ネット世代

ネット世代の考え方の特徴を、他の世代と比較しながら見てみよう。

力の変遷

これまでに、社会における価値観の移り変わりを見てきた。次に、その価値観の尺度と実現方法である、力の移り変わりについて見ていくことにする。ここでいう力とはすなわち、これがあれば世の中で成功できるという能力のこと。または、正しさを与えてくれる存在のことである。

ここでもまた、前と同じ時代の区切りを使って、前と同じような話が展開される。力という軸で見た社会の移り変わりは、次のようになる。

戦中派
精神力
全共闘世代
知識
バブル世代
虚構
ネット世代
共感

上記の定義は価値観の変遷に対応づけて書いたものだが、1世代先へ進んでいるような感覚を受けるかもしれない。力は価値観の変化に追随して変わるため、少し遅れるからだ。だから、裏の価値観に対応した力を考えると、よりしっくりくるだろうと思う。すなわち、全共闘世代は精神力、バブル世代は知識、ネット世代は虚構というイメージだ。しかしここでは、あくまで価値観との対応という形で、上記の定義で話を進めることにする。

知識の力

第二次世界大戦までは、精神力がものを言う時代だった。これは何も戦争に限ったことではない。平時でも、つらい状況でも歯をくいしばって一生懸命に働くことが、立身出世の道であると考えられてきた。それが、科学技術の発達によって、技術の力、つまり知識の力が優位に立つようになってきた。

昔は、ただ目の前の仕事を何も考えずに黙々とこなしていればよかった。しかし、知識の時代に入ると、いかにうまく仕事をするかを考えることが、ただ仕事をすることより重要になってくる。辛い仕事をそのまま黙々とやるより、辛い仕事でいかに楽をするか、言い換えるといかに辛くない仕事に変えるかを考えるべきなのだ。だから、頑張っている人より、楽をしている人の方が偉いとみなされる。前者はバカで、後者は頭がいい証拠だからだ。

知識の力は仕事の価値観と結びつき、「遊び好きで怠け者だが、要所で斬新なアイデアを出して仕事を成功に導く」という典型的なサラリーマン喜劇のヒーロー像を作り出す。一方、まだこの時代には精神力が意識の根底にあって、こうしたヒーロー像は一種のアンチヒーローだとみなされる。

虚構の力

消費の時代に移ると、精神力は否定され、知識が重要視されるようになる。消費という価値観において、知識の力は「スマートな消費」として表れる。もともと、消費というのはただ必要なものを仕方なく買うだけのものだった。昔は、「なぜ買うか?」「何を買うか?」「どうしてそれを選んだのか?」を問われることはない。なぜ買うかって、必要だけど手元にないから買うに決まっている。何を買うかって、必要だから買うに決まっている。どうしてそれを選んだのかって、単に買いに行ったらたまたまそれがあったからに決まっている。しかし、「スマートな消費」が一般化すると、こうした問いにきちんと答えることが求められ、答えられない人は「バカ消費者」とみなされてしまうようになる。

そんな中、虚構の力が注目され始める。虚構は一貫し独立した世界だ。「世界」だから、様々な質問に一度に答えてくれる。そして「一貫」しているから、それは正しい。だから、虚構を使えば、消費の際にいちいちやってくる問いに簡単に答えることができる。

以上のことは、よく「ライフスタイル」と呼ばれるものを想定してみれば、理解できるだろう。あるライフスタイルを想定すれば、その人が何を食べ、何を着て、週末はどこへ行って何をするか、具体的な商品名まで想像できる。自分がどのライフスタイルに属するのかを位置づけさえすれば、なぜ買うか、何を買うか、どうしてそれを選んだのかといった問いに対して「自分はこのライフスタイルだから」と答えるだけで済む。

こうなると、物を売る側も、自分の商品がどのライフスタイルのものなのかを明確に位置づけないと、誰も買ってくれないということになる。こうして、ライフスタイルという虚像に現実の方から合わせていくようになる。虚構は、もともとは「スマート」であるための手段だった。しかし、現実がそこに移動していく目標点として機能するようになると、虚構こそが正しく、現実はただの通過点に過ぎなくなる。マラソン選手が今どこでどっちを向いて走っているのかは知らなくても、ゴール地点で待ち構えてさえいれば、向こうの方からわざわざやってきてくれるのだ。

共感の力

消費の時代が終わり、つながりの時代に移ると、仕事の価値観と知識の力が消え、知的なことが評価されなくなる。その代わりに、他者との共感が重視されるようになる。他人と同じであることによって正しさが認められ、安心する。これが、他人と違うことこそがスマートだった前の時代との違いだ。

共感は、知性の否定である。あくまで「感じ」であって、論拠や調査はそこにはない。自分がどう感じたかを表明し、同じように感じる他の人と共感し、そこに人とのつながりが生まれる。そして、つながっていることで人は価値を感じる。知識がよりよい仕事をするための道具であったように、虚構が消費対象を選ぶ道具であったように、共感は人同士がつながるための道具である。

虚構の力から共感の力への移行は、虚構への共感という形で進む。1つの虚構を皆で共有する。以前はあくまで個人の問題であった虚構が、人とのかかわり合いの問題に変化する。自分を見つめるために一人旅をするのではなく、逆に多くの人とふれあいを持とうとする。人とは違った自分になろうとするのではなく、人と同じ自分になろうとする。

虚構を多数で共有しているという実感が持てるようになってくると、虚構と現実の区別がつかなくなる。虚構が現実となったとき、虚構の時代は終わる。虚構というのは、人々が走っていくゴール地点だった。皆がゴールに到達すると、ぎゅうぎゅう詰めになって、虚構が意味をなさなくなるのと同時に、おしくらまんじゅうのように無秩序に押された方へ動き続けるようになる。同じ虚構を持ってつながったはずの人々の集団が、全然違う方向へ突っ走っていっているのに中の人が気づくようになると、虚構の力が消えて、新しい時代が始まる。

まとめ

精神力を鍛えてお国のために貢献しようと思われていた時代から、頭が良ければいい仕事ができると思われていた時代を過ぎ、統一した世界観やキャラクターでもって売れっ子になる時代をベースに、共感を集めて多くの人とのつながりを持つ時代となった。そのうち、現実離れした作りもののキャラクター性やマーケティングのためのイメージ戦略がバカバカしくなって、皆がそれに背を向ける時が来る。今の現実がそういうものから構築されているということも忘れて。

とにかく、ここで述べたかったことをまとめよう。

  • ネット世代では、「虚構」に支えられた「共感」によって、「つながり」を実現していく。
  • 前のバブル世代と違って、「知識」は無力であり、評価されない。
  • 虚構のもとに多くの人が集まることで、虚構は虚構でなくなり、現実となる。
  • 虚構が現実となると、人々は目標を失い迷走する。その過程で、新たな力が模索される。