議論のしかた

ネットで議論をするにはルールがあります。いえ、ネット以外で議論する場合も同じですが。

良くない意見

では、議論においてルール違反の意見を具体的に見ていきましょう。中には一般に良い意見だと思われているものもあるかもしれません。しかし議論というのは一般の意見表明の場とは違います。だから、一般の場では問題なくても議論の場では良くない意見もあるのです。

ここに挙げるような意見を出してしまわないように気をつけましょう。

人の意見の否定

Aさんの「スカラー波が人体に悪影響を与える」という意見はでたらめです。白い紙や布では電磁波は防げません。電柱に電線が輪のようになっているのは、単に線を切ったり折り曲げたりするのが難しいからです。自分勝手に解釈して間違った意見を広めないでください。

この発言は、主旨は賛同しますが議論の形式としてはよくありません。まず「でたらめだ」と相手の意見すべてを否定してはいけません。必ずどこかに納得のいく共通の基盤があるはずです。例えそれが「テレビは電磁波を発する」という程度の当たり前の事実だけであったとしても。

もしかしたら、あなたが知らないだけで本当に白い紙でスカラー波が防げるのかもしれません。そもそも彼らのいう「スカラー波」というのが何なのかあなたは理解していますか?もしスカラー波について何も知らないのなら、「白い布では防げない」と決めつけてはいけません。

相手の意見をむやみに否定してはいけません。相手は正しいことを言っていて、ただあなたがそれを理解できていないだけかもしれないのですから。よくわからない部分は質問をしましょう。「スカラー波って何ですか?」「なぜ白い紙でスカラー波が防げるのですか?」と。

そしてもしあなたが別にスカラー波について(あるいは彼らがそんな謎の主張をする理由)を知りたいのでなければ、わざわざ議論しないことです。議論とは相手の意見を聞くことであり、相手の考えを知るためにすることです。相手の考えを知りたくない人は議論をしてはいけません。

賛成だけの意見

私はAさんの意見に全面的に賛成です。○○もその通りだと思うし、××も賛成です。

議論の場では賛成だけの意見は有害でありませんが無意味です。こんな意味のない意見をわざわざ発言しないで下さい。そもそもなぜこんな発言をしようとしたのでしょう?もしAさんの意見が素晴しいものであったなら、その素晴しさは参加者全員にちゃんと伝わっているはずです。なのにこんな事を書くというのは「Aさんの意見は素晴しいものだけど、参加者は皆バカなのでそれを理解できないに違いない」という意識があるからかもしれません。

ただ、意見への補足はかまいません。それは次のような形式になります。

私はAさんの意見に全面的に賛成です。しかし、○○の点は少しわかりにくいかもしれません。これは△△が××になるから○○になる、と言っているのだと私は解釈しました。

これは全面的な賛成意見ではありません。「○○の点はわかりにくい」と批判が含まれていて、それに対して自分の解釈が含まれています。だからこの意見は皆の役に立ついい意見です。

一般的な意味

「すべてのカラスは黒い」というのは間違いです。アルビノのカラスだって存在しますし、そもそも色を塗ってしまえば何色にもなります。

私はそんな非常識で例外的な場合については考えていません。もっと一般的な意味で考えてください。

さて、あなたの言う「一般的な意味」とは何でしょう?言い換えると「あなたの言う一般的な意味でのカラスとは何ですか?」という質問です。

もし「よく電線にとまっていて、ゴミをつついて荒らして住民に迷惑をかける、黒くて大きなあの鳥だよ」と説明したとしたら、「すべてのカラスは黒い」という意見は意味をなしません。なぜなら、その説明によると「カラスは黒い」というのは定義だからです。カラスという言葉の定義自体に「黒い」という性質が含まれてしまっているからです。

「黒くないけれど一般的な意味ではカラス」であるものが存在できるでしょうか?それが存在できないのなら、「すべてのカラスは黒い」という意見には反論することができません。すべての反論は「それは一般的ではない」と言えばはね返されてしまいます。

あなたの理論の穴がどこにあるだろうかと考えてください。つまり、何を言われると(どんな事実があったら)あなたの説は覆るだろうかということです。すべての反論に対してはね返す手段が用意されていたとしたら、その説は議論に値しないということです。

とはいえ、そういうどうでもいいことを議論すると議論が変な方向に行ってしまうのも確かです。もしあなたが「カラスは黒い」を必死に議論すると変な方向に行ってしまうと思うのなら、あなたが本当に議論したいのは「カラスが黒いかどうか」ではないということです。だからカラスが黒いことを相手に認めさせようとするのではなく、「この先はカラスは黒いものとして扱います。それが正しいかどうかを議論するつもりはありません。」と宣言すべきです。

