ネット世代の心の闇を探る

現代社会の様々な特性が、若者の心をむしばんでいる。

善悪の判断がつかないということ

ネット世代の人には、善悪の判断が自分でつけられない人が多い。そもそも、 善悪とは何かということが分かっていないようだ。

彼らは、「善悪」とは法律で決められたルールのことだと思っている。それが そもそもの間違いなのである。

ルールに従う子供たち

道徳の授業を点数化しようなどという話がある。この背景には、ここで述べる ように若い世代の道徳感がお粗末なことがあるので、道徳の授業の強化自体は 良いことなのだが、少し前ならともかく、今では点数化してはいけない状態に までなっている。

それはなぜかというと、ネット世代の人は、すべてのことを点数で考えようと してしまうからだ。正解と不正解を暗記すればいいという考え方である。少な くとも道徳については、このような考え方では非常にマズい。

ルールから判断する

本来、道徳の授業では、そんなに簡単に善悪を割り切れないような話を題材に する。しかし最近では、「ルールに違反した方が悪い」で終わってしまう子供 が多い。今の子供たちは、「どんな理由があろうと法律を破った方が悪いと思 います」と平気で言う。杉原千畝さんがきっと天国で泣いている。

彼らは、既存のルールに従うことこそが「善」だと思ってしまっている。社会 への過剰適応の結果でもあり、ルールの必然性を理解できないためでもある。 彼らにとっては法律が絶対であり、法律を破った人にはまったく同情しない。 そして、そんな単純な善悪観ではいけないということも分かっていない。

最近、被害者の人権という言葉もよく聴くようになった。加害者の人権を考え られないようになってきていることの裏返しである。ネット世代は、加害者に 対して「ルールを破ったのだから悪い」としか考えられず、その人なりの事情 などを考えようとしない。そういう考えの人は、善悪を「善い」か「悪い」の どちらかでしか考えられず、量を判断することができない。加害者を絶対的な 悪と見てしまうから、加害者の人権について考えることができな い[1]

「確信犯」の誤用

特にネット世代に、「確信犯」という言葉の誤用が広がっている。確信犯とい う言葉を「ルールを意図的に破る悪い奴」という意味で使ってしまう誤用だ。

本来、確信犯とは善い事について言うものだ。最近は結構いい加減に使われて はいるが、少なくとも、本人は善いと思っているという前提がある。しかし、 ネット世代は,ルールを意図的に破ることが「善い」と判断される可能性のあ ることを理解できない。彼らにとって、ルールを破ることは絶対悪なのだ。こ れが、彼らにとっての「悪」という言葉の定義なのである。

彼らは、物事の道理に従って善悪を判断することができない。ただ、法律や明 文化されたルールに書いてあるどうかで判断することしかできない。ルールに 書いてあるかどうかだけを判断するのは、バカにでもできる。それは、善悪の 判断をルールに委ねてしまっているのであり、自分で善悪を判断できないとい うことなのだ。

ルールに従っていれば何をやってもいいか

ルールを読めない

ネット世代の人は、ルールに従っていれば何をやってもいいと思っている。自 分達が実はルールをよく知らないのだということも知らない。だから、ルール に外れた行いをしても、「どこにそんなルールがあるんだ」と文句を言う。

そういう事を言う人に限って、文章の読解能力がないので、ルールにちゃんと 書いてあることに対しても「ルールに書いていない」と言い張る。彼らは一般 化の能力に欠けているので、文章に書かれている一般的な内容を、自分が今置 かれている個別の状況に当てはめることができない。そしてさらに問題なこと には、この「一般化」という概念を理解できていないので、自分が一般化の能 力に欠けているということを意識することができない。

このように、善悪とかルールといったものに対する見方が根本的に違う人に今 までの概念を適用すると、困ったことになる。

故意性

「故意」とは、善悪について考える上では非常に重要なものだ。本来、その人 を「悪い」と非難できるのは、その人が故意に悪いことをした時だけである。 しかし、「ルールに従っていない=悪」と考えるネット世代には、この概念が 理解できないし、またこの概念を当てはめてもいけない。

