ネット世代の心の闇を探る

現代社会の様々な特性が、若者の心をむしばんでいる。

承認を求める

ネット世代の人は、他人による承認を求める傾向にある。自己が確立していな いので、自分で自分を認めることができず、他人に認めてもらえないとやって いけない。

しかし、この「承認を求める」ということ自体が、ストレートなやり方ではな くなってきている。自分で自分を認めることができない人は、自分は他人から 認められるような存在ではないと思っている。そして、それにもかかわらず、 他人からの承認を求めるわけだ。だから、ストレートな手段では目的を達成で きない。

生への執着心

生きていてはいけないか

ネット世代の人は、「生きる」ことすら何かの条件が必要だと考えている。た とえば、「社会に貢献しないような人は生きていてはいけない」とか「ルール を守らない人間は生きていてはいけない」といった考え方だ。

普通の人はむしろ、「自分が生きていく」ということを前提として、それを中 心にものを考える。「盗みをしなくちゃ生きていけないんだから仕方ないだろ」 というように。そういう人に「生きていてはいけない」と言っても、「そんな の俺の知ったことではない」で終わりだ。

念のため言っておくが、これは「盗みをはたらくのも自由」というような自分 勝手な論理とはまた違う。たいていの人にとっては「盗みをしなくちゃ生きて いけない」というのは間違いだから、こんな言い訳は成り立たないというだけ だ。もし本当に盗みをしなくては生きていけないのであれば、それは仕方ない。 盗んで捕まって刑務所にぶち込まれて臭い飯を食うしかない。そこに「良い」 とか「悪い」といった判断の入る余地はなく、文字通り「仕方ない」のである。

普通の人間、「生きる」ことに対して、何を言われようと全力を尽くす。他人 にいくら「お前は生きていてはいけない」と言われても、「死ねと言われて死 ぬバカはいねーよ」と意に介さない。しかし、ネット世代の人は、そういう状 況に対しても、何とかして「生きていてはいけないということはない」という ことを立証しようとする。立証しようとするところが、彼らの立場の危ういと ころだ。もし立証できなければ、自ら死を選んでしまうかもしれない。

「育ててもらっている」という意識

ネット世代の人は、自分が「生きる」ことに対して、負い目を感じている。特 に子供のうちに、「育ててもらっている」ことに負い目を感じている。この 「負い目」が、彼らの大きな負担になっている。そのため、親に反抗的な態度 をとることができなくなっている。

たとえば、「自分の問題を素直に親に話すことができない」という現象に、意 識の差がある。昔なら「俺はもうそんなガキじゃねえ」とか「親に話したって うるさく怒鳴られるだけで解決にならない」といった、どちらかといえば親に 対する否定的な考えがあって親に話せないのだが、ネット世代の人は違う。 「親に話してこれ以上心配をかけさせられない」とか「親も仕事が大変だから 手間をかけさせられない」といった、親に対する肯定的な気持があって本当の ことを話せない。子供のくせに、親に対して気をつかっているのだ。

見捨てられ不安のある子供は、親に対して気をつかう。子供はもともと、親に 育児放棄されたら生きていけない弱い存在だ。しかし、普通は「親は子供を見 捨てることはしない」という強い信頼感があるから、平気で親子喧嘩をするこ とができる。この信頼感のない子供は、親のご機嫌を損ねないように、必死に 顔色をうかがわないといけなくなってしまう。

最近、友達のような親が増えているというが、このことが関係するのかもしれ ない。親が絶対的に上の立場ではなく、自分と同等の立場だと認識してしまう と、ギブアンドテイクの関係が当然だと思ってしまう。この状況の興味深いと ころは、親が子供との距離をなくそうと思えば思うほど逆効果だということだ。 親が「お前の言うことを真剣に聞いててあげよう」というメッセージを出せば 出すほど、子供にとってはそれが重荷になって、かえって離れていってしまう。

自分の価値と生きる権利

ネット世代の人は、「生きる」ということが、自分の価値を社会に提供するこ とによって得られるものだと思っている。言い替えると、価値のない人間は生 きることができないと思ってしまっている。

彼らは、自分の生きる権利さえ、誰かに認めてもらわなくてはならないと思っ ている。だから、必死になって自分の価値をアピールし、誰かに認めてもらお うとする。そして、自分の価値を誰にも認められないと、本当に死んでしまう ことすらある。

「生きる権利」に限らず、彼らは人権というものを、人間が生まれながらにし て必ず持っているものではなく、何らかのコストを払うことによって得られる ものだと思っている。だから、コストを払わない人間には人権も存在しないと 思ってしまう。

