議論のしかた

ネットで議論をするにはルールがあります。いえ、ネット以外で議論する場合も同じですが。

発言の自由

「自由」というのは難しいものです。何もない時は皆「自由は大切だ」と言いますが、何か問題が起きると「野放しはよくない」「規制をかけるべきだ」と言い始めます。はたして「自由」というのはいいものなのでしょうか、良くないものなのでしょうか。

ここでは「発言の自由」について考えます。これは「議論では発言の自由を保障すべきあり、それを阻害してはいけません」という注意事項ではありません。発言は本質的に自由であり、それを阻害することは物理的に不可能だというのが結論です。発言の自由をわざわざ阻害しているのは自分たちなのです。

発言の自由とは

「発言の自由」とは何でしょう?文字通り「誰が何を言ってもいい」ということです。そしてそれは質問にも回答にも言えます。してはいけない質問もしてはいけない発言もない状態が「発言の自由」です。

発言の自由が保障されている場では、モラルに欠けた発言でも、間違った発言でも、他人への誹謗中傷でも、とにかく何でもしていいのです。「ナチは正しかった」と言ってもいいし、「お前はバカだ」と言ってもいいし、「人を殺すのは快感だよ。一度やったらやめられない」と言ってもいいのです。そしてさらに「そんな発言はよくない。そんな発言はしてはいけない」と言ってもいいのです。

議論ではすべての発言は質問か回答かのどちらかです。そしてそのどちらも単に事実を述べているだけであり、他人への強制力はまったくありません。だから何を言ってもそれは発言の自由を侵害することにはならないのです。「誹謗中傷するなと言われてやめるわけないじゃん。悔しかったら止めてみろ」と言われれば何ともしようがありません。物理的に発言を止めることが誰にもできないことによって発言の自由が保たれています。

しかし、発言に強制力があると勝手に思い込んでいる人がたまにいます。発言の自由は「すべての発言に強制力はない」という事実によって成り立っているので、その中の誰かが発言に強制力を感じてしまった時点でこれは成り立たなくなってしまいます。これは問題です。

例えば、「あなたの○○という発言は誹謗中傷だから撤回せよ」という発言は厳密に言えば問題があります。これが人への命令だからです。議論では人に命令する権限は誰にもありません。だから本来なら「撤回せよ」ではなく「撤回すべきだ」でなくてはなりません。後者なら命令ではなく意見を述べたに過ぎませんから、通常の議論の枠内に収まります。本人が納得したのなら発言撤回すればいいわけだし、納得していないなら「なぜ撤回すべきなのですか?」と聞けばいいのです。

しかし、議論では「○○せよ」と「○○すべきだ」は同じものとしてとらえられます。強制力がないのは周知の事実だからです。命令形の発言の善し悪しは別として「発言の自由」というものがありますので、人へ命令するのは自由です。そしてそれに従わない自由もあります。どちらかというと問題を起こすのは後者を忘れている人です。人が命令に従わないと怒り出す人も問題ですし、命令に盲目的に従う人もまた問題です。(これは次の項で話をします)

結局のところ、議論の場では何でも自由に発言でき、それを各自がどう受け止めるかも自由です。反論するのも賛成するのも完全に無視するのも自由です。そして相手に対して強制力のある事はしてはいけません。「してはいけません」というより「できない」のです。

自己責任

命令に盲目的に従うのは問題だと少し前に書きました。これは「自己責任」の問題です。すべての事は自分で考え、自分が正しいと思ったら実行し、正しくないと思ったら実行しない、これが自己責任です。

「お前の発言は撤回しろ」と言われた時、とにかくトラブルを避けるために盲目的に発言を撤回していませんか?そして撤回した事が新たなトラブルを引き起こしたら「あの人が撤回しろって言ったんだから、私ではなくあの人の責任だ」と人に責任をなすりつけてはいませんか?自分が発言を撤回したのだったら自分で責任をとるのが自己責任です。

