お花見の話

単に花がきれいだというだけではない、桜に対する心情

今週は桜がきれいでした。

そんなわけで今回は、みんな分かってる内容だと思いますが、お花見について書きたいと思います。


4月8日に、お釈迦さまに甘茶をかけてきました。しかし、絶好の時期にあるイベントにしては、なんだか花祭りって流行ってない感じがします。ハロウィンやイースターですら流行るこのご時世に、なぜなんでしょうかね。やっぱり、お花見とかぶってるからじゃないかと思うんですよ。

普通だったら、こういうイベントで「かぶる」というのはプラス効果のことも結構あります。桜を見た後ついでだから甘茶かけてこよう、みたいな。だけどあんまりそんな気にならないのは、お花見そのものに、単にきれいな花を見たというだけではない、何か宗教的なものを感じるからではないでしょうか。


日本の伝統ある春の花の一つに、梅があります。梅の花もきれいですが、こちらはどちらかというと「愛でる」という感じがします。上から目線というか、我々が親で、花が子供といったイメージです。それに対して、桜は逆に、桜が親で我々が子供になった感じがします。

単にスケールの問題かなとも思うのですが、同じくらい伝統があってスケール感もそこそこある藤は、あんまりそういう感じはしないですよね。藤の場合は棚を作るからという理由もあるとは思いますが、梅も藤も、自然のイメージがあまりなく、どちらかというと人工のイメージです。桜もわざわざ並木道に一列に植えてあるわけで、同じくらい人工のものであるにもかかわらず、なんだか自然を感じます。

では、自然を感じる花は何だろうと考えると、たんぽぽとか菜の花畑が思い浮かびます。菜の花「畑」なのに自然を感じるというのは変な気もしますが。でも、たんぽぽや菜の花には、春の楽しい感じはあっても、桜特有のしんみりした感じがありません。


「桜の木の下には屍体が埋まっている」と書いた作家もいましたが、不思議と、桜には死のイメージがつきまといます。花咲か爺さんでも、花を咲かせるのは元をたどれば犬の死体なわけですし、戦時中にも桜のモチーフはよく使われました。

桜は散るところが美学だとよく言われます。そういえば、他の花と違って、桜は散り際に醜態をさらしません。普通は、花の散り際になるとシワシワになったり茶色くなったりして「年老いた」感じを見せるものですが、桜の場合は逆に葉桜となって、生き生きとした感じになってきます。最初は枯れ木だったものが、花が咲いて散ると、いつの間にか緑の木々になっている。普通の花は、芽が出て、青々と育って、花が咲いたら実をつけて枯れていくという順番ですが、それが逆になっているのが桜の特別なところです。

もう一つ特別なのが、その移り変わりの速さです。本当の見頃は1週間ほどしかなく、1週前の週末だと早過ぎ、1週遅れの週末だと遅すぎるというこのスピードが、他の花にはなかなかありません。ちょうどよいタイミングにお花見に行かなくてはならないというプレッシャーが、日本人をお花見に駆り立てるのかもしれません。

つまり、普通の春の花は春に属するものだけれど、桜の花は冬と春の境目のほんの一瞬に属するものであり、なおかつ桜の花はどちらかと言うと「春の始まり」ではなく「冬の終わり」であるというところが、たんぽぽにはなくて桜にはあるしんみりした感じなのではないかなぁと思うのです。


お花見とは「死と再生の物語」に立ち会うことであり、その一瞬を表す花と考えると、桜以外にはなかなか見当たりません。そして、その場ですることというと、これはもう宴会より他にありません。

お花見の宴会というのは、単に呑んで騒ぐだけだけれど、この奇跡を見せてくれている神様とお近づきになって、一緒に楽しむということでもあります。桜の木の下だと、都会の公園であるにもかかわらず、この「自然に包まれている感」を強く感じます。そんな宴会だからこそ、毎年心待ちにし、終わった後に喪失感を感じるのかもしれません。