主観的の話

主観的な話を読むことができない人たち

世間ではよく「客観的」であることが重要視されたりしますが、そのせいなのか、主観的な話を軽視し、まともに読むことができない人たちを見かけます。

たとえば、「最近、少年の凶悪事件が増えているように感じる。それは現代社会で少年たちが置かれている環境に原因があるんじゃないだろうか」みたいな話に対して、「少年の凶悪事件が増えているという事実はない」みたいなことを言うのが典型的なパターンです。彼らは、これで反論になっていると思ってしまっていることの愚かさに気づいていません。


なぜそれが反論になっていないのかというと、そもそも「少年の凶悪事件が増えているかどうか」は、その後の論理展開に何の影響も及ぼしていないからです。あくまで「増えているように感じる」と言っているだけであり、その後の文と「だから」でつながってはいません。これは、筆者がどう感じているかを表明しているだけで、本当に増えているかどうかはどうでもいいのです。つまり、「増えているように感じる」と述べるのは、「私はなぜこんな話をするか」ということの説明なのであって、話の内容の説明ではないのです。

主観的な話を読むことができない人は、まずここでつまづいてしまいます。本来、内容とは関係のないどうでもいい所でつまづいて、その後を読むことをしなくなってしまいます。


何とかそこを通過したとしても、その次に「なぜ環境に原因があるなんてことが言えるのか。それをどう立証するのか」という疑問でつまづいてしまう人もいます。主観的な話に立証はありません。「私がそう思うから」でおしまいです。

言い換えると、「少年の凶悪事件が増えているのは現代社会の環境が原因」と言う主張は、「私は凶悪事件を起こした少年の気持ちに共感できる」とか「もし私が今少年だったら、凶悪事件を起こしてるかもしれないなと思う」という主張なわけです。あえて仮定の話を外して言うなら、「私が凶悪事件を起こしたのは、これこれこういう環境だったからだ」という主張なわけです。もし凶悪事件を起こした本人がそう言うなら、少なくともその本人にとっては事実だ、ということになります。

実際に本人には聞けない時でも、できるだけ本人になったつもりで考えてみよう、というのが主観的な話なわけです。


主観的な話を読むことができない人というのは、この「本人になったつもりで考えてみる」というのができないんじゃないかなぁ、と思うのです。

「本人になったつもりで考えてみたが、なんでそんな風になってしまうのかがわからない」という状態だったら、主観的に書かれた詳しい説明を聞いて、「ああそうか、そんなことを考えてしまったら自分もそうなってしまうかもな」と思えることでしょう。これが「主観的な話を読めた」ということです。説明を聞いてわからなかったのだとしても、「なんかまだピンとこないな」という感想になるはずです。そのどちらでもないということは、そもそもの入り口が違っているのでしょう。

ネット上のコメントを見ると、特にこの「本人になったつもりで」の欠如が目立ちます。そしてそれは、自分の視野が一つに凝り固まってしまっていて、いろんな視野を持つことができないこと、自分の中に広がりを持っていないことが原因なように見受けられます。それだけならまだいいのですが、それに無自覚である、つまり、いろんな視野を持とうと思うことすらないという状態になると、どうしようもなくなってしまいます。

主観的な話を読むということは、自分で考えるということでもあります。自分で考えるものだということを誰にも教わっていないから、読むことができないんじゃないかなぁ、と思うのです。