「ごめんなさい。悪気はなかったんです」という言い訳がある。この言い訳は、 「故意」の概念を端的に示している。「悪気がない」ということは、その行為 が悪ではないということだ。だからこそ、これが言い訳として通用するのであ る。悪ではない行為に対しては、その人をそれ以上責めることはしない。弁償 して、それでおしまいだ。

しかし、「ルールに従っていれば何をやってもいい」と言ってはばからない人 には、「ごめんなさい。悪気はなかったんです」という言い訳を通してはいけ ない。「ルールに従っていれば何をやってもいい」と言うこと自体が「悪気」 だからだ。

やっていいとはどういうことか

「ルールに従っていれば何をやってもいい」という言葉のどこがおかしいのか。 それは、「やってもいい」という言葉の意味がはっきりしていない部分だ。 「やってもいい」とは、いったいどういう事なのだろうか。

「やってもいい」という言葉を、たとえば「警察に捕まらない」という意味 にとるなら、上記の言葉を逆に言えば「ルールに従っていなければ、警察に捕 まる」ということだ。確かにその通りだが、これは事実を述べているだけだ。 「警察に捕まったから何だ」と言われると、それ以上返す言葉がない。

逆に、「やってはいけない」とはどういう意味なのか。これは、将棋と対比し て考えてみると分かりやすい。将棋には、コマの動かし方というルールがある。 ルールに反する行動はできない。そして、ルール上許されている手に対して、 良い手や悪い手といった評価がある。本来、現実世界におけるルールとは、将 棋でいうところの手の評価基準にあたる。それに対して、将棋でいうところの ルールは、現実世界では世界法則にあたる。

現実世界における「やってはいけない行動」というのは、通常は将棋でいう 「悪い手」と同じ意味だ。それを将棋でいう「ルール」と勘違いしてしまうと、 おかしなことになってしまう。

行動の選択

世界法則と評価の大きな違いは、世界法則が客観的なものであるのに対して、 評価とは自分の主観的なものだということだ。行動は、自分で自由に選択する ことができる。それに対して、世界法則というのは自分の自由にはならないも のである。

たとえば、「電車に乗るにはお金を払う必要がある」というのは、世界法則ではない[2]。お金を払わずに乗ろうと思えば、(駅員に見つからなければ)乗れてしまう。しかし、「終電は12時」というのは世界法則だ。どんなに頑張っても、終電が行ってしまったのに電車に乗ることはできない。

ネット世代は、この「やろうと思えばできてしまうこと」と「自分ではできな いこと」の境目があいまいになってしまっている。本来、自分で決められるは ずの自分の行動を、自分では決められないものと認識してしまう。それは、結 局のところ「自己」が確立していないからである。「やろうと思う」ことがな いから、できないのである。

言葉の絶対化

ネット世代の人は、「電車に乗るにはお金を払う必要がある」と言われると、 その言葉に縛られて、「お金を払わずに改札を強引に通り抜けてしまう」とい う行動もできるということを忘れてしまう。この「他人の言葉に縛られる」と いうのが、ネット世代の特徴である。彼らは、言葉で与えられたルールを絶対 化し、そのルールに違反することは「できない」と決めつけてしまう。「言葉 を無視する」という選択肢をとることができない。

最近、いじめられているのに拒否できない子供も増えている。周囲の大人が 「いじめが嫌なら学校を休んだら?」と言っても、「学校には行かなくてはい けないから」とか「休んだら負け」と言って、学校に行き続ける。この時点で、 「いじめられに行くことを自分で選んだ」ことになるのだが、彼らにはその自 覚がない。彼らは、ロボットのようにルールを植え付けられ、そこから外れて 動くことができなくなってしまうのだ。(なお、より広く言えば、これは自分 を意識することができないということになるのだが、それについては別に述べ る)