自分の発言に対して責任をとらない人は、自分の発言に対しての命令に盲目的に従おうとしますから、互いに矛盾する2つの命令を受けた時に困ります。「その発言は削除しろ」と言われて削除したら別の人から「なぜ削除するんだ。残しておくべきだ」と言われて困り果てます。自分の意見というものを持つべきです。そして自分の考えと違う人には盲目的に従うのではなく自分の考えを説明すべきです。「俺が削除しろと言ったのになぜ削除しないんだ」と言われたら、削除しない理由を説明しましょう。

相手の命令に対して盲目的に従う行為は結果的に議論の場での発言の自由を奪う行為です。もし自分の発言を相手が無批判に受け入れ、その結果責任をすべて発言主が負わなければならないとしたらどうでしょう?例えば「時には殺人が正当化される時だってある」と言ったら誰かがそれを真に受けて本当に殺人を犯し、その責任が発言者にのしかかってくるとしたら?自分の発言が相手にどう受け取られるかわからない以上、恐くて発言などできやしません。[1]

実際には、どの発言にも強制力はありません。ですから何かを実行したとしたらそれは本人の意思です。そしてその責任は実行した本人が負うのです。その行為のきっかけを作った発言者には何の責任もありません。だから発言者は安心してどんな発言でもできるのです。それを受ける側は発言を自分で考えて主体的に行動します。そして周囲の人は行動の結果責任をすべて行動した本人に問い、きっかけを作った発言者には問わないようにしなくてはなりません。

しかし「自己責任」は「何でもやっていい」とは違います。人の注意は聞かなくてはなりません。ほとんどの場合、注意されるのはそれなりの理由があるからです。そしてその注意を理解し反省して、自分なりに対処しなくてはいけません。人があなたの行動を注意するのはあなたのためにしている事であって、それを受け入れるのは自分の利益になることです。

責任とは何か

「自己責任」と書いておきながら、「責任」の意味を書くのを忘れました。「○○に対して責任を持つ」というのは、○○の評価を上げるような行動をしなければならない、ということです。例えそれが自分の利益と相反していても、です。

例えば社長は会社に対して責任があります。社長は会社の評価を上げるように努力しなければなりません。それは利益の出る会社にするために経営計画を見直すことだったり、自分より優秀な人を社長に据えて自分は社長を辞める事だったりします。しかし責任のないヒラ社員はたとえ会社の社会的評価が低くても「それを上げるために自分の利益を犠牲にして何かしなくてはならない」とは要求されません。ヒラ社員が責任を持つのは自分の仕事だけですから、自分の仕事さえうまく行っていれば会社は傾いていても文句は言われません。それは自分の責任ではないのですから。

では「交通事故の責任をとる」というのはどうでしょう?これも同様に「交通事故の評価を少しでも良くするために何かする」ということです。「交通事故をして良かった」という評価に戻すことは普通はできないでしょう。しかし、良い評価に少しでも近づくために何かすることはできます。それはお金を払うことだったり、謝りに行くことだったりします。このようにして交通事故に対する被害者の悲しみを軽減させる事が交通事故の責任をとるということなのです。

責任というのは能力と密接に関係します。自分ができない事に対して責任は持てません。ヒラ社員に「会社に対して責任を持て」と言われても、自分が会社を動かす事ができない以上どうしようもありません。「責任を持てない」というのは「自分には能力がない」というのと同義ですから、人は能力以上に責任を持とうとしてしまいがちです。持てない責任を持とうとしてはいけません。

責任というのは自由と相反します。自由は「したくない事はしなくていい」と言っていて、責任は「例え自分に不利益となる事でもしなくてはならない」と言っていますから。自由な行動には責任がついてまわります。したい事をする代わりに、したくない事もしなければならないのです。自由というのは正確には「何をしてもいい」のではなく「何かした結果、責任を果たさなくてはならなくなるのを覚悟の上で何をしてもいい」というのです。そして、自分にその責任を持つ能力がないのならばそれをしてはいけません。

以上を踏まえて、「発言の責任」について考えてみて下さい。あなたは発言をした以上、その発言がより良くなるように努めなければなりません。不明瞭な点はできる限り明瞭にして、間違っている点があったら直さなければなりません。それが「発言の責任を果たす」ということです。

