カウンターカルチャー

今のアニメはサブカルチャーではなくカウンターカルチャーである。

いわゆるオタクと規制の問題は、繰り返し話題になり、しかもネタにしやすいので、またかと思われるかもしれないが今回もこのネタで書くことにする。

これから、今のオタク系のマンガやアニメなどは、世間から非難されるのが当然なのだという話をする。それはなぜかというと、これらがカウンターカルチャーだからだ。アニメやマンガがサブカルチャーだった時代はもう終わった。これらが既にメインとして取り込まれてしまい、残りの部分が先鋭化してカウンターカルチャーとなっている。


サブカルチャーとカウンターカルチャーの違いは、漢字で「非」と「反」の違いだと言えばわかるだろうか。一般人の価値観というものがもしあるとして、そこから外れているのがサブカルチャーで、それを否定するのがカウンターカルチャーである。サブカルチャーが否定するのはあくまで、メインカルチャーが自分自身しか見ていないことに対してだ。メインカルチャーもいいが、サブカルチャーもいいと主張する。それに対してカウンターカルチャーは、メインカルチャー自体を劣った存在だとして、自分たちの方がそれより上だと主張する。

たとえば、テレビが主な情報源となっている一般の人を「情弱」「スイーツ」などと揶揄する人には、「自分たちはメインカルチャーより上だ」という意識がある。ではなぜ自分の方が上なのか。彼らが「テレビ以外見ないから」と答えるのがサブカルチャー的な意識で、「テレビなんかを見ているから」と答えるのがカウンターカルチャー的な意識だ。前者はテレビを見ること自体は否定していないのに対して、後者はテレビを見ること自体を否定している。

サブカルチャーは、メインカルチャー自体を否定しているわけではないので、だんだんメインカルチャーに取り込まれていく。今のドラマやハリウッド映画の多くがマンガ原作なのがいい例だ。それに対して、カウンターカルチャーはメインとは相反するから、そこに取り込まれることはない。


さて、今のオタク系はサブカルチャーなのかカウンターカルチャーなのか。これについてはメインカルチャーが持っているタブーを必要としているかどうかで見分けるといい。サブカルチャーは、自分のやりたいことをやろうとするとたまたまタブーに引っかかる。それに対して、カウンターカルチャーは最初からタブーに引っかかることを目的として活動する。

たとえば、ボーイズラブ系では、男同士の恋愛というのが「禁じられた関係」であること自体が背徳的でドキドキするというのであれば、それはカウンターカルチャー的要素を含む。男性向けなら、「パンツを見せてはいけない」という暗黙の了解をわざと破ることに意味があるのであれば、それはカウンターカルチャーである。

それに対してサブカルチャーは、メインカルチャーのタブーそのものがない世界を作る。たとえば中世ファンタジーもので女主人公が水浴びをするとき、ビキニやスクール水着できわどいポーズを連発するのはカウンターカルチャーで、当たり前のように全裸なのがサブカルチャーだ。

端的に言うと、カウンターカルチャーでは、本当に性描写を見たいわけではなく、単に放送コードに引っかかって自粛になりそうな表現を敢えてやる制作者を見たいだけなのだ。だから、当たり前のように裸全開だとかえって萎えてしまって、「見えそうで見えないのがいい」などと言い出す。エロものの二次創作や、ロリコンまがいのアニメ絵、レイプ描写や虐待描写なども、それが「いけないこと」だからこそ彼らにとっての意味が出てくる。いいことだからやっているのではなく、いけないことだからやっているという、価値観の倒錯が起きている。

そう考えると、オタクが叩かれるのは当然のことだと言える。オタクだから叩かれるのではなく、わざと叩かれるようなことをするのがオタクなのだ。もし現状が叩かれなくなったら、彼らは叩かれるようになるまで過激な表現を目指すだろう。彼らにとって、叩かれることこそがアイデンティティなのであり、叩かれないような場所ではつまらないのだ。

だから、「過激な性描写は子供に見えないところでやればいい」という意見は、正論だが問題の解決にはなっていない。いや、より詳しく言うと、これが問題の解決になっていないということそのものが問題なのだ。彼らにとっては、少年誌でそういうことをやるということに本当の意味があるのであり、そういう迷惑な人たちであるということが本当の問題なのだ。


サブカルチャーとカウンターカルチャーは、出始めの頃は外から見てもなかなか区別がつかない。特に、メインカルチャーの価値観に凝り固まった人には。そして、面白いことに、カウンターカルチャー側の人が一番メインカルチャーの価値観に凝り固まっている。

