言葉と意味

言葉の意味がおろそかになっているという話

言葉の誤用の話がよく話題になりますが、言葉の「意味」という概念そのものが怪しくなりつつあるように思います。よく「言葉の意味なんて時代によって変わるものだ」なんて言う人がいますが、これは危険な兆候です。

言葉の意味をきちんと確かめるという習慣が、なくなりつつあるように見えるのです。使っている言葉の意味をはっきりさせれば解決できる問題が、それをしないせいで解決しない。しかも、言葉の意味をきちんと文章で書くということができない。そういう人が増えているように思うのです。もしかしたら数としては増えていないのかもしれませんが、そういう人が言論の場に出てきてしまってきているように見えるのです。


たとえば、「優先席では老人に席を譲りましょう」みたいなことを言うと、「最近の老人は元気だから譲る必要はない」というようなことを言う人がいます。

確かに最近では、70代くらいでも元気な人は多いです。これは、「最近の老人は元気」なのでしょうか、それとも「最近の70代はまだ老人じゃない」のでしょうか。ここで、「老人」という言葉の意味の問題になります。

こんなとき、「法律では65才以上を老人と呼ぶんだよ」みたいなことをしたり顔で言う人がたまにいますが、こういう人が「意味という概念そのものが怪しくなりつつある人」です。法律はきっちりと基準を決めなくてはならないから便宜上線を引いているだけで、本来の言葉の意味には明確な線はありません。だから、場面ごとに、あるいは人ごとに、違った線があることになります。老人というと、よぼよぼで杖をついて歩いていて生きてるだけで大変そうなイメージが浮かびます。このイメージこそが意味なんですが、こういうぼんやりとしたイメージを持って、それをなんとか言葉で言い表そうとする努力を放棄してしまう人がいるのです。

そういう人は、既にある明確な定義を引っ張ってきつなぎ合わせるだけで、自分の中で消化した感じがないのがはたから見てもわかります。


昔は、新書の定番タイトルと言えば「○○とは何か」でしたが、最近では「なぜ○○か」というタイトルをよく見かけるようになりました。前者は言葉の意味の解説ですが、後者は意味に深入りせず、現象同士のつながりが述べられれば、わかった気になってしまいます。言葉の意味を伝えるというのは、書く方にとっても読む方にとっても大変な作業ですが、それをしないと本当に自分の身にはならないと私は思います。

「言葉の意味が大事」と言うと、Wikipediaで言葉を入れて検索して出てきた最初の行しか読まない人もいます。検索窓に言葉を入力してリターンキーを押して出てきた最初のページを読むだけのことを「調べる」と呼ぶ人もいてなんだかなぁと思いますが、そういう方法が役に立つのはその言葉の意味にあたるものが既に自分の中にある場合だけで、まったく未知のものに対しては、それは勘違いの危険性が高い方法です。時間や効率など様々な制約がありますのでやめろとは言えませんが、少なくとも、それが良くない方法だとは知っておいてほしいと思うのです。


自分について考えてみると、読むときより書くときの方がよく辞書を引きます。よくよく考えると不思議ですね。読むときは知らない言葉もたくさんあるでしょうが、書くときというのは少なくとも自分は知っている言葉しか出てこないわけですから。

しかし、書くときの方が、「本当にこれで合っているのだろうか」という不安は大きくなりますし、書きたいことをより良い言葉で書きたいですから、なんとなく知っているつもりの言葉をもう一度きちんと確かめたくなることが多くなります。

やはり、書くことは重要だなぁという結論で、先週ここの更新をお休みした自分への反省とします。