生を肯定できない

自分が生きていることに理由はいらず、自分が生き続けることにも理由はいら ない。誰が何と言おうと、自分が生きたいと思うのなら、生きるためには何で もする。ネット世代には、こうした考え方が欠けている。

ネット世代の人には、ギブアンドテイクの考え方がしみついている。生きるこ とに対して対価が必要で、対価が払えなくなったら生きていくことはできない と考えてしまう。「対価?そんなもん知るか。相手を殺してでも奪い取ってや る」と考えることができない。

彼らにとって、「生きる」ということは、なんとなく達成されることではなく、 必死になってその対価を払い続けないといけないことなのである。何もしない でいては、生きることさえ許されないと思ってしまう。

ここで注目すべきは、「許されない」という感覚だ。いったい「許される」と は何なのか。誰に許されるのか。そこについて少し詳しく見ていくことにしよ う。

「悪」と「許されない」の違い

「悪い」のずれ

ネット世代の人は、他人に「悪い」と言われることを嫌う。まあ確かに「悪い」 と言われてうれしい人はいないが、彼らの行動を理解するには、「悪い」とい う言葉の意味が違うということを理解しなくてはならない。

たとえば、「お前は頭が悪い」と言われると、彼らは「頭が悪くて何が悪い?」 と言い返す。「何が悪い?」って、「頭が悪い」と最初から言ってるじゃない かと思うのだが、「悪い」という言葉を「善悪」の「悪」だととらえると、彼 らの言いたいことがわかってくる。

彼らにとって、「頭が悪い」ということは、善悪でいう「悪」に通じるかもし れない恐しい評価なのだ。だからこそ、必死になってそれを否定する。極端に 言えば、「頭が悪いような無価値な人間は生存を許されない」という恐怖と常 に戦っている。だから、「頭が悪い」と言われると、「頭が悪いからといって 生きることを許されないわけじゃないぞ」と言い返すのだ。ここが、頭が悪い ことと人格的な「悪」を結びつけることをしない普通の人にとっては奇妙に思 える。

つまり、彼らは自分の価値が自分の生存に直結する、とても殺伐とした世界に 生きている。だから、自分の価値を下げる発言に敏感なのだ。

「悪」とは

彼らは、「悪い」という言葉を、「許されない」という言葉に変換して考える。 そして、「許されない」という言葉に対して反発する。「勉強できなくて何が 悪い」「分からなくて何が悪い」「太っていて何が悪い」などなど。

普通は、「悪い」という言葉は、特定の物差しがあってそれに対してどうなの かを示す言葉だ。しかし、彼らは人間を評価するただ一つの物差しが存在する と思っているので、何かを言われるとその「自らの評価」に対して言われた言 葉だと解釈してしまう。「お前は○○が悪い」と言われると、○○を勝手に抜 いてしまって「お前は悪い」と言われたものと思ってしまう。

しかし、普通に「お前は悪い奴だ」と言うこともある。この場合の「悪い」は、 物差しが省略されているのではなく、あえて言えばその人の人格に対する評価 である。これは「人間を一元的に評価する」ことではないのか?

本来の意味でいう、人格的な「悪」は、重大な問題ではあるが、本人が悩むよ うな問題ではない。本人にとっては、「悪いことはやめよう」と思うだけで済 む、とても解決が簡単な問題だからだ。逆に、本人が思うだけでは直らない問 題は、本来の「悪」ではない。本来の「悪」については、「許されない」と形 容することもある。なぜ許されないのかというと、簡単に直るのに直そうとし ないからだ。

詳しくは「善悪の判断がつかないということ」で 述べたが、ネット世代は善悪の概念を正しくとらえられず、「ルールに沿って いるかどうか」という概念だと思ってしまっている。ここに、「価値のない人 間は生きる資格がない」というルールを適用すると、「価値がないのに生きて いる=悪」になってしまうわけだ。

簡単だからこそ許されない

本来、「悪」というのは本人がその気になりさえすればとても解決が簡単な問 題である。だからこそ、それを解決しようとしない人を非難する。しかし、ネッ ト世代の人にとっては、「価値がないこと」が「悪」である。「価値がない」 ことは、簡単には解決できない。

彼らは、たとえば「頭が良くなるように努力しろ」と言われると、「頭が悪い」 こと、すなわち「価値がない」ことを非難され、「許されない」と言われてい るのだと思ってしまう。そして、「それの何が悪い」と開き直ってしまう。そ ういう態度に対して、大人は「そうやって開き直るのが一番悪い」と返す。

彼らは、大人が言う「開き直り」という言葉を、自分がやった「頭が良い=価 値」という等式の否定に対するものだと考えてしまう。つまり、「お前は頭の 良し悪しだけが人間の価値じゃないなんて言うけど、話を勝手にずらすな。人 間の価値は頭の良し悪しで決まるんだよ」と言っているものと解釈してしまう。

