あまりに酷い話なので、かなりの間サボっていたコラムを久し振りに復活させることにする。
鳩山法相が、選挙違反事件に関して「冤罪ではない」という発言をして、大いに問題になっている。鳩山法相は、この件に関して釈明をしたが、この釈明はまったくもって正しい。「冤罪」という言葉の意味をわかっていないのは、鳩山法相を批判する人たちの方だ。
「冤罪」という言葉は、裁判で有罪になった人が後に無罪であるということが分かったときにのみ使う言葉であって、裁判で無罪になった人に対して使うべきではない。それどころか、裁判で無罪となった人を「冤罪」と呼ぶのは、とても失礼なことなのだ。
なぜ、裁判で無罪となった人を「冤罪」と呼ぶのは失礼なのか。それは、裁判の時点ではまだその人は「罪」ではないからである。「推定無罪」という言葉があるように、裁判が終わって刑が確定するまでは、その人は無罪であるという扱いでなくてはならない。
裁判で無罪だと分かった人を「冤罪」と呼びたくなるのは、警察に捕まっただけで有罪だと思ってしまっているからだ。警察に捕まった段階では、あくまで「被疑者」であり、疑われているだけだ。罪ではないのである。
それなのに、マスコミは犯人が逮捕された時点でその人を犯罪者扱いしてしまう。今まで犯罪者扱いしてきたからこそ、それが無罪だとわかると「冤罪」になってしまうのだ。まともな人は、裁判で有罪になるまでは、その人を犯人だとも罪人だとも思ってはいない。だから、その人が無罪になっても、冤罪ではないのである。
社会通念上は、そういう事例も冤罪と呼ぶのだ、と言う人もいるだろう。しかしこれは、社会通念上、逮捕されたら犯罪者も同じだと言っているに等しい。確かに社会通念としてはそうかもしれない。しかし、もしそうだとすると、間違っているのは社会通念の方だ。だから、声を大にして、「冤罪と呼ぶべきではない」と言わなくてはならないのである。
もっとも、問題となっているのが不正捜査なのだから、ここで法相が「冤罪ではない」と言うと、別の意味にとられてしまう可能性がある。世間の人が「冤罪だ」と言っているのは、「警察のくせに容疑者を犯人だと決めつけてしまっているだろう」と言う意味だとすれば、意味は通る。そうすると、「冤罪ではない」は「最初から、容疑者を犯人扱いなんかしていない。正当な捜査だった」という意味だと受け取られてしまう。それは間違いである。
つまり、この発言の批判は3通りある。
- 本来、冤罪である。お前は冤罪という言葉の意味を知っているのか?
- あなたの言うように、本来は冤罪ではない。しかし、警察は逮捕した時点 で既に犯罪者だと決め付けていたんじゃないのか?
- あの時の捜査は正当だったと今でも思っているんじゃないのか?あるいは、本当は選挙違反があったと思っているんじゃないのか?
以下のうち、1のような批判はバカのやることなので置いておくとして、2と3の批判は正当な批判である。
2の批判は、「『冤罪ではない』は間違い」と言うより、どちらかというと「お前が言うな」的批判である。「罪」の事実が客観的なものではないとするなら、冤罪かどうかということも客観的なものではなく、「誰にとって」という対象を指定しなくてはならない。客観的には冤罪ではなくても、「逮捕した時点で罪人」と勘違いしている人がいるなら、その勘違いしている人にとっては冤罪なのである。
3の批判は、前後の文脈を見てみないと何とも言えず、究極的には本人に聞いてみるしかない。マスコミも、バカな批判ではなく、ここをズバリと聞いてほしかった。しかし、こう仮定すると、その後の釈明とは話がずれていることになる。本当に鳩山法相がこう考えているなら、冤罪という言葉の意味についての釈明はしないはずだ(口が滑ったのをなんとかごまかそうとしているのでない限り)。
さて、少し不思議なのが、この話はもともと、「二度とあんなことがないように反省しろ」という内容の話だということだ。では、なぜ「あの事件では冤罪ではない」と前置きしたのか。
もし、「あの事件のように冤罪が起きないように反省しなさい」と発言したら、相手はプロだから、きっと「あれは冤罪でない」とツッコミを入れるに違いない。もし私だったら、いらぬツッコミを入れられないように、「あれが冤罪という言葉の定義には当てはまらないことくらい私も知っている。しかしそんなことは関係なく、悪かったのだから反省しなさい」と言うだろう。
この話に関連して、「被害者の心情に配慮するべきだった」なんて言う奴がいるが、それは間違いだ。不特定多数の聴衆に向かっての発言なら、誰が聞いているのかわからないのだから、そういうことに配慮すべきだと言うのもわかる。しかし今回は、目の前にいる検察長官などに向かって言っているのだから、まずは目の前の人に配慮すべきである。
今回の話は、本来は「法相vs検察」の構図である。それが、テレビで取り上げられることで、いつの間にか、「(法相=検察サイド)vs(マスコミ=視聴者)」の構図になってしまう。そして我々は、他人同士で話していることを勝手に立ち聞きして、まるで自分に対して言われたことのように反応してしまう。
当事者ではない人間の立場で話していることが、勝手に立ち聞きしたことによって、当事者の立場にすり替わってしまっている。たとえば、ある会社で社員が不祥事を起こしたとする。そうすると、社長は記者会見では「私の責任です。申し訳ありません」と言うだろう。しかし、社内で部長を集めて「お前ら、きちんと部下を管理しろ!おかげで俺が謝る羽目になったじゃないか」と怒鳴るかもしれない。これはあくまで相手が社内だから言えることであって、記者会見と同列に考えるべきではない。
最近の政治家の問題発言は、こんな風に、閉じた場で言ったことの一部だけが過大に取り上げられて問題視されることが多い。発言は本来、その人の立場や場所、文脈などと分離して考えることはできない。そういったものを無視して言葉尻をあげつらうから、おかしなことになるのだ。
発言者の意図を問題にせず、言葉だけを問題にする、いわゆる「言葉狩り」が行われている。こんなことは決して良いことではない。本当に問題にしたいのなら、きちんと前後関係を明らかにした上で、内容について正当に批判をすべきだ。
鳩山法相の言うことは、たしかに誤解される可能性がある言葉だと思う。しかし今回の話は、検察の幹部に向けて言ったことだ。検察の幹部が勘違いしなければ、それでいいのだ。
そんな風にいちいち政治家の発言を問題視するから、玉虫色の発言しかしなくなるのだ。それによって不幸になるのは、本心からの発言を聞くことができなくなる我々の方だ。「問題がないこと」を望むと、何もしないのが一番だということになってしまう。それは、自分で自分の首を締めるような行いである。