寿司テロの話

社会の外にいる人の狂気と、社会の中にいる人の恐怖

回転寿司での迷惑行為が話題になりました。バイトが冷蔵庫に入ったバイトテロ事件を思い出してちょっと調べてみたら、あれ、もう10年前のことなんですね。ついこの間の出来事かと思ってしまいました。年を取ったものです。

「こういう事件をなくすために、犯人に高額の賠償を課すべきだ」と言う人もいますが、それは間違っています。10年前の事件の時に、既に犯人たちはかわいそうなくらいさんざんな目にあっていますが、それでもなくなっていないのです。いくら額を増やしたところで、払えなくなったらそれでおしまい。「これをやってしまったら大変なことになる」と考えることができる人は、そんなことはしないのです。


こうした迷惑行為は、皿を隠して会計をごまかそうとしたり、わさびを大量にポケットに入れて持って帰ってしまったり、といった悪事とは訳が違います。窃盗や詐欺は、「意味がわかる」のです。誰しも、会計は安い方がいい。できれば金を払わずに食いたい。もちろん普通の人は実際にそんなことはしませんが、ついそんなことをしてしまう悪い奴の気持ちはわかります。

そういう悪事に対しては、「捕まったら大変なことになるぞ」という脅しも効果があります。「安い方がいい」に対して「実際はむしろ高くつく」という説得だからです。それに対して、迷惑行為は、やった本人も得をしません。何でそんなことをするのか、普通の人には理解ができません。ある意味で狂気の領域です。狂気にはいかなる理屈も通用しません。だから怖いのです。

こうした狂気に対して、人は「アクセス数を稼ぐため」とか「承認欲求」みたいな理由付けを考えて、何らかの損得に基づいて行動していると考えたくなってしまいます。しかし、「アクセス数を稼げる」ということはつまり、それを面白いと思う人がいるということであり、つまりはその行為自体に「面白さ」があるということです。結局は「面白いからやった」ということであり、当人は、面白さ以外のことは考えていないでしょう。

人間は、丸善の棚に檸檬を置いて何食わぬ顔で出てくる、みたいな訳の分からないことをやりたがる生き物なのです。


オヤジがツバを飛ばしながら大声でしゃべっているすぐ横を寿司が通っていくのは許容するのに、イタズラ小僧が寿司にツバをつけるのはダメなのか。もちろんダメなんですが、拒否反応の質が違うように思うのです。想像はできるけど見ないようにしていたことを強引に見させられたような感じ。

何周も回ってカピカピになった寿司の皿を見ながら、衛生に一抹の不安を抱えつつ、しかし回らない寿司屋に行くだけの金も勇気もなく、回転寿司とはこういうものだから大丈夫だと思い込んで食べている。だからこそ、ああいう事件が起きたとき、我が事として感じてしまいます。もしこれがどこかの高級寿司屋で起きたことだったら、ここまでの反応はなかっただろうし、どこか他所の世界の出来事として片づけられ、自分が別の寿司屋へ行くときに気になることもなかったと思うのです。

こうした事件は、可視化されるようになっただけで、昔からあったのかもしれません。二十歳くらいのヤンチャな人たちが回転寿司屋に集まったとき、お調子者がイタズラして内輪で盛り上がる、みたいなことはいかにもありそうなことです。冷静に考えれば、それほど実害のあることをやったわけではありません。それによって誰かが死ぬわけでも、病気になるわけでもありません。しかし、それが拡散されることで、人々の気持ちに多大な影響を及ぼします。


こういう事件が騒ぎになるたびに、犯人たちのいる、現実から引き離された無菌状態の世界のことを思います。醤油の容器をなめるとき、もしかしたらそれは既に誰かがなめた後なのかもしれないということに思い至らない。自分と他人が非対称で、同じことを実は誰でもできるということに思い至らない。

「一度人を殺してみたかった」みたいなことを言う無差別殺人犯も同じです。誰でもよければ、人を殺すなんて物理的には簡単なこと。その簡単なことを難しいと思い込まされるから、「いや、もしかしたら俺ならできるんじゃないか」と思ってしまう。自分が何もできないと思い込まされているからこそ、誰もができるけれどわざわざやろうとしないバカげたことをやるのではないかと思うのです。

現代社会は、壊れやすいガラス細工のようなもの。それを壊すのは簡単だが、残念なことに自分はその中にいる。自分が社会の一員であるという自覚のなさが、元凶ではないかと思うのです。