名指しでの回答要求

では、Aさんは「核ミサイルを発射するのはいいことだ」とでも言うのですか?逃げないで答えて下さい。

教えてくださる方に向かって何という物言いでしょう。議論では質問する側が受益者で、答える方には何も得るところがありません。それなのにボランティアで答えてくれるのです。ありがたいと思わなくてはなりません。

答えるのは大変な作業でしかもボランティアなのですから、議論では答えるのも答えないのも自由です。質問は必ず参加者全員に対して行われます。だから、上の例ではAさんでなくとも誰でも質問に答えることのできる人は答えていいですし、Aさんが答える義務もありません。ついでに言えば、参加者はいつでも「逃げ」ていいのです。議論は自発的なものであり、強制されるものではありません。

もちろん、真剣に議論をしていれば、「なぜ核ミサイルを発射するのはいいことなのか?」と疑問に思うのも当然のことで、それに答えてほしいと思うのも正当なものです。しかし、答えてもらいたいのなら「逃げるな」とは言ってはいけません。これは人にものを頼むときの物言いではありません。

もちろん、上の問いは「核ミサイルを発射するのは良いか悪いか」という質問ですから、「良い」という答えだけではなく「悪い」という答えもあり得ます。Aさんが何も答えず、Bさんが「悪い」という理由をちゃんと答えれば、結論は「核ミサイルを発射するのはやっぱり悪いことだ」という事に落ち着きます。

なお、議論では問いに答えない事は元発言の否定ととられます。つまり、Aさんが答えないで「逃げ」たら、Aさんは元発言を撤回したということです。

あなたの例は極端すぎます。あなたの挙げた例はあなたの意見を肯定するために都合よく選ばれているもので、世間一般の普通の例ではありません。だからそんな例を提示しても、あなたの意見が正しい証拠にはなりはしません。

自分の意見が抽象的すぎてわかりにくい場合に、相手に具体的なイメージをもってもらうために実際のものを使って説明するのが「例」です。ですから、例というのは「自分の意見を肯定するために都合よく選ばれているもの」でなくてはなりません。そして、もしあなたの意見が極端なものなら例も極端なものでなくてはなりませんし、あなたの意見が世間一般の常識から外れているなら例も常識から外れたものでなくてはなりません。

例はあくまで自分の意見をわかりやすくするための補助的なものです。だから例がなくても自分の意見としてわかってもらえるように書かなくてはなりません。例をつけるのはよりわかりやすくするためであり、例を使って何か新しい事を言ってはいけません。例は自分の意見が正しい事を示す証拠ではありません。

例というのは補助的なものですから、例について意見を言ってはいけません。例について意見を言えるのは明らかな事実誤認だけでしょうが、それも場合によっては許されます。例に求められるのは正確さや厳密さではなくわかりやすさだからです。わかりやすさを優先しようとすると厳密さが失われます。わかりやすさを重要視する「例」では、厳密でなくなる事、つまり正しさが失われる事は仕方のない事です。

例に「その例は正しくない」と言うのは意味のない事です。そんな事は当たり前であり、例は正しくなくてもいいのです。例ではなくそれが例えているもともとの意見に「正しくない」と言わなくてはなりません。もちろん「その例ではわからない」という意見はあり得ますが、それは「例をもっと下さい」という意味であって「その例はダメだ」というわけではありません。

例についてあれこれ言うのはもともとの意見を正しく理解した後でなくてはなりませんし、その時には自分にとって例はもはや用済みになっているはずです。だから、例について何か言う前に、相手の意見を正しく理解している事を認めてもらって下さい。きっとその頃にはもう例なんてどうでもよくなっているはずです。

もし、それでもまだ相手の意見そのものではなく例について何か言いたい事があるとしたら、「あなたの挙げた例よりこの例の方が的確だと思うんですが」と自分で考えた例を挙げてみましょう。相手はそれが気に入ったら自分の例と並列して掲げてくれるでしょう。そして、その例の方がもとの例よりずっと出来が良かったら、もとの例を消してあなたが提案した例だけを掲げてくれるかもしれません。しかしこの作業はあくまでボランティアであって必須事項ではありません。