サブカルチャーもカウンターカルチャーも、出始めは同じように嫌悪され叩かれる。しかし、前者は今の価値観を捨てて見れば「案外いけるかもな」と思えるのに対して、後者は「どう見てもこれはアカンやろ」としか思えない。茶髪とガングロがいい例だ。どちらも当初は「まともな人間のすることではない」と言われたが、前者はいつの間にか受容され、後者はすたれた。

カウンターカルチャー側の人は、メインカルチャーの価値観に凝り固まっているので、茶髪を「案外いけるかも」と思うことができない。同じように「大人がダメだと言うことをやっている」としか見ることができないので、なんであっちが受容されてこっちはダメなのかが理解できない。彼らは、「大人がダメだと言う=ダメ」という価値観しか持っていなくて、そこから抜け出そうともがいている最中なのだ。

サブカルチャーの構成員は、開放的で好奇心旺盛だ。「来る者は拒まず」的な雰囲気があるが、反面気まぐれでまとまりがなく、すぐ別の面白いものに行ってしまって帰ってこなくなる。それに対してカウンターカルチャーは閉鎖的、守旧的で規律正しく、そこから出ることは心理的(あるいは物理的)に簡単ではない。これは、典型的なカウンターカルチャーであるヤンキー(不良少年)の集団を見ればわかるだろう。彼らは案外まじめでまっすぐな人間だ、と評価されることがよくある。まじめでまっすぐだからこそ、いい加減な世の中に反抗するのである。

サブカルチャーというのは、面白いものを体験するための手段である。別にサブカルチャーではなくても面白いものはたくさんあるけれど、サブカルチャーにハマる人はたいてい気まぐれで、辛抱強くなく、一つのことにじっくり腰を落ちつけて取り組むのが苦手だ。数か月の間は特定のことに普通の人より没頭しているように見えるが、数年のスパンで見ると、いつの間にか全然違うことをやっていたりする。いろんなことに目移りしてしまうからだ。だから、周囲の人がみな数十年レベルで取り組んでいる課題にはなじめず、まだ誰もやったことがなくて全員がスタートラインに並んでいるような課題を探し歩いている。

それに対してカウンターカルチャーは、それ自体が目的となっている。その内容よりは、カウンターカルチャーのグループに属しているということ自体が重要なのだ。一人でメインカルチャーに反抗していると、「もしかしたら間違っているのは自分自身なのではないか」という不安に直面する。その不安を払しょくするために、仲間を必要とする。「仲間を集めて世間に反抗する」というのが本当の目的で、カウンターカルチャーの内容はその旗印に過ぎない。

カウンターカルチャーの場合、内容は旗印に過ぎないから、記号化・儀式化されてしまう。仲間内にだけわかる共通体験や共通の言葉をつくり、それを使うことで仲間を再確認することが目的なので、体験や言葉の意味はどうでもいい。イベントも、それをイベントとして認識して集まるということが重要なのであって、そこで何をするかというのは重要ではない。極端な話、イベントで集まって何もしないで即解散でもいいのだ。

サブカルチャーの人は、メインカルチャーから出ることを何とも思っていない。それに対してカウンターカルチャーの人は、メインカルチャーを重要視しているが故に、そこから出たいけれども出るのが怖い。そのため、仲間を集めて一緒に出ようとしている。


カウンターカルチャーはメインカルチャーと「戦う」存在だ。彼らはメインカルチャーを攻撃し批判すると同時に、尊敬し大きな存在だと考えている。逆に言うと、彼らはメインカルチャーを大きな存在だと思っているからこそ、それと戦う価値を見出すのだ。

ただ、一つ問題なのは、彼らが「メインカルチャー」だと思っているものは本当の意味でのメインカルチャーではないということだ。彼らは、自分が戦っている相手を「テレビ」だと思っている。もっと詳しく言うと、、80年代から90年代にかけてテレビがつくり上げた、バラエティ番組とトレンディドラマの世界だ。実はこれが間違いで、テレビはメインカルチャーではなく、サブカルチャーなのだ。

テレビが80年代にのし上がった経緯を見れば、テレビこそがサブカルチャーであって、メインカルチャーと戦った存在であるということがわかる。ドリフターズもたけしもさんまもタモリもとんねるずも紳助も、当時のメインカルチャーの批判の対象だった。彼らはあくまで「娯楽の王様」を名乗るだけで、「教養の王様」であるとは自分自身思っていない。テレビの本質は、一億総白痴化と呼ばれていた頃から変わっていない。