そして、「発言の責任を果たす」というのはそれだけの事です。間違いがあったら「間違っていました」と言えばそれで責任を果たした事になるのです。それ以上に何かを要求される事はありません。例えば自分の間違った情報を鵜飲みにした結果誰かが不利益を被ったとしても、それは鵜飲みにした人の責任であって、あなたの責任ではありません。

発言しない自由

参加者には「発言する自由」の他に「発言しない自由」もあります。そして「議論の場から退場する自由」もあります。「発言する自由」に対して「発言しない自由」は忘れられがちです。

例えば、Aさんの発言に誰も質問も反論もしなかったとしましょう。Aさんは「発言が無視された!」と怒り出すかもしれませんがそれは筋違いです。単に誰も質問や反論を思いつかなかっただけです。あるいはAさんの発言が完璧で、疑問や反論の余地がどこにもなかったからかもしれません。人の発言に質問や反論をしなくてはならないという決まりはどこにもありません。発言しないのもまた自由なのです。

議論は「納得できない意見に質問する」というものですから、逆に質問をしないということは納得したという事です。誰も自分の意見に反対しないならばそれは全員が納得したのであり、自分の質問に相手が答えなかったらそれは相手が自らの意見を正しくないと認めたということです。「発言しない」というのは「相手の意見が正しいと認めた」という意思表示であり、それも意思表示の一つの方法です。

今の議論に興味がなかったらそこに参加しないのも自由です。どちらかというと興味もない議論に首は突っ込まない方が全員のためです。本筋に興味のない人はどうでもいい所をいちいち質問しがちであり、それでは本筋の議論をしている人の迷惑になります。「本筋の議論」とは最初に掲げられた問いの答を理解しようとすることです。その答に興味のない人がなぜ議論に参加しているのでしょう?

「議論には最後まで参加し続けなくてはならない」という固定観念は捨てましょう。もし議論が途中から自分の興味のない方向へ動いていってしまったとしたら何も発言せず黙って見ていればいいですし、それが続くようだったらその議論から抜けて別の議論に参加すればいいのです。ただし、自分の意見に誰かが質問している場合にはこれに答えるのが礼儀です。

質問に答えるのは「礼儀」です。いわば「老人に席を譲りましょう」のようなものです。席は譲るべきなのですが、譲らなかったからといって文句を言ってはいけません。同様に、質問に答えてもらえなかったからといって文句を言ってはいけません。(自分も含めて)残っている人達でその質問の答を考えましょう。その結果「もとの発言はどう考えても矛盾があるから間違った発言だ」という結論になることもあります。その場合は元発言を忘れてしまえばいいのです。

批判と自己批判

「自己批判」という言葉は左翼集団がよく使うため、何だかうさん臭い言葉として認識している人もいます。しかしこれは議論の自由の本質を突いた言葉でもあります。よく「自己批判しろ」と命令形で使われます。

自分で自分を批判することを自己批判といいます。自分の意見を自分で読んで「自分の意見は間違っている」と言うのが自己批判です。それに対して、他の人の意見を「あなたの意見は間違っている」と言うのが普通の批判です。議論ではすべての批判は自己批判に行き着きます。だから自己批判は議論では大切です。

例えば、AさんがBさんの意見を「間違っている」と思ったとしましょう。そこでAさんはBさんに向かって「その意見は間違っている」と批判したとします。この時Bさんは、その批判を受けて「自分の意見のどこが間違っているのだろうか」と考えます。これが「自己批判」です。つまり、批判というのは「間違っている」と言うことではなく「考え直してみろ」と言っていることです。自由な議論の場では他人の意見を変える強制力はどこにもないので、自分の意見は自分で変えるしかありません。それが自己批判です。

