入れられないだけなのかもしれないからだ。だから、この言葉を使っていいのは相手が子供の場合だけだ。なお、神様やお釈迦様から見れば我々は子供だから、彼らは我々に対してこの言葉を使っていい。とすると、年齢が下の人ほどこれを良い意味に解釈するのも納得できる。子供に対しては良いことで、大人に対しては悪いことなのだから。

「嘘も方便」という言葉を、「物事を説明するときには、相手のレベルに合わせて、本来必要な内容をバッサリと省略したり、あるいは厳密に言うと間違っている説明をしなければならないこともある」という意味に使うこともある。専門家が一般人に説明をするとき、難しい数式を並べ上げるのではなく、厳密に言うと間違っている内容であっても、一般人にわかるように説明しなくてはならない。専門家と一般人の見識の差ははっきりしているので、こういう意味に使うなら問題ない。

不特定多数に対して説明をするときには、「お前らにきちんと説明してもわかんねーだろうから、お前らが納得しそうな理由をでっち上げるよ」と言ってはいけない。きちんと説明すればわかってもらえるという信頼をまず作り上げる必要がある。そしてそれには、どちらか一方だけではなく、双方の努力が必要だ。