話が持ち上がるたびにいろいろと物議をかもすエロや暴力表現の規制だが、考え方がずれている人が多いように思う。「何が悪いのか」という根本が理解されていないのではないかと危惧している。
どうも、この問題を人権問題ではなく、わいせつさや気持ち悪さの問題だと思っている人が相当数いるように見える。だから、表現の内容ではなく、パンツが見えたらNGとか、乳首が見えたらNGといった、絵としての表面的な話に終始してしまう。
これから書くことを、普遍的で絶対的なものであると主張するつもりはないが、こういう考え方もあるのだということを念頭においてほしい。そして、人権を踏みにじるような描写を平気で行い、しかもそれが人権侵害だということすら気づいていないからこそ、「こいつらをなんとかするにはもう規制しかない」と思われているのだということに気づいてほしい。
日本の、特に同人マンガでは、レイプ表現がとても多い。レイプというのは、見知らぬ人にされるばかりではない。たとえ恋人同士や夫婦同士であっても、相手が嫌だと言うのにやるのはレイプだ。つまり、性的描写で、「イヤ」とか「やめて」という言葉が出てきたら、それはもうレイプなのだ。少なくとも、相手が「イヤ」と言ったらすぐにやめろ。
また、性行為に対して見返りを求めるのも問題だ。「お金をあげるから」というのが問題なだけではない。「プレゼントをくれるから」も、「いつも一緒にいてくれるから」も同じだ。「本当はあまりしたくないんだけど、しないことによって不都合が起きるからする」と考えること自体が問題なのだ。双方が「したいからする」と思っていない限り、問題のある描写なのだ。
他の事ならば、メリットとデメリットを天秤にかけて少しでも多い方をとればいい。しかし、性的な内容に対しては、他の物と比較してはいけない。なぜならこれは、人間の尊厳にかかわることだからだ。ぶっちゃけた話、いくら裸を見られても、触られても、何かが減るわけじゃない。「デメリットは?」と聞かれると、「ない」という答えになってしまう。損か得かという話をしたら、「失うものは何もないのにお金だけ入ってくる!超お得!」になってしまう。
しかし、というかだからこそ、そこに「人間の尊厳」という名前をつけて、断固守っていかなくてはならないのだ。人間の尊厳は、程度問題ではない。切り売りすることはできないし、「ちょっとだけなら」もない。また、理屈でもない。理屈をつけようとすればするほど、人間の尊厳は失われてしまう。人間の尊厳というものは何物にも代えがたいということを否定することそのものが、人間の尊厳の冒涜なのである。
まとめると、相手が少しでも「イヤ」とか「やめて」と言うのに強引に進めたり、金やモノやサービスなどの提供の見返りとして性行為を要求するのは、人間の尊厳を踏みにじる卑劣な行為だ。女性が大股おっぴろげて「ヘイ!カモン!」と言ってるなら問題はないのだが、そうでないのなら、少なくともそれが卑劣な行為だということを認識すべきだ。
グロの問題も同様で、本来は人権問題だ。問題なのは、気持ち悪い絵を見せることではない。人に苦痛を味あわせ、苦しんでいるのを喜んで見ていることが問題なのだ。
相手を殺すときには、できるだけ苦痛を少なくしてやらなくてはならない。じわりじわりといたぶり殺すのではなく、脳天を撃ち抜いて一瞬で殺してやらなくてはならない。そういう意味で考えると、西部劇に比べて時代劇は残酷だ。西部劇では相手は早撃ちの一撃で倒れるが、時代劇では斬られた相手は腹を押さえてもがき苦しんで死ぬ。どっちの死に方がいいかと聞かれたら、もちろんどっちも嫌ではあるけれど、まだ前者の方がマシだと思うだろう。
同様に、手足を切り落とされるのは残酷だが、頭を吹き飛ばされて脳みそが飛び散るのは残酷ではない。相手をボコボコ殴って殺すのは残酷だが、マシンガンを乱射するのは残酷ではない。問題は、もう死ぬことが決まっている相手に対して、いつまでも痛みを感じたまま生かしておくことなのだ。だから、相手がゾンビならば、ボコボコ殴ろうと手足を吹っ飛ばそうと問題はない。奴らはまったく痛がらないからだ。
致命傷を負って倒れている人が「頼む……早く楽にしてくれ」と言って、それに応えて主人公が銃で頭を撃つ。また、知人がゾンビや化け物になってしまった場合には、ためらわずに撃つ。いずれも、回復不可能なら、せめて苦痛を早く終わらせてやるのがその人のためだという考え方に基づいている。
外国のゲームのスプラッターな部分や、おっぱい丸出しの描写なんかが、日本に入ってくるときに規制されることが多い。しかし逆に、日本のアニメを海外に持っていくと、残酷だ変態だと言われる。双方で、見ているところが違っているのだ。
本当の問題は、シチュエーションにある。だから、一枚の絵を見せられて、これのどの部分が問題でどこを修正すればいいかといったことを判断しようとする時点で、問題の所在を取り違えている。もちろん絵を見ただけでシチュエーションがはっきり問題だとわかるものもあるが、本当の問題はそこに至る過程にある。
こうしたことが人権侵害の問題だということをよく理解していない人がいて、レイプや拷問や虐待を嬉々として描く。しかも、自分が描いているのがレイプや拷問や虐待であるという認識すらない。自分が描いているのが、悪いことであるということがわからないのだ。
表現の規制の話では、よく「肯定的な表現が問題で、否定的な表現ならいい」と言われる。それが悪いことであるとわかっていてわざと描いている場合は、たとえ表現は肯定的に見えたとしても、端々から否定的な雰囲気がにじみ出てくる。あえて肯定的に描くことで問題を際立たせようとしている、ということがなんとなくわかる。それに対して、悪いことであるとわかっていない人は、否定的な雰囲気を出しようがない。たとえ否定的に描いたとしても、それは見よう見まねの作り物なので、どこか違う表面的な感じがするようになってしまう。このように、表現の規制は微妙な問題なので、それをお上が規制することの是非は難しい問題だ。しかし、規制することが難しいからといって、肯定的な表現が問題であることに変わりはない。
最後に、もう一度言っておく。相手が「やりたい」と思っていない性行為はレイプだ。相手が苦しむのを黙って見ているのは残酷だ。相手を殺すなら、すっぱりと殺せ。そして、問題のある行為を描くときには、少なくともこれらが人権を踏みにじる卑劣な行為であるということを認識して描くようにしろ。