児童ポルノ法の話

児童ポルノは悪である

若干旬を逃がしつつある児童ポルノ法の話だが、問題点をちゃんとわかっていない人が多いようで、的外れな批判がたくさんある。コラムでも何度か問題にしたことがあるが、「法律」というものの意義を正しく認識できていない人が多いようだ。というわけで、前回のコラムの続きでもある。


まず、前回のコラムから引き続く話をしよう。「どこまでが児童ポルノなのかはっきりしないのが問題だ」と言っている人がけっこういる。「子供の裸の写真を持っていたらそれだけで犯罪になってしまう」と思ってしまっている人もいる。これは早とちりだ。

ちゃんと「性欲を興奮させ又は刺激するもの」と書いてあるではないか。だから、性欲を刺激しないものならいいし、逆に、性欲を刺激するものはダメなのだ。では、どこまでが「性欲を刺激するもの」で、どこからが「性欲を刺激しないもの」なのか?そんな線引きは、法律に書けるようなものではない。これは、裁判官が個別に判断することだ。

たまに、法律は機械的に「犯罪である」か「無罪である」かを判別できるようなものであると勘違いしている人がいる。そんなことができるわけないし、もしそうなら裁判官などいらない。犯罪であるかどうかを機械的に判別することはできないし、誰が見ても誤読できないような法律文を書くこともできないからこそ、裁判官が存在するのである。

「たまたま子供の裸の写真を持っていただけで逮捕されてしまうかもしれない!」と危惧する人もいる。それはその通り。問題は、「逮捕されること」を大げさに考えすぎることなのである。逮捕されても、法廷で無実が証明されればそれで万事OK。そう考えられないことが問題であり、また事実「それでOK」で済まない現状の社会を変えなくてはならない(これは制度ではなく我々の認識の問題であり、我々が変わろうとしなくてはならない)。

「逮捕されること」を大げさに考えると、線引きをする権利が裁判官ではなく警察に移ってしまう。何が犯罪かを決める仕事と犯罪者を捕まえる仕事が一つの機関に集中すれば、冤罪が起きるのも当たり前だ。警察はあくまで「犯罪者かもしれないやつを捕まえる人」であり、犯罪かどうかを本当に判断するのは、裁判所でなくてはならない。


あと、念のために書いておくが、「昔は10代で結婚するのが普通だった」と、「昔はそれでよかったから今でもいい」というバカなことを言い出す人も結構いる。そういう奴は、放っておくと「どこでも喫煙できるようにしろ」とか「犯罪者は家族親戚含めて全員切腹させろ」とか「大きな工事の際には人柱を立てろ」というように、先人たちの努力で断ち切った悪癖を復活させようとする可能性が高い。だから、こういうことを言う奴は、バカだなぁと思って聞くようにしなくてはならない。

昔は問題とされていなかったことが、今では問題となることなんていくらでもある。だから、昔を持ち出すのは間違っている。


さて、いよいよ「児童の裸の絵を持つは悪いことか?」という大きな問題に移るとしよう。この問題は、3つの論点がある。

  • ポルノの問題
  • 児童ポルノの問題
  • 児童のポルノ「絵」の問題

まずは、ポルノの問題についてだ。公然わいせつなどが普通の犯罪と違うのは、被害者がいないところである。そしてこれは、麻薬売買や自殺幇助などにも同じように言える。関係した誰もが喜んでいるのに、犯罪になってしまう。だから、「別に麻薬売買を禁止する必要なんてないじゃないか」というようなことを言う人もいる。

こういう犯罪は、一般的に「公序良俗に反する」と称される。公序良俗とは「公の秩序と善良の風俗」の略だ。「風俗」と言う言葉も最近はエロの意味以外にはほとんど使われないが、この場合は「日常生活上のならわし」とでもいうような意味だ。

たしかに、「公序良俗」というのは怪しげで、どこからがそれに反するのかはなかなかはっきりとしたことは言えない。だから、あまり公序良俗を振り回さない方がいい。


それに対して、児童ポルノの問題は、「公序良俗」の問題ではない。児童というれっきとした被害者がいて、関係した誰もが喜んでいるわけではない。だから、問題はより簡単だ。

