自己責任とは

自己責任とは、ごく当たり前の事実であり、認めるしかないものである。

ちょっと前、医療現場でインフォームド・コンセントが大事だと言われていたが、今ではその弊害も問題になっている。そもそも、インフォーム・ドコンセントの前提になっている「自己責任」の考え方をきちんと持っていない人がいるからだ。

自己責任という言葉の意味をよくわかっていない人は、この言葉を、「自分が責任をとる」という意味だと思ってしまっている。本当はそうではない。「自分以外には、責任をとれる人など誰もいない」という意味だと考えるべきだ。そう考えると、自己責任というのは当たり前のことであり、単なる事実を述べているに過ぎないということがわかる。


インフォームドコンセントは、日本では医療現場以外ではほとんど使われないが、もともとは医療に限らず、「契約をよく理解したうえで合意しましょう」という考え方だ。こう書くと、ごく当たり前のことを言っているに過ぎない。

医療現場でこれが特に問題になるのは、契約をよく理解することが難しいからだ。医者の側は、そういう面倒なことはできるだけ省いて、病気を治すために一番いい方法はどれかということだけを考えたい。しかし、患者の側に立ってみれば、自分の命を左右する一大事を、「一番いいようにしてあげますから、何も言わずにハンコを押しなさい」と言われて、ああそうですかと簡単に押せるわけがない。

本来、インフォームドコンセントは嫌がる医師に対して患者が言うものだ。医者が「説明なんて面倒だからいらないでしょ。一番よいと思うようにやっておきます」と言うのに対して、患者が「バカにすんな!俺の命に関することなんだから俺にきちんと説明しろ!やるかどうかは俺が決める!」と怒る立場でなくてはおかしい。日本ではそれが逆で、医者が「インフォームドコンセントに従ってきちんと説明します」と言うのに、患者が「面倒だから先生の一番良いと思う方法でやってください」と答える。

インフォームドコンセントがなかったらどうなるか。医者が、手間のかからない簡単な処置だけして、その結果患者が死んでしまっても、「これも運命だったんですよ。仕方がない」で済んでしまう。「もうちょっと高度な処置をすれば助かったかもしれないじゃないか!」と言われても、「そういう処置にはリスクもありますので、もしかしたらもっと悪くなっていたかもしれない。リスクと効果を総合的に判断して、今回はこの処置が適切だと判断しました」と答えるだろう。そうすると、結局「運命だった。仕方がない」という結論は、ひっくり返すことはできなくなる。

この話は、自分の儲けしか考えない悪徳医者のことを言っているのではない。人間の知ることができない未来のことがらに対して、リスクと効果を総合的に判断すると、答えが一つに決まるということはあり得ないのだ。どちらを選ぶべきか、最終的には人間の主体的な判断にまかされる。その、主体的な判断を、できるだけ自分で行おうとするのが、自己責任の考え方である。


自分で主体的な判断をした場合には、その結果自分にとって都合の悪いことになっても、「自分で決めたんだから仕方がない」ということになる。それが嫌な人がいて、できるだけ自分では主体的な判断をせず、他人に決めさせようとする。そして、「他人が自分に都合のいい決定ばかりを行い、その結果すべてがうまくいく」という、あり得ない期待をする。

重要なことを他人に決めさせるようにすると、常に「この結果になったのはあいつのせいだ」と言える。しかし、だったらどうだというのか。いくら「あいつが悪い」と言ったところで、起きてしまったことはもう戻らない。だから、望む結果を得るには、何を考えているかわからない他人に任せてしまうのではなく、結果を左右するために自分で行動しなくてはならないと考える。

自己責任論が嫌いな人は、結果よりも、「自分は悪くない」と言えることのほうが大事だと思っている。どんな結果になろうと、「あなたは悪くないよ」とさえ言ってもらえれば満足だ。実は、彼らはとてもおびえているのである。常に「自分は悪くないかどうか」を心配している。責任がなければ、「お前が悪い」とは言われずに済む。だから責任を持たないようにする。

人間には未来はわからないし、未来は誰かの行動だけで決まるものでもない。そして、現時点で何が最適の行動なのかということはわかるはずもないし、そもそもどんな結果が一番いいのかということすら定義できない。いわば、暗闇の中を手探りで進んでいるようなものだ。