ある人から批判を受けてもそれは「考えを改めよ」という命令ではありません。「考え直してみよ」という忠告に過ぎません。重要なことは相手の批判を鵜飲みにすることでも無条件に反論することでもなく、それを受け入れて考え直してみることです。その結果自分の方が間違っていたら直せばいいし、相手の方が間違っていると思ったらそう言えばいいのです。批判する側も相手が自分の言いなりにならなかったからといって文句を言ってはいけません。代わりに自己批判のための材料をもっと提供しましょう。それは自分がした批判を相手に理解してもらえるように詳しく説明することです。

ただ、直接「自己批判しろ」と言うのはあまり感心しません。議論では自己批判するのが当たり前で、自己批判以外のことはできないからです。「相手は自分の意見を全然わかろうとしていない」と感じた時、本当にそうだろうかと「自己批判」してみる必要があります。悪いのは相手ではなく自分なのかもしれません。

議論では自己批判をしましょう。他人の意見を聞いて自分の意見を考え直すのです。そして議論ではそれ以外の方法で意見を変えることはできません。自分の意見について「本当に正しいのだろうか?」と常に自分に問いかけましょう。

不確かな発言

議論の場で、時々「知らないくせに出てくるな」「基礎から勉強し直せ」と言われることがあります。これは自己批判精神の欠如です。「自分もまた基礎から勉強し直した方がいいのかもしれない」と思っていないからこういう事が言えるのです。自信満々で「自分はこの問題について深く知っている」と信じて疑わないからこう言えるのです。議論では根拠なく信じて疑わないのは良くない事です。根拠のない事はまず疑ってかかりましょう。

自己批判の精神とは、すべての事について「もしかしたらこれは正しくないかもしれない」と問いかけ続けることです。こう言うと「そんな事を言っていたら何も発言できなくなってしまうじゃないか」と思う人もあるかもしれません。その通りです。自己批判の精神を持つと、正しいという確証を持つことはできなくなってしまいます。「○○は正しい」と言おうとする時、自分の中で「ちょっと待てよ。本当にそう言えるのか?」と考えてしまいます。そしてそれが繰り返されると、「○○は正しい」と言うことはできなくなってしまいます。これは困った問題です。

この問題の根本は「正しくない事は言ってはいけない」という考え方にあります。議論では何を言ってもいいのです。そういう意味で、議論では「不確かな発言」が許されています。正しくない事を言って誰かに間違いを指摘されたら「ああ、確かにその通りだ」と思って反省すればいいのです。指摘する方も「基礎から勉強し直せ」ではなく「基礎から勉強し直した方がいいよ」でなくてはなりません。前者は命令で後者は有益なアドバイスです。議論では命令に効力はありません。

しかし、不確かな発言よりきちんと調べた発言の方がいいのはもちろんです。これは「いい発言かよくない発言か」という問題ではなく、議論の場にわざわざ出して他人の手をわずらわせるのと自分で調べるのとどちらが早いかという問題です。自分で調べる手間をかけず何でも聞いてばかりでは、そのうち無視されてしまうようになるでしょう。そうなると自分にとって損です。

不確かな発言は損をしますが、してはいけない発言ではありません。議論ではしてはいけない発言というのはないのです。発言には常に正しくない危険がつきまといます。つまり、すべての発言は程度の違いこそあれ「不確かな発言」なのです。「自分は不確かな発言はしない」と言う人は、自分の発言が不確かかもしれないということに思いが至らないだけです。つまり思慮が浅いだけということです。

ルール

この文書ではところどころに「○○してはいけません」「○○しましょう」と命令形の文があります。しかし「人に命令してはいけない」とも書きました。この二つは一見矛盾するように見えます。いったいどういうことでしょう?