できることとやっていいこと

「ルールに従っていれば何をやってもいい」と言う人は、いざ自分がルールを 破っていることが発覚すると、「知らなかった」とか「ルール違反の行為が実 行できてしまうのが悪い」と言い訳する。本当に「ルールに従っていれば何を やってもいい」という考えなのであれば、自分がルールに従っていなかったの であれば何も言い訳はできないはずだ。

彼らは、自分がルールを破ったことを他人のせいにしようとする。他人のせい というのはある意味正しい。彼らは自己を持たないから、すべてのことは他人 のせいなのである。

ネット世代の人は、ルール違反の行為を、「やってはいけない」ではなく「で きない」に変えてしまおうとする。つまり、ルールを主観的評価から客観的な 世界法則に変えてしまおうとする。彼らは、善悪を自分で判断できないので、 他人が逐一判断してくれるようでないと生きていけないのだ。

ルールを世界法則に組み込んでしまう過保護な社会のせいで、人はますます主 観的な評価ができなくなってしまう。「やってはいけない」と「できない」が 同じ意味になってしまって、自分で「これはやっていいのだろうか?」と考え る必要がなくなってしまう。

将棋で言えば、自分が負けた時に「きちんとルールに従っていたのになんで負 けなんだ」と文句を言うようなものだ。ルールに従うだけで、すべて自分に都 合の良いように事が運ぶと思ってしまっている。現実はそんなに甘いものじゃ ない。

客観的な価値観

行動を損得で考える

ネット世代の人は、行動を善悪ではなく損得で考えるクセがついている。彼ら は善悪を考えられないのである意味仕方がないのだが、「損得」という言葉も、 普通の人が使うイメージとは少し違う。「行動を損得で考える」というと、時 代劇に出てくる悪徳商人のようなイメージを持つが、彼らはそうしたイメージ が持つ人間臭さを持ち合わせていない。

彼らにとっての損得とは、行動選択の基準であり、これに従って行動を計算し 導き出すものだ。彼らは、行動選択は意思を伴わず、計算によって機械的に決 まるものだと思っている。そしてその計算式が「損得」なのである。

行動決定の自動化

ネット世代は、自分の中に価値基準を持つことができないから、外部にある明 確な価値基準を重要視する。その代表的なものが「お金」である。

それぞれの行動に対して、「いくら儲かるのか」ということだけを考える。こ れが拝金主義的に映るかもしれないが、悪徳商人のように、何が何でもお金が 欲しいわけではない。単に、その基準だと行動の判断に迷わないからというだ けのことである。彼らは、ものの価値を自分で見定めるのではなく、他人に値 段を付けて欲しいと思っている。常に他人の評価を必要とし、しかもそれが数 値化されている必要がある。

彼らは、目に見えない価値を切り捨て、数値化された目に見える価値だけを追 い求める。いかに効率的に点数を稼ぐかだけを考える。この「点数」は、お金 だったり、別の何かだったりすることもあるが、結果が目に見えて、自分のと る行動から計算できるような数値である。そして、その数値が最大になるよう な行動を「正しい行動」と呼び、それ以外はすべて「間違った行動」であると 考えるようになってしまう。

損得が行動選択の基準であるということ自体は、そんなに変ではない。もしそ れを「損得」という言葉の定義とするならば。ネット世代の人が特異なのは、 損得の判断基準となる価値観が自分のものではなく、客観的なものであるとい う点だ。本来、何が得で何が損なのかは、その人が自分の意思で決めるもので ある。だからこそ、行動選択には意思が伴うわけである。しかし、自分の意思 を持たない彼らは、あいまいさのない客観的な判断基準をもとに、ルールに違 反しない範囲で得を最大化する行動を計算によってはじき出す。だから、悪徳 商人のような人間臭さが伴わず、ロボットのような印象を受ける。

