ネット世代

ネット世代の考え方の特徴を、他の世代と比較しながら見てみよう。

社会の価値観の変遷

これからしばらくは、それぞれの世代がどういう世代であったかということを、切り口を固定して世代の移り変わりを見ながら考えていくことにする。

まずは、社会の価値観、つまり社会的にどんな人が「偉い人」とみなされるかということに着目して、移り変わりを見ていこう。結論を簡単にまとめると、次のようになる。

戦中派
国家のために尽くすこと
全共闘世代
良い仕事をすること
バブル世代
賢い消費をすること
ネット世代
人とつながりを持つこと

これらの価値観は、世代の変わり目においてオーバーラップしながら移り変わっていく。それは、実例を見ながら考えていけば容易に理解できるだろう。

仕事という価値観

大戦時の「お国のために尽くす」という価値観から一転して、戦後、人々は国家から解き放たれて自由になった。混乱の時代の中で、「会社」というものが新しい価値観として出てきて、会社のために懸命に働くようになった。

最初は、単に「お国」が「会社」に変わっただけだった。しかしそれがだんだん個人主義と共に、「会社で出世すること」に変わっていく。一流会社に入って、係長、課長、部長、社長と出世することこそが人生の目的となっていく。仕事とは全然関係のない単なるご近所付き合いであっても、隣の人がどこに勤めていてどういう役職かということが、その人を表す主なステータスとなった。

当時流行ったマルクス主義もまた、労働こそが価値の源泉であると説く。ウーマンリブ運動も、仕事こそが価値だったからこそ出てきた運動だ。こうした運動がネット世代以降の人の心に全然響かないのは、こうした運動の前提である「人間はぐうたら寝ていることより仕事をする方を好む」という価値観を持っていないからだ。まあ、この言葉だけを出すと、「そんなアホな。人間、仕事するより寝てる方がいいに決まっている」と思う人も多いと思うが、これに「そうあるべきだ」とか「向上心」という言葉を付け加えると、それに賛同するか反発するかはおいといて、内容自体に異論はないだろう。つまり「人間、ぐうたら寝てるより仕事をしている方が格が上で、より良い人間だ。そして、人間だれしも向上心を持っていて、より良い人間になろうとしている。だから、普通の人間は寝てることより仕事をする方を好むのだ。そうでない人間は向上心のないダメ人間だ」という価値観だ。

念のため言っておくが、「仕事してない」と「職に就けない」はイコールではない。前者には「ダメ人間」のレッテルを貼られるが、後者は社会の問題であって、むしろ「俺にも職をよこせ!向上する機会を与えろ!」と怒って角材を振り回して火炎瓶を投げるべきところなのだ。そして、職に就いた人に対しては「お前のせいで職に就けない人が出るんだ」と怒り、職に就けないくせに怒らない人に対しては「お前は真正のダメ人間だ」と怒るのだ。

国家という価値観の消失

こうした「仕事こそが人間の価値」そして「向上心こそが人間の徳」といった考え方は、高度経済成長が終わると、見直さざるを得ないようになった。こうした見直しは、まずはアンチテーゼから始まる。それがヒッピー文化だ。

彼らは、「そう怒ってばかりいてもしょうがないだろ」「出世欲なんて捨てて自由になれよ」「文明なんか捨てて自然で暮らそうぜ」と言って、仕事の価値観を否定したわけだが、単に森の中でヤクやってセックスするだけの連中だったから、否定する対象そのものが消えていくにつれて、その考え方自体もだんだん消えていった。

高度経済成長が終わると、「国家」という価値観が否定され、「仕事」という価値観が消えることになる。今までの話とちょっと食い違うように思う人もいるかもしれないが、この「否定」と「消える」の違いがキーポイントだ。「否定」というのは明確に意識されてノーと言われることであり、「消える」というのはもはや当たり前すぎて意識されることすらなく、明確にイエスと言う人すらいなくなるということだ。つまり、「会社や共同体のための戦いにいかに貢献するか」という、単に戦時中の「国」が「会社や共同体」に変わっただけの考え方を否定しているのであって、「人間ひとりひとりが誰からも縛られず自分で向上する道を探っていこう」という考え方は、むしろ強化されて次の世代へ受け継がれていく。

だから、次のバブル世代でも仕事は羨望の的である。ただし、そこから会社と役職という旧来の価値観はなくなって、ヤンエグとかハウスマヌカンとかなんとかデザイナーみたいな、自由と独立の証である職種が人気になる。逆に、窓際族なんかは旧来の会社的価値観に縛られた人の象徴として揶揄の対象となる。

まとめると、「終戦後の焼野原でがむしゃらに働いて世界有数の大国になった」という高度経済成長期の自慢は、働くことの尊さという仕事の価値観と、大国になったという国家の価値観の複合物だ。そして、それに対する「そんなに働いてなんかいいことあったか?」という反省は「大国になったこと」の自慢に対してであって、その続きは「働いてもいいことないよ」ではなくて「もっと自分のために働けよ」となる。