この文書で言っているのは、議論の「ルール」です。「○○してはいけません」というのは、厳密には「○○すると議論がスムーズに進まなくなります。だからしない方が得策ですよ」と言っています。つまりは良い議論をするための一種のアドバイスです。だからこれらのルールも他の意見と同様に扱って下さい。自分で考えて正しいと思ったら守り、正しくないと思ったら守らず、わからなかったら質問して下さい。

ただし、ルールとアドバイスには一つ違う点があります。アドバイスは守らなくても自分が不利益を被るだけですが、ルールの場合には関係ない他人まで不利益を被るのです。「たばこの吸いすぎに注意しましょう」はアドバイスであり、守らなくても困るのは自分だけです。しかし「赤信号では止まりなさい」はルールであり、守らないと自分だけでなく何の罪もない歩行者や他の車まで巻き込んでしまいます。

つまり、ルールの方がアドバイスより守らなかった時の危険が大きいのです。自分一人で怪我をするのなら怪我をしておしまいです。しかし人を怪我させてしまったらそれでおしまいというわけにはいきません。本来なら相手を事故がなかった時と同じ状態にしなくてはなりません。しかし起きてしまった事を元に戻すことはできませんから、そんな事は原理的に不可能です。つまり、ルールを破って相手に不利益を与えてしまったら取り返しがつかないということです。

だから、ルールを破るのには細心の注意を払わなくてはなりません。ルールが本当に無意味であることが説明できるようになったとしても、即座にそのルールを破ってはいけません。まずは皆に「このルールは無意味だと思うのですが」と質問してみて下さい。そして自分がなぜそのルールが無意味だと思うかを説明して下さい。そこでもし本当に無意味だという結論になったら、そのルールは捨ててしまいます。それまではルールを破る事で他人に迷惑をかける可能性がありますから、ルールを勝手に破ると多大な損害を被る恐れがあります。

ルールもアドバイスも同様に強制力はありません。だから、自分で判断して必要なルールだけ守ればいいのです。しかし、アドバイスよりルールの方が破った時の被害は甚大です。自分だけの問題では済まなくなるからです。だから自分の判断が間違っているという可能性があるうちはルールを守った方が賢明です。

感情を害する発言について

「誹謗中傷も自由だ。何を言ってもいい」とか「ルールは守らなくていい」などという考え方は明らかに問題であるがゆえに、逆にあまり問題がこじれる事はありません。どちらかというと、普通の人が何気なしに発言の自由を犯してしまう事の方が問題です。そのほとんどは「感情を害する発言」がきっかけになるものです。

この問題は「人の感情を害する発言」が問題なのではありません。「人の感情を害する発言をするな」という方が問題です。これは「人の感情を害する発言とは何か」という客観的な定義ができない事に起因します。

「人の感情を害する発言」とは何でしょう?これには明確な定義ができません。ある人が「感情を害した」と言えば、どんな発言でも人の感情を害する発言になってしまいます。ある発言をとってきて事前に「これは人の感情を害するかどうか」を判断する事はできません。実際に言ってみて、それが実際に感情を害する人がいるかどうかで確かめるしか判別方法はないのです。だから人の感情を害する発言をしない事は不可能です。

とはいっても実際に暴言を吐く人も誹謗中傷を繰り返す人もいますし、それを黙って受け止められるほどの聖人ばかりではないのも事実です。しかしよく考えて下さい。それらの発言が本当に悪いのは人の感情を害する発言だからでしょうか。それ以前に、議論になっていない発言だからではないでしょうか。そういう人には、感情を害するという理由ではなく「ここは議論の場だから、人の意見を聞くつもりのない人は退場して下さい」と言うべきです。

そして、相手が真剣に議論している限り、自分も相手の言う事を真剣に理解しようとしなくてはなりません。一見あなたへの中傷に見える意見でも、よくよく考えてみるとあなたへの忠告なのかもしれませんし、あなたの事とは全然関係ないのかもしれません。だから相手の意見であなたが感情を害したとしても感情だけに支配されてはいけません。相手のその発言を理解するようにして下さい。納得いかない個所を「なぜこんな事を言うんだ?」と質問して下さい。冷静になって相手の説明を聞けば、自分が感情的になった事の方が誤りであった事に気がつくでしょう。