難しい点は、児童ポルノの場合、児童が自分の行為に同意していることが多々あることだ。万札をヒラヒラさせれば、女子高生はホイホイついていってしまう(かもしれない)。もしこれが大人の女性なら、「同意の上での性行為」になって問題はないわけだが、女子高生の場合は問題である。

子供に対しては「双方同意の上での性行為」というのはあり得ない。なぜなら、子供にはまだ性行為の本当の意味がわかっていないのだから。もし女子高生が「そんなのとっくにわかっている」と言ったところで、あてにはならない。子供はバカなので、わかってないこともわかっていると勘違いしがちだからだ。子供の言うことなんて、あてにしてはいけないのだ。

だから、児童に対する性行為は、たとえ児童がどのように考えていたにせよ、一律でレイプ扱いになる。被害者がいるというところが、公然わいせつとの大きな違いである。そしてそれは、たとえ被害者が「自分は被害者じゃない」と言ったところで、自分が被害を受けたということを理解できていないというだけで、やっぱり被害者なのである。

子供が絡む話に対して法律の用語を振り回す場合は、気をつけなくてはならない。法律には、子供の絡む話に対してはいろいろと例外事項がある。子供は殺人を犯しても罰せられないし、子供がした契約は親が一方的に解除できてしまう。いわば法律の例外中の例外なのだ。そこに対して一般的にしか成り立たない話を持ってくると、間違った話になってしまう。


結局のところ、児童ポルノの問題をポルノ問題の延長で考えているから、論点がずれてしまうのだ。本当は、児童ポルノの問題は、いったん女の裸のことは忘れて、児童福祉問題の延長で考えるべきなのだ。

日本ではあまり「未成年者を保護する」という考え方が定着していない。それは、その前にある「大人は自立した個人である」という大前提が定着していないからだ。この前提には、「何が正しいのかということは結局は自分で考えて自分で決めるしかない」という考え方が含まれている。法律の条文も、誰かの論説も、結局は何が正しいのかを自分で考えるための材料でしかないのだ。

自立できていない人は、この「何が正しいのか」という問いを、自分で考えない。だから法律の条文できちんと「何が正しいのか」を決めてもらわないと不安で動けない。だから、法律を自分で勝手に拡大解釈しては「それは範囲が広すぎる」と文句をつける。それが結局は自分の解釈の問題であることに気づかない。

児童福祉の問題は、この「自立」の問題と対極にある。子供は、まだ「何が正しいのか」を自分で考えられない。だから、子供は放っておいてはいけないし、子供を扱う場合は腫れ物に触るようにそっと扱わなくてはならない。子供を大人と同様に扱うこと自体が、既に一種の「虐待」だ。子供は、大人が全力で守ってあげなくてはならない存在だ。そして、子供であるということの本当の意味がわかるということが、大人になるということなのである。

最近、ネット上の有害情報のフィルタリングの是非も問題になっている。学校裏サイトの運営をしている人へのインタビューを時々ニュースで見るが、そういう人たちは一様に大人としての自覚がない。子供を「自分が気を配って面倒を見てやらなくてはならない対象」として見ていない。そこが問題なのだ。

児童ポルノの問題で(反対派として)騒いでいる人たちには、こうした意味で大人としての責任を自覚していない人が目立つ。「自分が児童ポルノを見ること」のみを考えていて、それが周囲にどういう影響を及ぼすのかということを考えていない。自らを「何かを与えられる存在」としてのみ見ていて、「何かを与える存在」として見ていない。だから、児童ポルノの問題を「児童」問題ではなく「ポルノ」問題の延長として考えがちなのである。


さて、児童ポルノの延長で考えると、児童ポルノの「絵」なら問題ないだろうという話になってくるのは、自然なことだ。児童ポルノは、子供が被害者だった。実写の児童ポルノも、写している時点のどこかで、被害者に対するレイプ行為が発生しているはずだ。それに対して、絵であれば被害者はいない。

児童ポルノの絵の何が問題なのかと考えると、また「公序良俗」を持ち出さざるを得ない。つまり、児童ポルノの絵の問題は、問題の内容は児童ポルノに近いが、形式はどちらかというとポルノの問題に近い。

