時事ネタを今さら掘り返す必要もないかと思ったのだが、分かっていない人が何を分かっていないのかが分かったような気がするので、続きを書くことにする。
この話をする前に、まず「フェアバリュー」の概念を頭に入れておいてほしい。企業には、それぞれ適正な価値がある。これをフェアバリューという。しかし、これがいくらなのか、計算でピシャリと出るわけではない。それを解決するためのものが株式市場である。
株式市場とは、言うなれば企業の価値を推測するための仕組みである。皆が企業の適正な価値を推測して、その結果を持ち寄って取引をする。皆の努力によって、株価はより正確な予測になる。企業の価値を適正に予測することによって、それぞれの企業に、その価値に応じた資金が提供される。このことが、株式市場の存在意義なのである。
投資家がこのフェアバリューを推測するための根拠として、決算が公開される。だからこそ、この決算の虚偽は株式市場にとって重大な裏切り行為だ。決算を粉飾することによって、投資家をだまして価値を実体より大きく見せることができる。こんなことをされると、株式市場がその本来の意味を果たせなくなってしまう。
そういう意味で、日興はけっこう重大な違反をした。
それに対してライブドアは、人を騙してフェアバリューを大きく見せようとしただけにとどまらなかった。この「フェアバリュー」の概念をぶち壊そうとしたのだ。
まず、企業の価値を過大評価させ、それを企業の「現実の価値」に組み入れる。そうすると、その過大評価がいつのまにか現実の価値になってしまう。これを繰り返すことで、評価が価値を生み、それがまた評価を生むというスパイラルを生む。これによって、本来評価が現実に近づいていくはずが、反対に現実が評価に近づくようになってしまう。
「本来資本に組み入れなくてはならないはずの株式売却益を売上に計上した」というのは、こういう意味で非常に問題のある行為である。株式の値上がりというのは単なる評価であって、実際の企業価値が上がったわけではない。それに対して売上というのは、実際にこれだけのことをしたという「企業の実体」である。評価を実体に組み入れてしまったというところが、大きな問題なのである。ライブドアの実体を「株券販売業」と呼んでいた人もいたが、株式を売却して売上に上げていたのであれば、この形容はまさに真実を言い当てている。
本来、「会社が儲けたから株価が上昇する」のである。ここに加えて、「株価が上昇することによって会社が儲かる」という仕組みを作ってしまうと、株価が上昇して会社が儲かって株価が上昇して……という無限連鎖が始まってしまう。普通の人ならここで「ちょっと待て、そんなバカな話あるわけないじゃないか。どこがおかしいのだろう」と思うだろう。もし、ここまで言ってもまだ「素晴らしい仕組みだ。僕も一口乗りたい」などと思っている人がいたとしたら、とても危険なので、うまい儲け話には一切耳を貸さないよう気をつけてほしい。
本当の問題はスパイラル状態を生むことにあると考えると、日興とライブドアの決定的な違いが見えてくる。日興は、粉飾決算をすることで、企業を過大評価させようとした。それに対してライブドアは、別の方法で企業を過大に評価させ、粉飾決算によってその帳尻を合わせようとした。日興は粉飾決算が悪事の出発点だったのに対して、ライブドアは悪事の総決算だったのである。
もし粉飾決算がなかったらはたして株価はいくらだっただろうと考えると、違いは明らかだ。日興なら、粉飾された決算が発表される前の株価だっただろうと考えられる。それに対してライブドアは、決算が発表される前の株価が妥当だとは言えない。なぜなら、その時点での株価は、高成長への期待が多分に含まれていたからだ。あそこで「実は赤字でした」なんて発表していたら、おそらく株価は大暴落していただろう。つまり、ライブドアの株価が適正だったことは過去一度もなかった。逮捕の時点で今さら「皆で株価をフェアバリューに戻しましょう」なんて言われても、フェアバリューがいくらなのか見当もつかなかった。だから、上場廃止にするより他なかったのである。
株価が適正でないこと自体が問題なのではない。株価自体は推測でしかなく、適正な株価は分からないからだ。しかし、皆が適正だと思っている株価を集計すると、適正な株価にだいたい収束するという共通認識が必要である。これがないと、「適正な株価で取引をする」という株式市場の大原則が成り立たなくなってしまう。
これはつまり、フェアバリューが、現在取り引きされている株価とは関係なくどこかに存在するという仮定である。投資家は、現在の株価とは関係なしに、企業の決算や現在の企業の活動状態などから、企業のフェアバリューを考える。そして、現在の株価がそれより高いか安いかによって、買うか売るかを判断する。「株価が上がっているからこれからも上がるだろう」というような判断をしてしまうと、この原則が崩れてしまう。
