一貫性という正しさ

ネットの情報が小間切れになり、匿名性が強くなったせいで、一貫性が評価として用いられることがなくなってきているという話

ネットの情報が小間切れになり、匿名性が強くなったせいで、一貫性が評価として用いられることがなくなってきているという話を今回はします。


「匿名性が強くなってきたって本当か?2ちゃんねるとかが全盛の昔の方が匿名性は強かったんじゃないか?」という気もするかもしれませんが、昔と今とで「匿名」の意味合いが変わってきているように思います。昔は匿名というと「本名を明かさず別の名前で」という意味だったのが、今では「別の名前」すらなくなってきています。

「twitterにしろFacebookにしろ、ちゃんと名前があるじゃないか」と反論されるかもしれません。本当のところは、名前があるかどうかではなく、読む人が名前まで読むかどうかです。いくら書かれていても、読まれなければないのと同じですから。大量の情報から一部分だけをピックアップして並べるという技術の発達が、匿名化を加速させています。日々いろんな小ネタがランダムに流れてくるようになると、それらをどういう人が書いたかまでいちいち気にしていられません。

それに伴って、「キャラ」とか「芸風」と呼ばれていた個人の特性も、また消えかかっているようです。ブログなどで、以前なら「あの人はああいう芸風だから」で済まされていたものが、その芸風を知らない人たちによって批判されてしまいます。

文章というものは、多かれ少なかれ、読んでいる人に対して一定の知識を想定します。ブログなんかの場合には、「過去の記事を多少なりとも読んでくれている」ということを想定するわけです。しかし、その前提を満たしていないいわゆる「対象外」の人がある一瞬だけ大量にやってきて、自分たちが対象外であるという認識もないまま暴れていく。そういうことが繰り返された結果、前提を必要とする文章が消えていきます。


ちょっと前まで、ネットというのは様々な情報が有機的に結びついた場所だと思われていました。それが、最近では個々の情報を「結びつける」機能が消えつつあるように見えます。「トラックバック」とか「リンク集」なんていう言葉ももはや死語に近くなってしまいました。

2ちゃんねるやブログの時代から今に至るまで、「タイムライン」方式が主流となっています。細かな情報を時系列に並べるこのやり方は、新しい記事が上に来て、古いものは端に追いやられていきます。この方式で並べられる情報が一つのジャンルにとどまっているうちはまだいいのですが、複数のジャンルのものが同一線上に並べられるようになると、とたんにゴチャゴチャしてきて、しまいには関連性を追うのをあきらめてしまいます。書く方も、そうやって読まれるという前提で、脊髄反射的な記事が多くなってしまいます。

なんだか、過去の重みというものが少なくなってきた気がするんですよ。たかだか数年前の出来事を忘れて、今になったら正反対のことを言ってたり。あるいは逆に数年前にはあと1,2年でできると言ってたことを、今になってもまったく同じようにあと1,2年でできると言ってたり。真理省って実はもうあるんじゃないかと思うくらいです。(二分間憎悪はネットではやってる人をちょくちょく見ますが)

もちろん、意見が変わってはいけないというわけではありません。むしろ、意見は変わるべきです。しかし、変わるということは前と後を両方認めることであり、前がなかったことになっていきなり後が出てきたことになるのは、変わったとは言いません。


最近では、過去とのつながりがあって首尾一貫した記事の方が、「工作員」呼ばわりされてかえって嫌われることすらあります。しかし、そろそろ「いいね」の数では正しさを測ることはできないということに気が付くべきだと思うんですよ。