回転寿司の話

お腹がすくと食べ物が欲しくなるのか、食べ物があるとお腹がすくのか

この前、スシローに行ったんですよ。そしたら、もはや寿司が回ってなくて、全部タッチパネルで注文する方式になってしまっているんです。「同じ値段で好きなのを選んで握りたての寿司が食べられるのに、わざわざ回ってる方を取る人の気が知れない」と言う人がいることはわかりますが、回転寿司は回ってることに意味があると思うんですよ。

今回は仕方なく全部タッチパネルで注文したわけなんですが、そうなると、貧乏性なのでまず180円の寿司は全部選択肢から外れます。マヨとかアボカドとかがごてごて付いたのや寿司らしからぬ肉系のもなんだかなぁ、と思って、まぐろ、いか、サーモンみたいなごく普通のネタをいくつかつまんで、お腹もふくれたしいちいち頼むのも面倒だし、まあこのくらいでいいか、となってしまうのです。

回ってくる寿司にある、おっハマチが回ってきたぞ!取るか取らぬか、取るか取らぬか!あ、行っちゃった、取っとけばよかったなぁ、みたいな妙な高揚感がないんですよ。お腹いっぱいだけど、なんかうまそうなのが来たぞ、どうしようかなぁ、みたいな変な迷いもない。確かに合理的ではあるんだけど、楽しくはないなぁ。


以前何かの本で、狩猟採集民族の食事について読んだことがあります。今なお狩猟採集生活をしているニューギニアのある集落では、狩りで大きな獲物が獲れると、集落全体で大宴会が始まります。村人全員、三日三晩食べ続け、みんな動けなくなります。冷蔵庫などないので、獲物はその場で全部食べ尽くすしかないんですよね。その代わり、獲物が獲れないときは、ご飯ないけどしょうがないなぁ、で我慢して終わり。そういう人が文明社会に入ると、たいてい肥満になるんだそうです。いつでも目の前にご飯があるので、毎日動けなくなるまで食べてしまう。

昔の日本でも、ハレとケがあって、ハレの日はごちそうだけど普段はご飯と梅干し、みたいな生活でした。


実を言うと、私は、日常生活で「お腹がすいた」と思うことはほとんどないんです。何となく食べる時間になったから食べる、という感じで。「お腹がすいたという体の欲求に従って食べるようにしないと体に悪い」と言う人もいて、それもその通りだとも思うんですが、本当にそうしたら多分まる一日は食べないということになるんじゃないかなぁ。

お昼に「お腹がすいたし、そろそろお昼ご飯にしましょうか」と言う人にはもちろん口では「そうしましょう」と言うしそれでいいんですけど、実はその感覚が良く分かってないんです。別にお昼くらいなくても全然平気だし。お昼どうしようかなぁ、って感じでずるずる作業してるといつの間にかお昼時を逃してしまって、まあ無しでいいか、ってなることもあります。でも、ないならないで全然平気なんだけど、食べるんだったらがっつり食べます。お腹がすいてないというわけではないんで。こういう感覚が、もしかしたら狩猟採集民族的なのかなぁ、と思ったんです。

狩猟採集民族からすると、回転寿司で自分から注文する方式だと、そこに理性が入ってきてしまうんです。自分で食べるものを決めるというのが難しくて、どうしても「まあなくてもいいか」になってしまいます。寿司が勝手に向こうからやってくると、強制的に大宴会に放り込まれて、「食べる」モードになってしまうのですが。普通の食べ物屋さんでも、アラカルトより定食の方が気が楽です。

ここんとこが、農耕民族の人たちは違うんじゃないかなぁと思うんですよ。


回転寿司が注文しないと回ってこないのは仕方ないとして、タッチパネルに「120円の商品のみ表示する」フィルターを実装してくれませんかねぇ。