もちろん、大人の言う「開き直り」とは、「努力する」ということを放棄し て、「良くない状態」を自分勝手に肯定して何もしないことを言う。「努力し ようと思う」ことは自分がその気になるだけでできることなのに、それをしな いから「一番悪い」と言っているのだ。[1]

相対評価

ネット世代は、「ゆとり世代」とも呼ばれることがあるが、面白いことに、彼 らは絶対評価ではなく、他人に対しての相対的な評価を気にする。「相対的な 評価をするのはやめよう」というのがゆとり教育だったはずなのに。

なぜ相対評価になるのかというと、絶対評価ができないからである。いや、 「絶対評価」という言葉を出すと、勘違いされそうだ。彼らにとって、評価と は「点数を出す」ことではなく、その点数を基に「○か×かに振り分ける」こ となのである。だから、絶対評価というと「○か×かに振り分ける基準」を絶 対的に定めることだと思ってしまうだろう。

もともと、相対評価とは「平均と比べて点数を出す」方法である。だから、こ の場合、点数を出すと必ず「平均より上」か「平均より下」かで振り分けられ てしまう。つまり、相対評価であれば、少なくとも平均という「基準」が生ま れるわけだ。この「基準」という考え方がないのが、絶対評価なのである。

「悪い」の境目

ネット世代の人は、様々な評価を、程度問題で処理できず、1か0かのデジタル な値に変換しようとする。たとえば、「頭の悪さ」を、「ちょっと悪い」とか 「とても悪い」という程度の問題として受け取ることができず、「この点数を 取れない人のことを『頭が悪い』と呼ぶ」というような線引きがあると思って しまう。

ここに、今まで述べた「生きる権利としての人間の価値」という概念が加わる と、大変なことになる。つまり、「頭が悪い」と判定されると、自分の生きる 権利の後立てを一つ失うわけだ。だから、「頭が悪い」と言われないようにす ることに必死になる。

彼らは、他人から評価を受けると、その評価が及第点なのかどうかを気にする。 「お前は頭が悪い」という言葉を、「頭の良さ分野での及第点に達していない」 という意味に受け取る。そして、自分の「頭の良さ」ではなく、及第点の方に 着目する。

それで、能力を他人と比較するようになる。具体的には、「自分はたしかに頭 が悪いかもしれないが、他にも自分くらい頭の悪い人はいっぱいいる」と言い 返す。これによって彼らは「自分の頭の悪さは落第レベルじゃない」と主張す るのだが、普通の人は「お前個人の話をしているのに、なんで他の人が関係す るんだ?」と疑問に思う。

何もしなくていいということ

この考え方が、他人にとっては「下ばっかり見ている」ように見える。本人に とっては、とにかく自分が「生存を許される最低限度」に達しているかどうか が気になっていて、その保証を求めているのだ。

そして逆に、自分がその最低限度に達しているならば、それ以上を求めること はしない。彼らにとって、「許されるレベルに達していない」と「しなければ ならない」義務が生じる。そして、それ以上のことは「しなくてもいい」ので ある。

彼らにとっては、「何もしなくていい状態」が目標なのである。普通の人に とっては、そこがスタート地点だというのに。普通の人は、彼らが「何もしな くていい状態」を目指すのを見て、スタート地点にわざわざ戻ろうとしている ように見える。しかし、彼らは「自分はまだスタート地点にすらたどりついて いない」と考えているのだ。それが、生まれた時点がスタート地点だと思って いる普通の人との違いだ。

まとめ

ネット世代の人は、「生きていく」ことが何か特別な資格のいることだと思っ てしまっている。そして、その「資格」を自分が確実に持っているとは思って いない。他人に「お前には生きる資格がない」と言われると、とても不安にな る。

彼らは、世の中にモヒカンの屈強な戦士がいて、いつ自分が汚物と認定されて そいつに消毒されるのかとおびえながら暮らしている。そして、その態度によっ て「悪」という評価を受け、それがさらにおびえにつながるという悪循環を繰 り返している。「悪」と評価されるのは、自分が汚物だからなのではなく、あ りもしない影におびえているからなのだ。



  1. おそらく、ネット世代の人は、「努力しようと思う」ことが自分がその気 になるだけでできるわけではないと主張するだろう。ここには、ネット世代特 有の完璧主義があり、記号による思考がベースにある。簡潔に言えば、彼らは 「努力しろ」と言われると、星飛雄馬みたいに毎日血のにじむような努力をし ろと言われたものと解釈してしまうのだ。