リスクを考えるということ

何かが予定通りでないと急に大トラブルになる日本人

今回は微妙に前回の話の続きです。

最近ニュースなどを見ていると、日本人は何か問題が起こったときの対処が苦手な感じがするなぁと思います。といっても、外国のことをそう知っているわけでもありませんが。


たとえば、「何日までに○○を作る」という話があったとして、これだけで契約だと思ってしまう人が結構多くいます。しかも、ちゃんと契約書を作ろうとすると、「できなかった場合にどうするかはその時相談して決める」なんてバカな文面になったりします。その時に相談しても遅いでしょうに。

そして、「何日までに○○を作れ。できなかったら××円払え」みたいな結論になったとして、これ全体で約束だとは思ってない人が多くいます。本当だったら、これ全体で一つの約束事ですから、当日まで他の事をやってて「いやぁわりいわりい、全然できてねーからさぁ、しょーがないから××円払うわ」でもいいはずなのですが、なぜかこうなると怒り出す人がいます。

そういう人は、「○○を作れ」が約束だと思っていて、「××円払え」は約束を守れなかったときの罰則だと思っているようなのです。だから、「作ってない」となると、約束を守ってないと怒り出すようなのです。だから、ちゃんと××円払っても相手は「お金を払うはずが逆にもらえてラッキー」とはならず、なぜか怒ったままになってしまいます。

(念のため言っておきますが、実話ではありませんからね)


日本人はどうも、「どっちに転んでも困らないようにする」という方向で考えるのが苦手で、自分でただ一つのシナリオを作ってしまって、あとはそれを忠実になぞるというやり方の方が好きみたいなようです。そして、作られたシナリオと違うことはとことん排除しようとする。それがたとえ墓穴を掘ることになろうとも、違うシナリオを受け入れようとはしない。このせいで、いろんなところに無理が生じているように見えるのです。

ニュースを見ていていつも思うのが、何か事件が起きた時、「平和だったあのころを返して」と、不可能なことを要求する被害者のことです。相手にしてみれば、不可能なことを要求されてもできるわけはないので、じゃあ何をしても無駄なんだな、いっそのこと何もしない方がいいんだなと思ってしまいます。相手が可能なことで「償ってくれ」と言えば、何かを得られたかもしれないのに。

そう、日本人って「償う」という言葉が嫌いですよね。償うことは不可能だと思っている。だから、何か問題が起きた時に、何もできなくなってしまいます。


例の杭打ち偽装事件も、「あの担当者が関係した建物はどれだ」という意味のない話になってしまいました。本来なら、「ズブズブの柔らかい地盤に無理やり長い杭を打った建物はどれだ」「そしてそれを短工期で無理やり工事したのはどれだ」というところから探さなければならないはずなのに。

「杭を打ったらちゃんと固い地盤に当たって反応がある」というシナリオが崩壊したとき、もうどうしようもなくなって、それを捏造でなんとかしてしまったのが発端だというのに、その後も「あいつがやった工事がみんな怪しい」というシナリオに乗せようとしてしまっています。しかし、その裏にはシナリオに乗らないことに対する世間のヒステリックな拒否反応があるのではないかなぁと思うのです。

これは、「未来は不確定だ」という大きな諦観がないことが原因だと思うんです。「現在がこのままずっと未来へ続く」と思っている。それが、閉塞感の原因でもあると思うのです。