そんな中、「先が見えないから進めない」と泣き叫ぶ人がいる。「誰かここから連れ出してくれ」とうるさいものだから、仕方なしにそいつの手を引っ張りながら手探りを続けると、壁にぶつかるたびに「お前のせいだ」とうるさい。そいつは、他の人もみんな自分と同じ状況なんだということに気がついていないのだ。

先が見える人なんて誰もいないんだから、何もわからなくても手探りで歩き出すしかない。それが「自己責任」なのである。


なお、「自己責任」を「自分で何でもやる」ことと勘違いしている人もいるが、そうではない。自分のことを自分で決めるのが「自己責任」である。「他人に任せる」と決めることもまた、自己責任だ。

ただし、他人に任せることに決めた場合は、他人もまた手探りで進んでいることを忘れてはいけない。誰に任せるか、どこまで任せるかも自分で決めることであり、すなわち自己責任である。

他人に任せたからといって、その人が全部都合よくやってくれるとは限らない。だから、時々チェックして、必要な対策を講じなくてはならない。いや、「しなくてはならない」と言うと勘違いする人がいるかもしれないのでもう少し詳しく言うと、自分の望む結果を得たいならちゃんとチェックしなくてはならないし、多少望まない結果になってもいいからそこまで手間をかけたくないのであれば、チェックしなくてもいい。それもまた、自分で決めることだ。


自己責任の考え方を、「弱者切り捨て」と批判する人もいる。しかしそれは違う。自己責任とは、当たり前の事実を述べているに過ぎない。自己責任ということを冷静に受け止めて、その後でどうするかということは、各自で考えることだ。

たとえば、「危険!立ち入り禁止」と書いてある川に入っておぼれたとする。しかし、「立ち入り禁止の場所に入ったんだから自己責任だ」と言って、救助に行かないということはない。

確かに、そこがとても危険な場所で、救助に入るとその人までおぼれそうだったら、すぐ助けに入ることはせず、ロープや浮き輪を探しに戻るかもしれない。そして、救助に時間がかかったせいで、おぼれて死んでしまったということになるかもしれない。場合によっては、救助をあきらめるということもあるかもしれない。しかし、自己責任というのは、「おぼれたとき、救助が来ないかもしれないことを覚悟せよ」ということであって、自己責任だから救助に行くべきではないということにはならない。

ただし、懲りずに何度もそこに入っておぼれて救助されるということを繰り返していると、そのうち誰も助けに来なくなってしまうかもしれない。そこに自己責任、つまり「救助が来ないかもしれないという覚悟」がないからだ。「俺が悪かったよ。助けてくれてありがとう」と言う人に対しては助けてよかったと思うが、「助けてくれて当然。むしろなぜもっと早く助けてくれなかったんだ」と言う人に対しては、むしろそのまま川の底に沈んでいた方がよかったと思う。

自己責任の考え方を持っている人は、同じように自己責任の考え方を持っている人は助けてあげようとする。しかし、自己責任の考え方を持っていない人は、アホらしくて助ける気を失くす。「自己責任」で切り捨てられるのは、弱者ではない。切り捨てられるのは、自分の立場をわかっていない人である。


さて、そろそろまとめよう。自己責任というのは、あったりなかったりするものではない。それは事実であり、認めるしかないものだ。

先が見えない状態で、どっちへ進むか、あるいは進まないか。どの選択も、その時点でどれが正解かということを決定することはできない。なにせ、何もわからないのだから。しかし、そうであっても、どれかを選ばなくてはならない。どれを選んだとしても、それを選んだのは自分なのだと認めることが、「自己責任」なのである。

自己責任の背景には、「何もしないのに常に自分に都合のよい結果になるなんてことはあり得ない」という、ある意味当たり前の認識がある。そして、「何かすることによって、少しは自分に都合のよい結果に近づけることができるかもしれない」と思うからこそ、何かをする。他人に対しては、「その人に都合のよい範囲で自分にも都合のよいことをしてくれるかもしれないし、してくれないかもしれない」と考える。

こう書けば、自己責任というのは、ごく当たり前で常識的なことであり、とりたてて批判することも反発することもないものだということがわかる。