本音と建前

日本人は、建前を嫌い本音を大事にする。

本音と建前という概念は、外国の人にとってはどうもよくわからないと言われる。では日本人はそれをきちんと使い分けてているかというと、最近ではどうも怪しい気がする。

そもそも、本音と建前とはいったい何かということから、見ていくことにしよう。


建前というのは概念の世界であると考えるとわかりやすいだろう。そうすると、「本音と建前」という言葉は、「現実の世界と概念の世界との間にある違い」を示していると言える。そうすると、「本音と建前を使い分ける」とは、この違いを意識して考えるということだ。

建前の世界には、「本音と建前」という概念はない。建前の世界の中では、どこまでも建前のみが正しく、例外など存在しない。だから、「本音と建前」を持ち出すのは、必ず本音を言う側だ。「本当はこの書類は昨日までに提出しなければならなかったんだけど、どうせ作業を始めるのは午後からだから、今日の午前中までにここに持ってきてくれれば間に合ったことにしておいてやるよ」と言う場合、建前で言うと間に合ってないのだが、現実の作業開始までには間に合っている。こんな場合に「建前と本音」が持ち出される。逆に、たとえ数時間でも遅れた書類は受け付けることができないなら、「本音と建前」を持ち出すことはない。相手がなんと言おうと、「この書類は昨日までに提出することになっていましたが。え?本音と建前?なんですかそれ?そんなの私は知りませんねぇ」とだけ言えばいい。

つまり、本音と建前を使い分けるということは、常に建前より本音が優先されるということを意識するということだ。


建前を「言葉になっていること」、本音を「言葉にできないこと」であると考えると、「本音と建前」という概念も、同様に外国人の苦手な「わびさび」や「空気を読む」や「阿吽の呼吸」へと通ずる。そしてそれらの奥には、仏教、特に禅の思想がある。

仏教では、様々な苦は我々の思考自体から発生しているものであり、そこから自由になることが必要だと説く。禅では、真理は言葉では伝えられるものではなく、自らが悟るしかないと説く。それに対して、キリスト教やイスラム教では、絶対的な真理が神の言葉として伝えられる。彼らによれば、この世界は言葉によって始まったのだ。

日本人は、言葉の世界は建前であり、それを超えた言葉に出来ないどこかに本音があると考える。言葉に縛られている限り、本音、つまり真理には到達できないのだ。本当の意味での本音は、語ることができず、察することしかできないのである。

日本人は、言葉に対してはまず否定的な反応から入りがちだ。「Xである」と言われると、どんな場合でも例外なく100%そうだと言われたように感じ、「Xでないこともあるかもしれない」と言い返したくなる。つまり、「Xである」という言葉を裏返して、「Xでないということは絶対にない」という意味であると解釈してしまう。そして、そうだからこそ、そこにとらわれていては真理に到達することはできないと考えている。


日本人は、いったん言葉になったものは二度とくつがえすことができず、そのため100%正しくなければならないと考える。それに対して一神教では、絶対に100%正しい「神の言葉」があり、人間の言葉はそこには決して到達できないという前提がある。イスラム圏では、「神がそう望むならば」とつけさえすれば、その後何があっても「神が望まなかったのだ」で済んでしまう。

価格交渉をするとき、外国人は最初は買い手ができるだけ低い価格を言い、売り手はできるだけ高い価格を言う。しかし、日本人は最初は買い手はできるだけ高い価格を、売り手はできるだけ低い価格を言う。外国人が日本人と交渉すると、最初に「こんな安いところから交渉スタートするの?これはもっと値切れそうだな」と思ってしまい、そこからちょっとでも値切ろうとするととたんに相手の機嫌が悪くなって交渉が決裂するのを不思議に思う。

外国式の交渉では、相手に対してノーを言い続け、相手からのノーに対して前言を撤回し続けることになる。それが、相手に対してはイエスを言い続け、いったん言ったことは既成事実となりその後ずっと残る日本式のやり方しか知らない人には違和感を感じる。最初に「3万円しか出せない」と言って交渉した後「じゃあ4万円までは出そう」となった場合、「こいつ、最初に3万円しか出せないと言ったのは嘘だったのか。だったらこの4万円というのも怪しくて、本当は5万円まで出せるのかもしれない。とにかく、こいつの言うことはまるで信用できない」となってしまう。交渉の途中で「気が変わった。先ほどの提案はもう無しだ」と言われて、「おいおい、言ったことを勝手に変えるな」と思ってしまう。

しかし、外国人の考え方からすると、交渉というのは相手をその気にさせるためにすることなんだから、最初に言ったことを変えることができないのなら交渉の意味がない。人間の考え方というのは話をしているうちにどんどん変わるものであり、言葉というのはその時その時の気持ちを伝えるものなのだから、気が変わったのなら素直に気が変わったと言えばいい。逆に、言葉がその時の気持ちを素直に伝えていないのなら、何をもとにして相手の気持ちを考えればいいのかわからないじゃないか、と思う。

交渉の手間を考えると、日本式の方が合理的だ。最初にお互いが「これ以上は一歩も譲れない」という線を提示して、それで折り合いがつかなければ交渉は無意味だからすぐに終わらせる。逆に、最初の提案で折り合いがつけば、あとは交渉さえすれば必ずどこかに着地する。外国式でやろうとすると、さんざん交渉した後で折り合いがつかなくて決裂することがあり、それでは費やした交渉の労力がムダになる。

