今週も先週に引き続き政治の話をしようと思っていたら、もはや甘利大臣の話題などどこかへ消し飛んでしまいました。ニュースの話題の移り変わりは早いものです。しかし、話題の乗り遅れは気にしないことにして、話を続けます。
甘利大臣の話の後にアメリカの大統領選のニュースを見ると、さすが民主主義の国だと感じます。国民と政治との距離感もそうですが、きちんと討論が行われているというところが日本の大きな違いです。
甘利さんも言っていましたが、日本では、政治家に群がる連中にロクな人がいません。まともな人は、政治家とは距離を置くようにします。普通の人は政治家とはかかわりを持たず、特殊な何かを持った人だけが政治家に会おうとしますから、どうしてもロクなことになりません。
日本の政治家には「庶民の声が全然届いていない」とよく批判されますが、よくよく考えると、庶民の側も、自分たちの声を政治家に届けようとしたことなんてないじゃないか、と思うのです。公民館を借りて会を開いても誰も行かないし、スーパーの駐車場で演説しても誰も足を止めない。だったら、でっかいスピーカーを積んだ車で名前を連呼して回るより他ないでしょう。(もちろん私も人のことは言えませんが)
政治家の方も、手ごたえがあるんだかないんだかまったくわからない普通の人を相手にするより、大金を持ってきてくれて、解決すべき問題を持っている人を相手にする方がよっぽどやりやすいでしょう。だったら、政治家がああなってしまうのは当然のなりゆきです。
日本人は、「選挙へ行け」とは言うくせに、そこで一票を投じる相手をどう判断するかという問題については触れようとしません。せいぜい、「選挙公報を読め」と言うくらいです。あんな美辞麗句が並んだ選挙公報で何がわかるというのか。
日本の有権者は完全に消費者感覚で、レストランのメニューを選ぶように政治家に投票します。そして、選んで不味かったら「なんだこの不味さは!」と怒り出します。選んだ責任を感じようとしないし、何か失敗があったらすぐ乗り換えようとします。だから、まともな政治家が育ちません。
向こうからこちらにやってくる情報だけで判断しようとするのが問題なのですが、残念ながら日本では政治とはそういうものだということになっているので、こちらから向こうへ情報を求めるルートが非常に限られてしまっています。政治家にはイエスマンしか群がることがないという前提に立っているため、普通の人が関わることができない状態にあります。
改革の痛みに耐える覚悟も、二大政党制を目指す気概も、あっという間にどこかに忘れてしまうこの日本。良い方向に動くには、どん底に落ちて痛い目を見る必要があるのかもしれません。