選手宣誓の話

時々変なことを宣誓する奴がいるが、選手宣誓は何のためにするのか忘れているんじゃないか?

高校野球などのスポーツ大会では、はじめに必ずといっていいほど「選手宣誓」が行われる。しかし、この内容がだんだん多様化し、それとともに本来の意義が忘れられてしまっているように思う。

昔は、「我々選手一同は、スポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦うことを誓います」という定型文だったのが、なぜか文章を工夫し出して、普通のスピーチみたいな内容になってしまっている。選手宣誓とは誰が誰に向かってなぜ行っているのかということがわかっていれば、こんなことにはならないはずなのだが。

たぶん、「誓い」という行為が日本人にとってあまりなじみがないから、こうなってしまうのだろう。


そもそも、選手宣誓とは誰に向かってするのか。どうも、観客に向けてするのだと勘違いしている人がいるように思う。選手宣誓は、誓いなのだから当然、話す相手は天上におわします神様である。だから、普通に話すのではなく、遠くまで聞こえるように大声で叫ぶのだ。

誓うことによって、誓った内容に対する拘束力がはたらく。「正々堂々と戦う」と神様に向かって宣言したんだから、卑怯なことはしない。そして、そうやって誓っている様子を見ることで、周りの人も「こいつはきっと卑怯なことはしないだろう」と安心する。もちろん、それを聞いて一番安心するのは、対戦相手である選手だ。選手全員が同様に誓いを立てることによって、卑怯な行為がなされる心配がなくなり、正々堂々と戦えるようになる。

たまに、スポーツ大会でなんか変なことを誓う奴がいる。「明るく楽しくやる」とか、「真剣にやる」とか。別に、お前が楽しくやろうが、苦しくやろうが、こっちは知ったこっちゃない。まあ、ふざけてやられると腹が立つから、「真剣にやる」はアリかもしれないが、なぜ「正々堂々」を誓わなくてはならないのかを考えると、これはちょっと的外れに見える。

スポーツ大会では、全員が勝つことを目指す。これが大前提である。いや、もっと正確に言うと、勝つことを目指さなくてもいいのだが、そういう奴は負けるという形で淘汰されるから、特に問題ない。しかし、「正々堂々」だけは違う。正々堂々とやらない方が、正々堂々とやるより勝つ確率が大きい。だからこそ、「正々堂々」は参加者全員に強制しなくてはならないのだ。


見方を変えると、「正々堂々」あるいは「スポーツマンシップ」というやつは、明文化できない以上、神に誓うしかないことだと言うこともできる。

もちろんスポーツはルールにのっとってやるわけだが、「明文化されたルールに適合していれば、あとは何をやってもよい」というわけではない。しかし、じゃあ何をやっちゃいけないんだよ、はっきりさせろよと言われて、それを答えた瞬間、それは「明文化されたルール」になってしまう。そしてその瞬間、抜け道が生じてしまうのだ。

だから、「何をやっちゃいけないんだよ」と聞かれたら、「そんなことは自分で考えろ」と言うしかない。そして、そんなあいまいな状態でもちゃんと罰することができる人は、神様しかいない。だからこそ、スポーツマンシップを神様に誓う必然性があるのだ。

逆に言うと、みんなが「それってやっちゃいけないんじゃないか」と思うが、しかしルールにきちんと書いてないことを禁止するために、スポーツマンシップという概念がある。スポーツマンシップにもとるからやっちゃいけないのではなく、やっちゃいけないことを「スポーツマンシップにもとる」と呼んでいるのだ。


本来は、選手全員が順番に宣誓台に立って誓いを立てなくてはならない。しかし、それではあまりにも時間がかかるから、選手代表が一人で宣誓台に立って行う。選手代表に続いて全員で唱和することもあるが、こちらの方が全員が誓ったことになるから、本式である。

そんなわけで、選手宣誓のはじまりは必ず「我々、選手一同は」でなくてはならない。選手全員が同じように宣誓をしたという形式になっていないと、意味がないのだ。

また、はじまりが「我々、選手一同は」となっている場合は、代表が宣誓した内容が、選手全員に適用されるようになってしまう。だから、選手代表は、勝手に変なことを誓ってはいけない。選手の誰かが、「ちょっと待てよ、俺はそんなことまで誓うつもりはないぞ」と思うようなことを宣誓してはいけない。


また、「誓い」の内容は、自分が自発的に行える行為でなくてはいけない。自分でコントロールできない事柄について誓うのは筋違いである。

たとえば、「必ず優勝することを誓います」と神様に言うと、神様は「おいおい、誰が優勝するかを決めるのはお前じゃなく俺だ。思い上がるなこのサルめが」と思うだろう。神様に言うなら、「どうか優勝させてください。お願いします」でないといけない。

「明るく笑顔でやる」というのも、微妙な線だ。自分の心の持ちようの問題ではあるが、ふとした気の緩みで破ってしまうことだってありそうだからだ。気の緩み程度で破れてしまうような誓いは、かなり危険だ。

そもそも、誓いというのは重大な行為だ。それを破ってしまった場合、天罰で済めばいいが、下手をすると神様のご加護を失うことにだってなるかもしれない。だから、誓うなら、完全に自分がコントロールできるような行為にすべきだ。そういう意味で、「正々堂々」は後のフォローが効くから危険が少ない。もし一時的に魔がさして卑怯なことをやってしまったとしても、後でそれを悔やんで正直に申し出れば、それは「正々堂々とした行為」になる。

スポーツからはちょっと外れるが、「○○を必ず倒す」というような誓いも、見た目に反して安全だ。誓いを破ることができないからである。自分か相手が死ぬまで「今度こそヤツを倒す」と言い続けてればいい。こんな風に、誓いの内容はめったなことでは破れないようにすべきである。その点で、期限は区切らないほうがよい。


結論。選手宣誓は、プレイ中の卑怯な行いをなくすという実用上の理由がある。現実には形骸化しているとしても、もともと何のためのものだったかということは知っておくべきだ。

これは、「勝つために何でもしていいわけじゃないぞ。たとえルールでは禁止されてなくても、やっちゃいけないことはあるんだぞ」ということを、選手全員に周知させ、確実に実行させるためのものだ。このことは、人間が言っても説得力がないので、神様に言ってもらわなくてはならない。そのための選手宣誓なのだ。

選手宣誓は一種の神事だから、変にアレンジすることなく、定型的な文章をみんなで唱和すればいい。この儀式は、定型的だからこそ厳かで意味があるのだと私は思う。スピーチしたいのなら、「選手を代表して一言」と題して、勝手にやればいい。