消費という価値観

大量生産・大量消費の世の中になって、皆がある程度お金持ちになると、だんだん稼ぐことから使うことに人々の目が向いてくる。どんな仕事に就いているかではなく、お金をどう使ったかがステータスになるのが、消費の時代だ。「お隣の旦那さん、部長に昇進したんですってね」ではなく「お隣の旦那さん、昇進祝いにベンツを買ったのよ」が噂話になる時代だ。

最初は、消費は会社の地位と結びついて、単にお金があることや、高い地位にある人が買うようなものを持っていることがステータスだった。たとえば庭付き一戸建て、外車、ブランドもののスーツなどだ。そういう高い地位の証だったものが、消費の価値観が広まってくるにつれ、意味を持たなくなってくる。

以前は「ブランドものを持つような社会的地位」が憧れだったのが、「ブランドものを持つ」ことそのものが憧れになる。前者と違って、後者はお金さえ出せば誰でも簡単に可能だ。しかし、以前はそんなことは誰もやらなかった。社会的地位もないのにブランドものを持つのは意味がないことだからだ。だからこそ、「ブランドものを持つ」=「社会的地位がある」=「かっこいい」となるわけだ。これがそのうち、真ん中が抜けてしまって「ブランドものを持つ」=「かっこいい」になってしまう。これが「消費の価値観」であり、皆がそうなってしまうと、もともとの「ブランドものを持つ」=「社会的地位がある」という等号が成り立たなくなってしまう。

戦時中は「贅沢は敵」であり、全共闘世代にとっては「貪るだけで何も生み出さないブルジョア的所業」だった消費が、逆に良いことだとみなされるようになった。しかし、そこには悪であったものをひっくり返すだけの正統性がない。そこで発明されたのが、「賢い消費」という考え方だ。

「賢い消費」とは、消費に評価という機能を加えたものだ。消費というのは数ある商品の中から良いものを選び出すという作業であり、それによって商品は淘汰され、より良い商品が開発されるという考え方だ。この考え方によると、消費者はただ消費するだけではなく、商品についてよく研究吟味し、より良いものを選ぶという役割が課せられる。何も考えずに目の前のものに飛びつくのは「バカな消費」であり、逆に蔑みの対象となる。

では何が「良い商品」なのか。それは、消費者が自分で考えなくてはならない。見る目がある消費者は「ナウい」と呼ばれ、見る目のない消費者は「ダサい」と呼ばれた。こうなると、単に金にものを言わせてブランド品を買い漁る行為は評価されなくなり、まだ皆が知らないブランドや流行をいち早く取り入れる行為が評価される。また、同じものを買うなら、より安く買う方が評価されるようになる。良い物を発掘してお金を払うことによって、消費という行動は価値を生み出す原動力となり得る。

ところで、「ナウい」と「ダサい」の境界は、どこにも規範がない。消費の価値観では、それは各自が心の中に持っていて、明示されるものではないということになっている。各自が、あらゆる物を「ナウい」「ダサい」と評価する。そして、その評価が的確ならその人自身が「ナウい」と評価されることになる。しかし、その評価が的確かどうかも、それを評価する人の心の中にしかない。そうした主観評価の総体が、消費という価値観なのだ。

仕事という価値観の消失

バブル景気が終わると、仕事という価値観と密接に結びついていた消費の価値観から、仕事の側面が消えていくようになる。バブル時代の消費に対するイメージは、花金とか花のOLとか5時から男といった単語が示すように、仕事と結びついていた。この頃は、消費というのは仕事の後にするものだった。

バブル崩壊は、仕事とそれに続く余暇に対する華やかなイメージを消し去った。バブル期には、半分大学サークルの延長のようなお遊び的な仕事が「ナウい」とされていたが、バブルが崩壊すると、仕事というものは辛く厳しいものでなくてはならないという考え方が支配的になった。「〜である」ではなく「〜でなくてはならない」だというところがポイントで、実際は楽しい職場であっても、辛く厳しいような顔をしなくてはならなくなった。

そして、辛い仕事の後の「消費」が、唯一の楽しみとして定着した。もう仕事は生きがいでも価値でもなく、消費するために仕方なく行う苦行となった。単なる苦行なのだから、できるだけプライベートと切り離して、仕事をプライベートに持ち込まないのが良いこととされた。「プライベート」とはすなわち「自分個人の生活」である。つまり、プライベートこそが本当の自分であり、仕事はその本当の自分を維持するために支払わなくてはならない対価になった。

消費という価値観の出現により、生産者ではなく消費者が価値を生み出すようになった。作り手が、良い商品を創り出して世に問うというという立場から、消費者の意見を聞いて合わせるという立場に変化した。作り手に自主性や創造力は必要なくなり、ひたすら消費者の奴隷に徹するようになった。そのためますます仕事は面白くなくなって、人は仕事以外の場所に創造性の行き場を求めるようになる。

仕事という行為が色褪せると同時に、拡大再生産という概念も消えていった。仕事に対しては、儲けを投資することでだんだん事業が拡大していくが、消費に対しては逆に、欲望を膨らませることは破たんを意味する。未来を考えると、仕事の場合は「より頑張る」という方向へ進むが、消費の場合は逆に「抑制して貯金する」という方向へ進む。消費が価値観のベースにある限り、どうしてもネガティブな方向へ進まざるを得なくなる。

