以前、コラムで文系と理系の話をした。文系は主観を、理系は客観を対象とする、という話だった。
理系は客観を主観に置き換える学問であり、文系は主観を客観に置き換える学問である。ところが、対象に興味がなく成果だけを取り込もうとしまうため、客観と主観のイメージが逆転してしまうようになる。本来、外の世界というのは「何でもありのよくわからない世界」であり、それに対して人の心は「よくわかっている存在」であるのだが、それが逆になってしまう。すなわち、外の世界は「すべて知り尽くしたよくわかっている世界」であり、人の心が「よくわからない存在」になってしまう。
これがどういうことであり、その結果どうなるかというのが、今回のテーマである。
たとえば、「ある日突然空から美少女が降ってきて、さえない男がモテモテになる」という筋書きの小説に対して、「こんなのあり得ない」と言う。では、この話のどこがどうあり得ないのか。「ある日突然空から美少女が降ってくるなんてあり得ない」と言う人は、主観と客観の逆転現象が起き始めている。本当にあり得ないのは、「さえない男が突然モテモテになる」ところなのだ。
もちろん、どちらもあり得ないことではあるのだが、厳密に言うと、外の世界には「あり得ない」はない。どんなことであっても、もしそれが起こってしまったなら、それは「あり得た」ことになる。だから、小説の作者がもし「これはあったことなんだ」と主張するなら、それがどういうことであっても、「ああ、そうですか」と言うしかない。
それに対して、人の心には「あり得ない」がある。控えめに言うと「この登場人物は頭がおかしい」となるわけだが。小説が批判されるのは、ここの部分だ。もちろん、小説の作者が「こいつはこんな風に頭がおかしい登場人物なんだ」と主張することはできる。しかし本当の問題は、それがあり得るかどうかではなく、そういう頭のおかしい登場人物の小説を読みたいかどうかなのだ。小説の登場人物に対する「あり得ない」は、「もし自分がその登場人物だったら絶対にそんなことはしない」という意味だ。
つまり、「あり得ない舞台で普通の人がどうするか」という話は興味を持てるが、「普通の舞台で頭のおかしい人がどうするか」という話には興味を持てない。なぜならば、客観に対しては意外性(「未知の世界」)を、主観に対しては同一性(「自分と同じ」)を求めるものだからだ。
現実の世界は、無秩序で、不条理で、無限に複雑で、人間の理解を超えた存在だ。こういう前提を持てなくなって、現実の世界を単純で固定的なものだと考えてしまう。こうなる理由として、日頃の生活で主観にばかり触れて客観に触れることがなくなっているということが挙げられる。すべての情報は他人からもらい、自分がすることと言えばそれを他人に渡すだけになると、主観の世界だけで物事が完結してしまうようになる。
客観の世界には、目的も意志も倫理もない。ただそこに何かが「ある」だけだ。しかし、客観に慣れていない人は、ここから話を始めることができず、目的や意志といったものをすぐに考え始める。
陰謀論は、客観が主観に置き換わる例の典型だ。世界自体が、何らかの目的や意志を持って動いていると考えてしまう。これを文字通りそのまま解釈するととても奇妙なことになってしまうので、「世界自体」を神とか宇宙人とかフリーメイソンとか政府を裏で操る権力者みたいな人に置き換えて解釈しようとする。だから、陰謀論に対して客観的に反論しようとしてもうまくいかないのだ。そもそも「客観」という概念が存在しない人を相手にしているのだ、ということを理解しなくてはならない。
「現実世界」という言葉に対してどういうイメージを連想をするかを考えると、この判別ができるかもしれない。無意識のうちに宇宙や地球、海や山や森といった自然を思い浮かべるか、それともビルが立ち並ぶ都会の雑踏を思い浮かべるか。前者は完全に客観の世界だが、後者は既に主観の世界なのだ。
主観の世界というのは、「人間はみな同じ」という考え方である。客観が主観に置き換わってしまっている人は、逆に主観が客観に置き換わってしまっている。つまり、人間というものは無秩序で、不条理で、複雑で、自分の理解を超えた存在であると考えてしまう。
こういう人は、他人について考えるのに、客観的な方法を使ってしまう。対象となる人を観察し、そこから一定のルールを見出そうとする。本来、他人について考える場合は、主観的な方法を使わなくてはならない。これは、他人の気持ちになって考えてみるということだ。自分を他人と重ね合わせて、「あの人は」を「自分は」に置き換えて考えてみるということだ。
「エスパーじゃないんだから、他人の気持ちなんてわかるわけないじゃないか」と言う人がいる。「他人の気持ちがわからない人」というのは最大級の侮蔑表現なのだが、それを自分で言って何の違和感も感じないでいる。もちろん、人によって考えていることは様々だ。しかしそれは、その人の置かれている立場や経験したことが違うからであって、その人の立場や経験を知って、自分も同じ立場にあると想像したならば、その人の考えがわかってくる。少なくとも、そう仮定して考えるのが「主観的な考え方」なのである。