なぜルールに従っていれば何をやってもいいわけではないのか

善悪とはプロセスである

善悪の判断は、これが正解というものはない。と書くと勘違いされそうだが、 結果の問題ではなくプロセスの問題だと考えるといい。考える過程が正しけれ ば、結果がどうであれ、それは悪ではないのだ。

人間は全知全能ではないのだから、時として不完全な情報をもとに判断をしな くてはならないこともある。そんな時、判断が結果として間違うのは仕方がな い。ただ、不完全な情報からでも懸命に考えなくてはならない。「懸命に考え る」というプロセスを踏んでも正しい結果が出せなかったのであれば、それは 仕方がない。逆に、「ルールに従っていれば何をやってもいい」とだけ言って 自分の行動の善悪を自分で考えないのであれば、結果がどうであろうと、悪な のである。

行動が善か悪かという判断は、その行動の内容ではなく、その行動を決断する に至った思考過程で評価される。だから、善悪を行動の内容だけで評価すると いうことは、善悪とは何かということがまるで分かっていないということなの だ。

自分には知らないことがあるという前提

「自分には知らないことがある」という前提を持っているなら、「ルールに従っ ていれば何をやってもいい」というのを自分の行動原理にはできないはずだ。 なぜなら、自分はルールをすべて知っているわけではないのだから。

もちろん、これは「ルールを知らなくてもいい」というわけではない。知らな いことは調べ、分かるようにならなくてはならない。しかしそれには、「自分 は知らない」ということを知らなくてはならない。これは言うほど簡単なこと ではない。

自分が知らないものの存在は、論理的な思考だけでは出てこない、一種の感覚 的なものである。「自分はこの行為を禁止するルールがあることは知らないけ れど、これってやっちゃいけないことなんじゃなかろうか」という感覚である。 やっちゃいけないこと=ルールである人は、このように考えることはできない。

「ルールに従っていれば何をやってもいい」という考え方では、バカほど「何 をやってもいい」と思ってしまう。本当は、バカほどやっていいことが少なく なるべきなのに。

まとめ

善悪の判断が自分でできない人は、判断を「ルール」という明文化されたもの に頼る。しかし、基礎知識がまったくないまま本を読んでも理解できるわけが ない。ここが困ったところだ。

本来、善悪の判断なんてそう難しい問題ではない。いや、難しい問題はたくさ んあるんだけど、普通の人の普通の生活では、そういう難しい範囲まではあま り必要とされない。普通は、わざわざ「ルール」なるものを持ってこなくても、 小学生程度の善悪判断で事足りるはずだ。しかし、善悪の判断を「ルール」に 頼ればいいと思っているネット世代は、小学生程度の簡単な善悪判断ですら自 分の力でできず、「ルール」に頼ろうとする。

書いてある内容がまったく理解できないまま、「ルール」に書いてある文章を 一部だけ抜き出して、自分の状況に当てはめようとする。文章を理解できない ので、都合の良い部分だけを抜き出して、都合の良い解釈をする。

ネット世代の人には柔軟な思考力がないので、考えるための材料がすべて明示 されていて、誰でも同じ答えを出せるというところまでお膳立てしてやらない と、答えを出すことができない。そして、そうでない場合でも、「考えるため の材料はすべて明示されている」と勝手に考えて、勝手に答えを出してしまう。

一番大きな問題は、彼らがそれを「正しい」と思い込んでしまっていて、自分 の間違いに気がつかないところである。



  1. なぜ被害者の人権についてはあまり考えなくてもいいのか。そんなものは、考えるまでもなくあるに決まっているからである。加害者という難しい立場の人だからこそ、考える必要があるのだ。

  2. 言われて気がついたのだが、自動改札の普及によって、今の人にとっては「電車に乗るにはお金を払う必要がある」ということも世界法則になってしまっているようだ。キセル乗車という言葉も今の子は知らないのかもしれないな。私はようやく近所の無人駅に自動改札ができたような田舎に住んでいるので、気がつかなかったよ。