本当のメインカルチャーは、自分たちを「偉い」と思っている。毎朝新聞を見て、テレビはNHKスペシャルとN響アワーくらいしか見ず、岩波文庫を愛読するようなのがメインカルチャーなのだ。自分を「偉い」と思っているから、他のカルチャーを低俗だとかバカだとか批判できるわけである。最近では、ネット系がメインカルチャーの座を目指している。その内容の巧拙は問題ではなく、自ら「新しい知」を標榜したり「知の何とか」を論ずるということが、メインカルチャーを目指しているということなのだ。

サブカルチャー全盛の時代になって、メインカルチャーですらサブカルチャーの一つと位置づけられるようになってしまった。自他ともに認める「格が違うカルチャー」がなくなって、どれが偉いとかどれが下らないとかいう評価がされなくなってしまった。あえて言えば、下らないのも含めていろんなカルチャーに幅広く接することが重要だと思われるようになった。「メインカルチャーがなくなった」という理解そのものがメインカルチャーになったのである。

テレビは下品で低俗で幼稚な代物で、そんなものに勝ったとしてもまったく威張れるようなものじゃないということは、テレビ番組の作り手も含めて皆よくわかっている。そんなものを仮想敵にしているのだから、「こんなテレビにまじになっちゃってどうするの」と思われてしまう。サブカルチャー全盛になる前を知っている人たちは、「低俗でもいいじゃないか」と言う。しかし、本当の意味でのメインカルチャーを知らない人、「高尚」なカルチャーを知らない人は、そもそも「低俗」という概念を理解できないので、「低俗でもいいじゃないか」の本当の意味を理解できない。


さて、そろそろまとめよう。オタク系カウンターカルチャーは、世間から非難されるような表現を目指す。彼らは「少年誌で/公共の電波でここまでやるか!?」というのを見たいのであり、同人誌ならば「これは人としてどうよ」と言われるようなものを見たいのだ。だから、その内容が世間から非難されるのは必然だ。彼らは、世間から非難されるということ自体を一種の旗印として、そこに集まってくる。

しかし、世間が他人を「非難」しないようになってしまった。以前は、大学生にもなってマンガを読んでいるだけであれこれ言われたものだ。しかし、今では「いい大人が○○なんかして」とは言われなくなってしまった。昔は、いい大人がアニメを見るということ自体が「反抗」だった。ガンダムガンダムと言っているだけで反抗だったのだ。それが、今ではちょっとやそっとじゃ反抗にならなくなってしまっている。それで、他人が「こりゃダメだろ」と言いたくなるような表現を求めて暴走を始めた。

彼らは過激な性描写を求めるが、実は内容なんてどうでもいい。エロい単語を言って親が困惑するのを見たいだけなのだ。批判に対して「ははは、わかってないなぁ」と言いたいだけなのだ。だから逆に、親が困惑したり批判したりしないと成り立たないのである。


と、ここまで話をすると、カウンターカルチャーとしてのアニメには、実は自分自身のために規制が必要なのではないかと思い当たる。実際、セルDVDという規制の緩い場所が既にあるのに、そっちはあまり流行らない。サブカルチャーの人は自分たちだけで細々とやっていれば満足するのだが、カウンターカルチャーの人はメインカルチャー(たとえばテレビ)を巻き込まないと気が済まない。

最近、地方自治体が萌えアニメに乗っかっていろいろやろうとしている。何せ、萌えキャラさえつけておけば中身は何にもなくても人が集まるのだから、これほど楽なことはない。しかし、彼らもバカじゃない。自治体が大々的にやればやるほど、かえって白けてしまってブームはしぼむだろう。彼らは、自分たちの仲間が主催するイベントには集まるが、仲間でない奴が金儲けのために開くイベントには行かないのだ。今はまだ「公的機関ですら僕らの仲間だ」と勘違いしているが、本当は自分たちは金儲けのネタでしかないということに気付いたとき、そいつらと決別して自分たちでイベントを開く力が残っていなかったら、そこでもうおしまいだ。イベントの主催を人任せにしていると、自分たちではできなくなってしまう。

カウンターカルチャーに対して公的な支援をするのは、彼らの存在意義を潰す愚行だ。カウンターカルチャーの旗手である誰かさんはそれをよく知っていて、暴走し瓦解しかけている現状をうまくまとめる策を考えたのではないかと深読みしてしまう。公的な立場で考えれば、自分たちのイベントが失敗しても、その裏で彼ら自身が興したイベントが大成功すれば、その方が良かったのだと言える。

さて、今までの話の真偽はともかく、カウンターカルチャーに対して言えることがある。カウンターカルチャーは、大人なんかに頼らず、自分たちでつくり運営する必要がある。お前らを利用し食い物にしようと狙っている大人がいるから気を付けて、その手に乗らないようにしろ。それから、大人になってもまだそこに居座っているのはただのバカだ。早く卒業して、叩く側に回ってやれ。