もちろん、投資家個人にこうした判断が義務づけられているわけではない。投資家は、単に株価が上がっているからというだけで買ってもいいし、好きだからという理由で買ってもいい。しかし、こうした間違った判断をすると損をする。株式市場は、「間違った判断をすると損をする」という原則があってはじめて成り立つ。正しくフェアバリューを推定できた人が、間違った判断をした人からお金をもらうという仕組みになっているからこそ、皆努力してフェアバリューを推定しようとする。
株価が上がったことによる利益を売上に計上してしまうと、「株価が上がったこと」が株価が上がる理由になってしまう。これでは、株価に何の意味もなくなってしまう。最初に「この会社の株価は上がる」と思い込ませることさえできれば、フェアバリューとは関係なく、永久に株価は上がり続ける。だから、株式市場という仕組みそのものに対するテロ行為なのである。
日興とライブドアを、単に粉飾決算の事実だけで考えると、どっちも同じようなものだと思ってしまうかもしれない。しかし後者は単なる粉飾決算ではなく、風説の流布とセットになった粉飾決算だ。まず風説の流布によって「この会社の株価は上がる」と思い込ませ、次に粉飾決算によって「株価が上がったから株価が上がったのだ」という理由付けをしてしまう。このシステムそのものが問題になっているのだから、要素を切り離して考えていたのではまともな結論が出ないのだ。
この話をわざわざもう一回コラムに書いたのには訳がある。ここで書いた話は、よく話題にする現実と虚構の構図の一例だからである。これはまさに「虚構が現実を離れて一人歩きする」という例だ。皆が虚構を現実に近づけようと努力しているという認識があってはじめて、虚構は意味を持つ。このことが認識できていない人は、虚構の方を現実だと思ってしまう。
虚構が現実から離れて一人歩きしてしまうと、虚構の意味がなくなってしまう。それに気づいた人はその虚構から離れていってしまうため、虚構を現実に近づけようという力が弱くなり、どんどん虚構が現実から離れていってしまう。そして気がつくと、虚構がまったく無意味になってしまっている。
株式の話で言えば、株式市場がフェアバリューを評価する場所ではなく、単に上がりそうな株を買って儲ける人気投票の場所だと思ってしまっている人が増えた。正しさの見極めを人に頼り、「みんながそう言っているからそうなんだ」としか思えない人だ。多くの人が物事の正しさを自分で見極めようとしているなら、「みんながそう言っていること」はあまり真実とのズレはない。しかし、「みんながそう言っているからそうなんだ」としか思えない人ばかりが集まると、いったんその集団を洗脳しさえすればそこから抜け出せなくなってしまう。
ライブドアの株も、集団洗脳的な要素が多分にある。財務諸表が読めるまともな投資家なら、こんな企業には投資しない。ライブドアの株を買うことがないから、売ることもできない。株価は誰かが売らないと下がらないから、ライブドア教に洗脳された信者が買って持ち続ける限り、その他の人がいかにその企業をマイナスに評価しようと、株価は下がらないのだ(実際には、その信者の金が吸い上げられて誰かの懐に入った分だけ株価は下がるのだが、それに気がつかないバカが新しく参入してくる分だけ株価は戻る)。そうなると、「誰が何と批判しようと、株価は下がっていない」ということが説得力を持つようになってしまう。
株価というのは、「皆がそう思っている価格」である。皆がこの価格を「正しい株価」だと思ってしまうと、皆がそう思いさえすればこの価格はいくらであってもおかしくないことになってしまう。このことを大きな矛盾だと感じないような人は、現実感をとうに失っていて、何が正しいのかを自分で見極めることのできない人だ。まともな人は「皆でそう思い込みさえすれば、この紙切れの価値はいくらにでもなる」なんていうバカバカしい場所には入ってこないから、現実について考えることのできない人ばかりが寄り集まって、集団的な妄想の世界を作り上げてしまう。
今回の話と似たような状態に陥っている業界に、テレビ業界がある。本来、人気があるからテレビ出演できるのだが、逆に「テレビ出演した」ということで人気が出るようになってしまう。そうなってしまうと、どんな素人でも、テレビで大々的にプッシュすれば有名人になれることになってしまう。
そんな状態では、「有名人」という評価が有名無実化してしまう。そうなって、まともな人はテレビをあまり観ないようになってしまうと、この傾向はかえってひどくなる。テレビタレントは声をかけるのが簡単な二世タレントばかりになってしまって、テレビが価値観を作り出すようになってしまう。
作られた価値観を当たり前のように受け入れることに慣れてしまうと、そこから抜け出すことができなくなってしまう。そういう人は、「現実なんてしょせんすべて作り物なんだ」と言う。彼らが住んでいるのは虚構の世界だからそうなのであって、その外に作り物ではない現実の世界があるということを知らないのだ。