世の中には、被害者がいなくても犯罪とされていること、あるいは犯罪ではないかとよく議論されるいることがある。日本では違法ではないものも含めていくつか挙げると、麻薬売買、博打、公然わいせつ、動物虐待、ダフ屋、近親相姦、妊娠中絶、売春などが挙げられる。たしかにこうした行為は議論にはなるし、時代や社会によって犯罪とされたりされなかったりするけれど、それでも「被害者がいなければ何をやってもオッケー」というわけではない。

「動物を虐待して何が問題なんだ。俺の飼ってる猫なんだから俺がどうしようと自由だ」と言われると、もはや「その行為は人として問題だと思う」としか言えない。動物虐待は、誰の権利も侵害していないが、そんなことをする奴は刑務所にぶち込んで反省させないと困ると普通は思う。これが公序良俗から逸脱しているということなのである。

そういう意味で、児童ポルノの絵の具体的な問題点としては、先程述べたような「大人としての責任を自覚していない」といったような言い方しかできないだろう。もちろん、これが明確ではなく、いくらでも反論の余地があることはわかっている。しかし、「俺の飼い猫を俺が好きなように殺してなにが悪い」という問いと同じように、この問題に対して反論の余地のない説明などできっこないのだ。


ちなみに、児童ポルノが特に問題視されるのは、児童ポルノを「ポルノ」の延長として考える人が多いからだ。要するに、「児童ポルノは問題ではない」と言う人が多いからこそ問題視されるのである。

ポルノについては、一つ特殊性がある。それは、セックス自体は悪いことでも何でもないということだ。「大人になったらむしろ奨励されるが、子供はやるべきではない」ということは、周囲を見渡すとほとんどない。タバコや酒や競馬は、大人になってもあまり良いことであるとはみなされないから、「いいことである」と勘違いしてしまう人はほとんどいない。だからこそ、かえって問題にならない。

つまり、世の中のほとんどの「悪いこと」は、たいていの人が悪いことであると認識している。暴走族を描いても、ギャングを描いても、「これは悪い人を描いている」と誰もが思うわけである。しかし、児童ポルノについては、悪いことだと認識していない可能性がある。だから、わざわざ「児童ポルノも悪」と言わなくてはならないのである。実際、児童ポルノを喜んで見ている人は、そこに存在するはずのある種の後ろめたさを持ち合わせていない人が多い。後ろめたさがないから、歯止めがかからずに暴走してしまう。

本来、こういうことは法律ではなく道徳の問題なので、どこかの牧師さんとかなんとか寺の和尚さんがありがたい説教で呼びかけるのが本筋である。しかし日本ではまっとうな宗教がほぼ壊滅した状態にあるので、こうしたことを権威として語れる人が存在しないし、そもそも児童ポルノをありがたがる人はこういうものに聞く耳を持たない人ばかりだ。

世の中には、法律で「禁止されていること」の他に、道徳的に「後ろめたいこと」がある。しかし、道徳のタガが外れてしまっている人に対しては、何とかして法律で抑制をしないとなんともならない。しかし、これは対症療法であり、本来の病状はかえって悪化させるだけであるということもまた認識しなくてはならない。


結局、法律で取り締まるのは下策だが、それ以外に今の社会が抱える問題を解決する方法は考えつかない。だから、これは難しい問題なのである。法律で取り締まるのは良くないということも、児童ポルノが良くないということも両方認めて、どこに落し所を持っていくのかということを考えなくてはならない。

上で述べたように、この問題の主戦場は法律の分野ではなく、思想や言論の分野である。しかし、思想や言論の分野では、この問題について「法律で取り締まるのは下策」としか言わない人がいるので困り物だ。正直な話、お前らが自分で問題を解決できないから下策を使わざるを得なくなってしまってるんじゃないか。

個人的には、法律は作っておくがめったなことでは適用しないのがよく、そのためには裁判官の良識に委ねられるようにあいまいな文面にしておくのがよいと思う。もちろん、良識のある裁判官を任命するのを大前提とした上で。