昔の話を蒸し返す

その議論は今までさんざん繰り返された話です。今さら昔の議論を蒸し返さないで下さい。ちゃんと議論の経緯を読んでから参加して下さい。

途中参加が可能であるオープンな掲示板では、こう言いたくなる事はよくあります。よく出る質問というのは本当によく出るのです。ずっとその場にいる人々にとっては「またか」と思うのももっともです。

新しく議論に加わろうとする人は、まず今までの議論を読むべきです。あなたの質問に対する答えは既にそこにある確率が高いからです。「意見を言う」事ではなく「意見を聞く」事を重要視するなら、宝の山である過去の議論を読まないのはもったいない話です。全部読んでから議論に加わりましょう。

しかし、こういう人に「今までの議論を全部読め」というのは酷じゃないでしょうか。「今までの議論」と言ってもどこから読めばいいのかわかりません。だから、昔にさんざんした議論がまた始まったと思ったら、「記事番号○○から××まで読め」と答えてあげて下さい。あるいはそこまで親切でなくても「昔の記事を読め」[1]でもいいでしょう。そしてそれ以上の事には答える義務も必要もありません。

こういう事が繰り返し起きるようでしたら、FAQ(よくある質問とその答え)を作るといいでしょう。つまりは今までの議論を要約するのです。これは自分たちのためでもありますし、皆のためでもあります。

価値相対主義

なんでそんな事で言い争っているんだ。そんな問題に答が出るわけはないだろ。人それぞれって事でいいじゃん。それ以上言いようがないだろ?もう議論なんておしまいにしようよ。

「絶対的な価値などない」あるいは「絶対的な真理などない」というと、多くの人は「うんうん、その通りだ」と思うでしょう。しかしこの考え方は議論には有害です。

この発言で一番問題なのは「それ以上言いようがないだろ?」という個所です。相手があなたの意見を理解しようと必死になっているのに、「それ以上言いようがない」と回答を拒否する姿勢が問題なのです。その姿勢の根拠となっているのが「人それぞれって事でいい」という言葉であり、それはなぜかというと「答えは出ないのだから」という価値相対主義に行きつきます。そこまでは(まだ)いいのです。そこから「議論する意味がない」と言い出すから問題なのです。

議論は、「すべての人はわかりあえる」という理念の上に成り立っています。確かに意見は人それぞれかもしれません。しかしその裏には皆が共通に納得できる何かがあるはずです。それを皆でつかみ取っていこうというのが議論なのです。「誰もが理解できるような普遍的な意見など存在しない」というのはつまり「自分の意見が他の人に理解されなくてもよい」というわけであり、これでは議論は理解不能な意見のはきだめになってしまいます。

議論というのは他人の意見を理解するという行為です。そして他人を理解しようという要求にはできるだけ応えなくてはなりません。「俺の意見にはお前には理解できない。お前の意見も俺には理解できない。結局のところ皆が理解できるような意見なんてないのだから、理解しようという努力は無駄なのだ」という態度は議論ではあってはなりません。冒頭の発言は一見すると人の意見を認める発言に見えますが、実は人の意見を拒絶する発言なのです。議論の場では双方が納得するまで徹底的に意見を交換して下さい。その努力は決して無駄ではありません。

「人それぞれ」というのが間違いなのではありません。「人それぞれということで議論は終わり」というのが間違いなのです。「人それぞれ」というのは議論の終着点なのではなく、議論の出発点なのです。

絶対主義

「意見は人それぞれ」なんてのは間違っているんだよ。お前の意見が正しいか、俺の意見が正しいかのどちらかなんだ。白黒はっきりつけようじゃないか。

「お前の意見が正しいか、俺の意見が正しいかのどちらかだ」とは一概には言えません。両方の意見が正しい可能性だってあります。議論は「白黒つける」のが目的ではなく、相手の意見を理解するのが目的です。

「意見は人それぞれ」というのは正しいのです。あまりにも当たり前すぎるのでそれを結論として議論を終えるのでは価値がない、というだけです。たとえ「真実は一つ」というのが正しいとしても、意見は真実ではありません。だから、たとえ真実は一つであっても、そこにアプローチするための色々な意見があっていいのです。

たとえ数学の問題であっても同じことが言えます。問題に対して答えは一つです。しかし解法は複数あります。「これはつるかめ算だね」「いや、連立方程式を使う問題だ」「行列を使えば簡単に解ける」「そんな事をしなくても、1から順に数字をあてはめていけばいいじゃないか」どの解法も間違っていはいません。