たまに、議論とは関係のない第三者の感情を害することを問題にする人がいます。「それは障害者の気持ちを踏みにじるものだ」「それは戦争被害者の感情を害するものだ」と。しかしこれは間違っています。なぜなら、その人達は議論に参加していないからその発言を聞くこともなく、結果として感情は害されていないからです。さらに、もしそういう人が実際に議論に参加してその発言を聞いているとしたら、前述の通り文句を言うのではなく質問をしなければならないからです。つまり、誰かが何かを言った事で実際に感情を害する事はないか、あったとしてもそれに文句を言うのは筋違いなのです。

「人の感情を害する発言はやめろ」とは言わないようにしましょう。人の発言で感情を害する方が悪いのです。本当に目に余る発言もないことはありませんが、それは人の感情を害するのが問題ではなくどこか他に問題があるはずです。「人の感情を害する」という判断は恣意的な判断です。そんな身勝手な判断で人に文句を言わないようにしましょう。

管理者による削除

ネットの掲示板ではよく管理者がいて、問題発言を削除して掲示板が「荒れ」ないようにします。しかし管理をやり過ぎると発言の自由は失われてしまいます。これはどうしたらいいでしょうか。

掲示板では「議論は禁止」としている所もあります。お知らせをメインにしている掲示板ではこの注意書きは適当でしょう。そして少しでも議論になりそうな書き込みはすべて片っ端から削除すべきです。「情報交換が目的なので議論は禁止」という注意書きは適当ではありません。なぜなら議論は情報交換を目的とするものだからです。

管理者権限での削除の問題は、管理者だけが唯一権力を持っている事によります。前に「発言の自由は誰もその発言に干渉できない事によって成り立っている」と書きましたが、唯一管理者だけは物理的に干渉できます。そしてその行為は発言の自由を阻害する可能性があります。皆が有益な意見だと思っていても管理者が問題だと判断したら削除されてしまうのです。

発言を「管理」するつもりがあるなら、まず基準を明示しなければなりません。そしてそれを必ず適用しなくてはなりません。「議論は禁止」と書いたら、すべての議論を消して回らなければなりません。「荒れる発言は削除対象」というのは何が「荒れる発言」なのかが明確になっていないのでよくありません。それならいっそいさぎよく「管理者が気に入らない発言は削除対象」と書いた方がいいでしょう。[2]

若干の法的に問題のある発言を除けば、基本的に発言によって受けうる最大の被害というのは掲示板が見にくくなる事でしかありません。発言には何ら強制力はないわけですし、発言で感情を害するのは害する方が悪いのですから。削除しない事によって掲示板が見にくくなる害と削除する事によって発言の自由を脅かす害とを考え、どちらがより大きいかを考えなくてはなりません。

まとめ

議論では本質的に発言の自由があります。議論である限り何を言ってもいいのです。参加者は「この発言をして怒られないだろうか?」とか「この発言は良くない発言じゃないだろうか?」とくよくよ悩まずに、とにかく発言をしてみましょう。もし本当に良くない発言だったとしたら「その発言は良くない」と誰かが言ってくるでしょうから、その時に一つ賢くなればいいだけの話です。

ある問いに対してどんな意見が出ようともそれは理解しようとするべきです。相手の意見が悪いのではなく、単に自分が間違って理解しているだけなのかもしれないからです。その意見に対して質問をしてみましょう。そして議論の作法に基づいて質問に答えてくれず暴言を繰り返すようなら、それは「暴言だから」という理由ではなく、「議論をするつもりがないから」という理由で抗議しましょう。

議論は共同作業ですから、相手の利益は自分の利益です。協力する場なのですから、わざわざ相手が困る事をするはずがありません。全員がちゃんと議論をしている限り議論の妨げになるような発言はするはずがありません。


  1. この問題に対する正準的な反論は「じゃあお前は自殺しろって言われたら本当に自殺するのか!」というものです。しかし最近の世間の風潮では、本当に相手が自殺してしまうとその責任を問わかねません。万引を注意した事で閉店に追い込まれた古書店の例を見る限りでは。困った時代になったものです。

  2. 「管理者が気に入らない発言は削除」というのは文面から受ける感じほど悪いポリシーではありません。管理者の人格が勝負です。「この管理者なら理不尽な削除はしない」と思ってもらえるようならよいのです。