しかし、この合理性には一つ変なところがある。交渉とはお互いがOKを出す条件を見つけ出すということだとするなら、双方がイエスと言ったらそこで終わりなのであり、日本人みたいに最初から双方がイエスと言っているのにそこから交渉が始まるのは変だ。折り合いがつかないから交渉するのであり、最初から折り合いがつくように条件を出すのは本末転倒ではないか。日本式のやり方では、最初でつまずいたらもうおしまいで、挽回の余地がない。


日本人は、言葉はやっかいな代物であり、扱いが難しいから、できるだけ使わないでおこうと考える。言葉を使わずに伝えることができれば一番いいが、それができない場合は仕方がないから、薄氷を踏むように少しずつ安全を確認しながら使っていこうとする。

外国人の目からは、日本人はやたらと形式ばっているように見える。しかしこれは、「本音」の部分が見えていないからだ。日本人の形式は、一度でも失敗したら二度と立ち上がれない社会で、一度も失敗をしないために必要なものなのだ。本当のところはどうであろうと、形式さえ揃っていれば失敗とはみなさないという前提があるから、「一度も失敗をするな」という無茶な要求が通るのである。

日本のなんとか道が一挙手一投足まで細かく規定するのに対して、日本人は形式が好きだからそういうことをするんだと思われてしまう。事実は逆で、そういう形式が大嫌いだからこそそういう規定をするのだ。日本人は、形式には意味がないと考えている。だからこそ、形式を変えようという意見に反発する。意味がないものは変える必要がないからだ。ファッションにはまるで興味のない人が、何かあるとすぐにスーツを着てくるようなものなのだ。

たとえば、画家が来る日も来る日もリンゴの絵を描いていたとしよう。何も知らない人は、たまにはミカンやバナナの絵を描いたら?と言うかもしれない。しかし画家は、真の美が形式ではなく言葉にできない部分に宿るとするならば、同じリンゴの絵を描いても出てくる微妙な陰影や味わいの差が真の美なのであり、絵の対象をミカンやバナナに変えることは無意味なことだと言う。それを聞いて何も知らない人は、なんだかよくわからんがあいつはヤケにリンゴが好きなんだな、と思ってしまう。画家は、真の美を言葉で説明することはできないということを知っているので、つい「ああ、もうそういうことでいいよ」と言ってしまう。これが日本人の言う「建前」である。

欧米人は、「もうそういうことでいいよ」と言われると怒ってしまう。「なんだよ、説明してくれないのかよ。面倒がらずに少しくらい教えてくれたっていいだろ」と思ってしまう。言葉には力があると思っているから、がんばって言葉で説明してもらえばきっと理解できると思っている。日本人は、言葉には力はないと思っている。だから、説明はムダであり、むしろ説明しろなんて言っているから真の理解を得られないのだと思っている。言葉で理解しようとしないでまずは感じろ、と言いたいのだが、それもまた言葉でしかないという矛盾に直面して、何も言わずに黙っているしかないと考えてしまう。


そろそろまとめよう。日本人は、「言葉」というものはとても重いものであると考えている。武士に二言はなく、綸言汗の如し、一度出た言葉は永遠に残り続け、後で取り消したり訂正したりすることのできないものだと見なしている。しかし同時に、この世は諸行無常であり、永遠に残り続けるような存在は何一つないと考えている。結論として、永遠に残り続けるような「言葉」はすべて偽物であり、真実はそこにはないということになる。

日本人のいう「建前」とは、重すぎる言葉が作る偽の世界である。そして真実の世界である「本音」は、言葉が存在しない世界だ。言葉が存在しない世界を見ることができない人にとっては、日本人のいう建前の世界が重すぎると感じる。実際には、建前の世界は偽物であり、みんな言葉で遊んでいるだけで、誰も真剣にそれが正しいとは思っていないのだ。

日本人は、言葉なんてものは解釈によっていくらでも曲げることができると考えている。たとえば、ある罪を犯したものは斬首とすると決まっているが、どう見ても情状酌量の余地があるとしよう。日本人なら、規則は規則だからと斬首にするのではなく、しかし規則を破棄するのでもなく、大岡越前みたいな人が出てきて「ちょんまげを切ることは首を切ることに等しい」とかなんとか変な理屈をつけて、実際には首を切ってないのに切ったことにしてしまう。たぶん欧米人なら、わざわざ苦しい言い訳を考えなくても、単にこれこれの理由で情状酌量の余地があるから斬首にはしないとはっきり言えばいいじゃないか、と思うだろう。

言葉というのは融通がきかない不完全な道具でしかないのに、いったん出た言葉は完全で永遠に不滅であるように受け取られてしまう。そのギャップを埋めるために、本音と建前の二重構造がある。「言葉は完全なもの」という思い込みを捨てて、不完全な言葉を訂正し続けながら使っていこうという外国式のやり方をするのではなく、言葉をどうしようもなくなったときに使う最後の手段として残し、普段は言葉を使わないようにしようと考えるのが日本式のやり方だ。完全なものとしての言葉は道具としては大きすぎて振り回しにくいが、大きいから力がある。


日本式の「本音と建前」のシステムは、全員が本音と建前を区別していて、建前は偽物であると了解している場合にのみうまく行く。しかし、最近、建前の世界が偽物であるということをきちんと認識していない人が日本人にも増えてきているんじゃないかと思う。欧米式に、建前の世界なんてぶっ潰してみんな本音の世界だという方向に進み始める場合は、その裏にある「言葉は不完全である」という考え方を受け入れていないと、おかしなことになってしまう。

人には「建前じゃなく本音の言葉が聞きたい」と言っておいて、いざ本音の言葉が出てくるとそれを絶対視して叩く。そういう一貫していない態度ではダメだ。そして、「言葉は完全なもの」という前提で行くなら、言葉を使おうとしてはいけない。