世の中のほとんどの問題は、数学の問題のように厳密に定式化されていません。だから同じ答えに行きつくという保証すらありません。「高い所からものを落とすと下に落ちる」「いや、それが風船だったら上に行くぞ」「無重力空間だったらどうなるんだ」「とても高いビルからすごい速度で投げれば、それは人工衛星になる」どの意見も「ものを投げた結果」は異なりますが、どれも間違ってはいません。前提が違うからです。

そして真理は一つです。「高い所からものを落とすとどうなるか」という問題の答えは「普通は下に落ちるが、空気より軽ければ上に行くし、そこが無重力だったら下には落ちないし、とても高いビルからすごい速度で投げれば人工衛星となって地球を回り続ける」というのものです。しかし、これが完璧な答えでもありません。「鳥はどうだ?」とか「下から上へものすごい風が吹いていたら?」というように、前提はいくらでも考えられるからです。無限にあるこうした前提とそれに対する答を集めたものが「真理」です。

ほとんどの場合、真理は一言で言い表せるほど簡単なものではありません。そしてその理由となるともっと数が多くなります。意見というのはどれも真理のごく一部について述べているだけであり、たくさんの意見を合わせてはじめて真理が見えてくるのです。

まとめます。難しい問題では真理は一言で言い表せません。だから、互いに矛盾する事を言っていても両方とも正しい場合だってあるのです。これは互いに前提が違う事があるからです。

前提条件

お前と俺と意見が食い違うのは前提条件が異なるからだ。議論をするなら前提条件を合わせないと結論が出ない。俺はAという前提条件のもとに話しているのだから、まずはそこに限定して話をしよう。

議論の場で、前提条件を自分の意見のそれに限定しようとするのは誤りです。相手の意見の前提条件に限定しようとしなければならないのです。なぜならあなたは相手の意見を理解しようとしているのですから。上の発言は「あなたはBという前提条件のもとに話しているようだから、まずはそちらに限定して話をしよう」と言えばよかったのです。

あなたが「Aという前提条件のもとではこう言える」と言い、それに対して相手が「Bという前提条件のもとではこう言える」と言ったとしましょう。この場合、相手はあなたの意見が正しいと認めているのです。なぜなら、そうでなければ「Aという前提条件のもとではそうは言えないのではないか?」と質問するからです。質問しないということは相手の意見を認めたということです。Aという前提条件の話はもう済んだのですから、わざわざ議論を蒸し返す必要はありません。

例えば、「高い所からものを落とすとどうなるか?」という問題に対してあなたが「下に落ちる」と言ったとしましょう。そして相手が「風船なら上に行く」と言ったとしましょう。それに対して「いや、その答えは私の答えとは前提条件が違う」と言うのは筋違いです。もし言ったとしたら、相手は「そんな事はわかっている。私はあなたの意見が間違っているとは一言も言っていない」と答えるでしょう。

相手の意見が自分の意見の否定だと勝手に思い込むのはやめましょう。きちんと理由が書いてあれば、その意見が間違っているということはほとんどありません。議論ではどの意見も原則として正しいのであり、参加者は相手の意見が間違っているなんて事は思わないのです。だから、意見が食い違う場合は「相手の意見が間違っている」と思うのではなく、「前提条件のどこが違っているのだろう」と考えるのです。

意見が食い違っているのではありません。前提条件が食い違っているのです。そして前提条件は違っていていいのです。前提条件が同じなら同じ答えしか出てきません。それでは議論をする意味がありません。

まとめ

相手の意見につい腹を立てて、相手に文句を言ってしまうことはよくあります。しかし、参加者はお互いを理解しようと努力している事を忘れないで下さい。トラブルの根本は悪意ではなく、ただの思い違いに過ぎません。

すべての意見には一片の真実が含まれています。冷静になって相手の発言を理解しようとしてみて下さい。相手もそんなにおかしな事は言っていないはずです。ただ何かが言い足りないだけの事がほとんどです。そういう個所を指摘して「ここが言い足りないと思うんですが」と言えばいいだけの話です。

議論においては参加者は自由です。ですから相手に何かを強制はしないようにしましょう。強制の代わりに説得をしましょう。相手の態度に不満を感じたら、不満を感じた事をその理由と一緒に言いましょう。それだけできっと相手はわかってくれるはずです。


  1. この答えは冒頭で例に出した答えより良くない印象を受けるかもしれませんが、そうではありません。例に挙げた答えは「出てくるな」と文句を言っているのに対して、この答えは「昔の記事に書いてある」と教えてくれている発言だからです。