つながりという価値観

消費という価値観でどうしても不足しがちなのが、その意義である。バブルの時代には仕事の価値観がまだ生きていたから、「羽目を外して楽しんでまた明日仕事を頑張ろう」と言えた。しかし、「仕事のための消費」から「消費のための仕事」へと変化すると、「何のために消費するのか」という根本的な問いが発生する。

バブル時代は、「賢い消費」がその答だった。言い換えると、消費という行為の成果は、良い物はどれかという「情報」だった。しかし、情報が簡単に流通できコピーされるようになると、情報の価値が低下する。以前はあちこちに足を運んで食べ歩いた人しか知らなかった「おいしいお店」が、情報誌に取り上げられることによって、誰もが知っている店になる。それに伴って、「あちこちに足を運んで食べ歩く」という行為の価値が相対的に下がっていく。

そしてそのうち、価値の逆転現象が起きる。「近所のおいしいお店」より「行列のできる有名店」の方がより満足度が高いということになってしまう。こうなると、食べ歩く行為は価値が低いどころか、まったくの無駄ということになる。有名店を探すなら、自らの足で探すのは間違っていて、情報誌を見るのが正しい探し方だ。

皆が、「人とは違う」ことではなく、「人と同じ」ことを求めるようになる。これが、自立と個性が尊ばれた「仕事の価値観」の否定だ。そして、消費を通じて、「人と同じ」ことを確かめようとする。これが新しい「つながりの価値観」である。つながりの価値観では、あるものを皆が支持するということが価値になる。ちょうど、「価値のあるものは皆が支持する」という消費の価値観の逆転になっている。消費の価値観が「偉い人は価値のある物を持っている」という仕事の価値観の逆転であったように。

消費という価値観の消失

そろそろ、消費と結びついたつながりの価値観から、消費の部分が切り離され、否定される頃だ。消費に頼らずに人とつながることができる方法が模索されている。それがいったん出来上がると、消費社会は終わりを告げる。

消費の価値観の基本は、中身はどうあれ物が生産者から消費者へ流れさえすればそれが価値だというものだった。「皆が消費をすれば会社が儲かって賃金が上がって景気が上向く」というような話が、典型的な消費の価値観だ。そこでは、何が消費されるかということは問われない。その前の世代の人なら、劣悪な物を消費することはかえって社会にダメージを与えると考える。それは、物自体に貴賎、すなわち価値があると考えるからだ。純粋な消費の価値観では、消費という行為そのものが価値であり、消費されるもの自体は何でもいいということになる。極端な話、買ってすぐゴミ箱に捨てるのでもかまわない、という話になってしまう。

仕事という価値観が残っていたうちは、そういう価値観も新鮮で面白いなと思われた。しかしそれが当たり前になってみると、何か変だと多くの人が思い始めるようになった。いい物を買って愛着を持って長く使いたい、という当たり前の気持ちが、変な消費至上主義に論破されて、ハムスターが滑車を回すような浪費のサイクルに組み込まれてしまう。

そもそも、論破というのは、1つの価値観に凝り固まっているからこそ起こることだ。「デフレの元凶」という言葉は、戦時中の「非国民的」、全共闘世代の「ブルジョア的」、バブル期の「ダサい」と同様に、その価値観に染まった人にとっては究極のけなし言葉であり、しかもその価値観に染まってない人にとっては「なんじゃそりゃ。それがどうした」的に、けなされて腹を立てるどころかむしろ失笑を誘う言葉となる。こうした言葉が連発されるようになることが、1つの時代が終わりに近づいている証拠だ。

まとめ

あまり詳しくは述べなかった戦時中の国家全体主義的価値観から、仕事の価値観、消費の価値観と移り、今はつながりの価値観が「表の価値観」として語られる。そして、その1つ前の価値観が「裏の価値観」として、無意識のうちに通用している。時代が変わると、表の価値観が裏の価値観になり、新しい価値観が表にやってくる。

客観的価値観と主観的価値観が交互にやってきているのに気づいただろうか。国家の価値観と消費の価値観は、各人の心の中に価値を求める主観的価値観で、仕事の価値観とつながりの価値観が、心の外に価値を求める客観的価値観だ。主観と客観のどちらかが表、どちらかが裏となりながら、しかし全体が共存して、1つの価値観を形成する。

だから、前の価値観が否定されて新しい価値観に変わるとき、一時的に客観と主観のバランスが崩れて不安定になる。終戦でモノを失い、高度成長でココロを失って、バブル崩壊でまたモノを失った我々が今度失うのはココロだ。もちろん、それは本当に無くなるのではなく、新しく得るための過渡期に過ぎない。

とにかく、ここで述べたかったことをまとめよう。

  • ネット世代とは表に「つながり」、裏に「消費」の価値観を持つ世代だ。
  • 前のバブル世代とは、「仕事」の価値観を持っていないことが異なる。
  • ネット世代批判は、(本当はバブル時代のものである)消費に対する批判として現れる。
  • 消費の価値観が否定された後、新たな主観的価値観がつくられる。