自由を否定する人たち

発言者の立場の違いによって問題点が変わるよという話

どこかの中学校の校長先生が全校集会で「子供を2人産むのが大事」というようなことを言ったということで話題になっているようです。

はじめに申し上げておきますと、中学校の全校集会での校長先生の発言にまで、目くじら立ててあれこれ言う必要はないと私は思います。中学生になってまで校長先生の話を真面目に聞いてるとしたらその方が問題でしょう。ツッコミを入れながら批判的に聞くくらいでちょうどいい。そう考えると、当たり障りのない話しかしない校長よりは、多少いろいろ言われそうな話をする校長の方が、生徒の考える力もつくというものです。


ところでこの校長先生の話、何が問題かというと、大事である理由が「日本がなくなるから」だと言っちゃったところです。生徒にとっては、そんなことは知ったこっちゃない。

こんなことを言うと、「日本という国がなくなってもいいのか?」と言ってくる人がたまにいます。70年前にもそんなことは言われていましたが、何だかんだで今に至っています。国民を不幸にするようなロクでもない国ならなくなった方がマシ。私たちが幸せなら、日本なんてどうなったっていい。それなのに、私たちの幸せより日本の存続の方を大事だと言うから、間違っているのです。

「子供を産むことは大事ではない」と言っているのではありません。理由づけがダメだと言っているのです。「大事である」と主張するのなら、それは「あなたの幸せになる」という理由につなげていかなくてはなりません。意見を述べる際には、結論よりその理由の方がずっと重要です。結論しか見ない人がたまにいるんですけどね。

「子供を産むとこんなにいいことがある」という筋で話を進めればいいだけなのに、そしていいことも実際あるはずなのに、なぜそれをしないのか。実は、本人はいいことがあるとは思ってなくて、不利益しかないけどなんとかしてやらせようとしてあんなことを言ったんじゃないか。そういう推測が成り立つと、それは教育者として大きな問題だということになります。校長先生が、生徒個人の幸せを願ってそのために必要なものを授けるのではなく、生徒を洗脳して奴隷にしようとしているということになりますから。


私は、この校長先生の話をニュースサイトで見ました。ここで一つ興味深いのは、ニュースサイトの見出しが「校長先生の話に賛否両論」であったということです。校長先生がこんな話をしましたというのではありません。校長先生がした話に対して、賛否両論があるというのがニュースだというのです。

「校長先生の話」にコメントするのと、「校長先生の話に賛否両論」にコメントするのとでは、一つ違いがあります。前者は批判があることが前提となっていないのに対して、後者は批判があることが前提となっているということです。

言い出しっぺである校長先生は、ある程度の批判は予想しながらも、「それはそれで別の話」として無視することができます。すべてを話し尽くすことは時間の制約から不可能だからです。批判されても「そうですね。そういう考え方もありますね。活発な議論に批判は不可欠ですから、どんどん続けてください」と放っておくことができます。しかし、「賛否両論」までが前提となっていると、話は違います。校長先生と同じことをコメントしただけでは「それについてはもうさんざん批判されてるだろ。まずそれを読め。そしてもっと考えてから出直して来い」と言われてしまいます。

何もないところから何か言う人と、それを受けて何かを言う人、さらにそれを受けて何かを言う人とでは、それぞれ立場が違うということです。前者は自分が思ったことを言っていいけれど、後者は少なくとも前の人の話をきちんと理解していないと言う資格がありません。それだけ大変なはずなのですが、残念ながら後者になるに従って思慮の浅い人が増えてくるようです。


今回の話を大まかにまとめると、同じことを言うのでも立場によって問題点が異なるということです。