主観的な考え方ができるようになるには、様々な立場を想像する想像力が必要になる。これはまた、様々なことを受け入れることができなくてはならないということだ。たとえば、「タバコなんて体に悪いものをなんで好んで吸うのかまったくわからん」と言う人は、相手の立場に立ってものを考えることができない人だ。結局のところ「わからない」わけなんだから。「タバコを吸ってみたいと思うことも少しはあるけれど、体に悪そうだからやめておく」というように、タバコを好んで吸う人の気持ちも一応わかるようでなくてはならない。
冒頭には「主観と客観が逆になっている」と書いたが、本当は、主観と客観が未分化の状態であると言ったほうがいいだろう。本当の意味で主観的な考え方をするには、相手の立場や経験という「客観」を、本当の意味での主観から切り離して考えることができないといけないからだ。つまり、客観が身についてはじめて主観が意味を持つようになるのであり、客観が身についていないから他の人の主観をすべて客観として切り離してしまうのだ。
客観が身についていない人は、相手に対して自分の感情をそのままぶつける。「怒っている」とか「悲しんでいる」というような。こういう言葉を相手に投げかけることで、「自分は怒っているんだ」ということを相手に示そうとする。Aさんが「私は怒っています」と言うのを聞いてBさんが「Aさんは怒っているということがわかりました」と言うこと、あるいはAさんが怒っているというのを聞いて自分もなんだかムカムカしてくるということが、相手の感情を理解することだと思っている。この2つは両極端な感じも受けるが、どちらも相手の客観を無視して「怒っている」という感情だけに反応している。
客観が身についている人は、感情をそのまま相手にぶつけるのではなく、自分の立場を説明しようとする。なぜ怒っているのか、なぜ悲しんでいるのかを説明すれば、きっと相手も同じように感じてくれるだろうと考える。つまり、Aさんの話を聞いて、なるほどAさんが怒るのももっともだ、と思うこと、あるいは逆に、なるほどAさんはこんな風だからあれに対して怒ってしまうんだなぁ、と思うことが、相手の感情を理解するということなのである。
客観が身についていない人は、相手の話を聞くのに立場ではなく感情に着目しているから、相手が長々と自分の立場や怒っている理由を説明していても、その内容について考えようとしないで、それをどのくらい怒っているのかの指針として使う。「これだけ長々と書いているんだから相当怒っているに違いない」というように。たとえば私がここのコラムで書いているようなことを「怒っている」ととらえる。書いている本人はどちらかというと「なるほど」とか「興味深い」と思っているのであるが。
そういう人は、相手の話をすぐに相手の利益と結び付けて考えがちだ。つまり、「あの人があんなことを言うのは、それで利益を得ることがあるからだ」とすぐに考えてしまう。他人を、利益を最大化するために動作する機械のように考えていて、すべての行動は利益誘導のために行っていると考えてしまう。彼らは、なんか思いついたから書くとか、面白いことをみんなに伝えたいというような純粋で単純な動機を思いつくことができない。
「相手の気持ちを考える」ことができずに、相手をブラックボックスであると考えてインプットとアウトプットからその動作原理を推察しようとすると、どうしてもそうなってしまう。何らかの目標を置いて、それが最大になるように行動すると考える。その目標が「利益」であり、利益の変動の様子を表に出てくる「感情」から推測する。だから、話の内容より、その人がどう感じているかの方が重要なのだ。
さて、今までの話で、「主観」と「客観」という言葉をところどころで意味をずらしながら使ってきたので、混乱したかもしれない。最後に今までの話を整理して終わるとしよう。
本当の「客観」に触れることが難しくなってきているせいで、「主観」と「客観」が未分化なままになってしまっているのがそもそもの問題だ。そういう人は、他人という主観的なものを、客観的に観察して判断する。この場合、無意識のうちに自分の行動原理(たとえば、利益を最大にするために行動するとか、自尊心を保つとか)を相手に投影しているわけだが、本人はそのことに気がついていない。
本来は主観的な方法で見なくてはならない他人という存在を、間違った方法で観察しているわけだから、当然誤差が出てくる。この誤差の原因を、彼らは対象が主観だからなのだと考える。本当は、ずれの原因は観察という客観的な手法を使っているからであり、つまりは対象を客観としてとらえているからなのだ。
そして彼らは、主観である他人と相対する自分のことを「客観」と呼ぶ。本来なら、自分と他人の他に客観的な「世界」があって、自分と世界、他人と「世界」がともに反対の関係にある。だから、自分と他人は「反対の反対」で、似たものとして扱われるべきなのだが、「世界」が抜けているせいで、自分と他人が反対の関係にあることになってしまう。
こういうわけで、「主観」と「客観」の持つイメージが、実際のそれとは反対になってしまうのだ。