ネット世代の心の闇を探る

現代社会の様々な特性が、若者の心をむしばんでいる。

セカイ系とは何か

「セカイ系」というのは、その手の小説やマンガを知っている人には感覚的に わかる概念であるが、そうでない人にはなかなか説明しづらい。そのせいで、 人によって説明がけっこうバラバラだったりする。知っている人が見れば、そ れぞれの説明が同じ対象を別の角度から言い表しているものとわかるのだが、 知らない人にとっては分かりにくい。

ここでは、困難は承知の上で、セカイ系とは何であるか、できるだけわかりや すい説明を試みたい。

セカイ系は「世界を救う物語」ではない

アニメやマンガなどでは、「世界を救う」物語が悪い意味で非常によく目につ く。そのため、セカイ系をこうした物語を指すものだと思ってしまっている人 もいる。半分は当たっているが、半分は外れている。

確かに、「世界を救う物語」にはセカイ系が多い。しかし、そうでないものも 多い。「世界を救うからセカイ系」というのは間違いであるということをまず 認識してほしい。

今さらセカイ系?

「セカイ系」という言葉は使い古されて、もはやわざわざ論ずるべきことでは ないような雰囲気もある。「世界を救う」話自体が最近ではもう少なくなって、 もうセカイ系の人はほとんどいなくなってしまったのだと思っている人もいる。

しかしそれは間違いだ。話に「セカイ」が出てくるからセカイ系なのではない。 これからの話を見ていけば、セカイ系が絶滅したのではなく、むしろセカイ系 があまりに当たり前になってしまって、意識すらされなくなってしまったのだ ということがわかる。

なぜセカイ系が「世界を救う話」に多くて、今では少なくなったか。それは、 「世界を救う話」を描くのはとても難しいからだ。「世界を救う」系の小説 を書くと下手さがモロに出るから、「世界を救う」話にセカイ系が目立つのだ。 普通の恋愛物にしておけば、「世界の中心で愛を叫ぶ」程度の批判で済むのに。

なぜセカイ系の人が「世界を救う話」をわざわざ書くのかというと、それしか 知らなかったからだ。そういう話しか読んだことがなかったから、そういう話 を書いたというだけだ。最近では、彼らが「世界を救う話」以外のものを読む ことが増えたから、純粋な「世界を救う話」は減ってきたのだ。

セカイ系をテーマにした物語とセカイ系の物語

もう一つ、よく間違われるのが、セカイ系をテーマにした小説と、セカイ系の 小説の違いだ。セカイ系をテーマにした小説は、セカイ系ではない。「セカイ 系」と「セカイ系ではないもの」を両方とも知っている人は、「セカイ系になっ てしまった人」を描くことができる。本当のセカイ系の人は、人を描写すると 自然とセカイ系になってしまう。この違いは大きい。

押井守の諸作品や映画「マトリックス」などがいい例だ。セカイ系をテーマに していて、話の流れはまさにセカイ系の典型だ。しかし、こうした作品には、 セカイ系に対する風刺や皮肉が込められている。セカイ系の人たちは、こうし た風刺や皮肉を読み取ることができず、単純に「セカイ系」でこうした作品を くくってしまう。[1]

セカイ系とは何か

身近なこととセカイが直結する

セカイ系の説明として、よく「きみとぼく」と「セカイ」が直結するという言い 方がなされる。本来は、「きみとぼく」と「セカイ」の間に学校とか職場とか地 域社会とか国といった様々な「社会」が存在するのだが、そういった社会がすっ 飛ばされてしまっているところに、セカイ系の特徴がある。

「きみとぼく」というのは何かというと、自分のよく知っている領域、自分が 今見ている領域のことだ。その外がすぐ「セカイ」になってしまう。すっ飛ば された「社会」に含まれている認識とは、自分と同じようなたくさんの人がこ の世界には存在するという認識だ。物語には出てこないたくさんの人の行動に よってその社会が成り立っているという認識が、セカイ系の人にはない。

セカイ系の人には、自分が良く知らないことや、自分には見えていないものに ついて考える能力がない。だから、「自分の見えている範囲」=「セカイ」に なってしまうのだ。

一般人を描けない

セカイ系の人は、主人公の周りの身近な話だけを書いている分にはいいが、社 会問題や世界規模の出来事のように、多くの人の行動が絡んでくる大規模なこ とを書こうとすると、とたんに破綻する。一般人を描けないからだ。ここで言 う「一般人」とは、キャラクター紹介の欄に出てこない、街の人たちのことで ある。

セカイ系の物語には、こうしたエキストラの存在感が希薄である。登場人物た ち以外の街の人はみな一様に無気力かつ無関心で、利己的に行動し、何も事が 起きないことを望んでいる(多くの場合、主人公も無気力無関心なのだが)。こ の姿が、とても「冷たく」感じられる。一般人が本当にこんな奴らばかりだっ たら到底社会が成り立っていくはずはない、と思えるほどひどいことが多い。

セカイ系の人は、キャラクターに何かエキセントリックな特徴をつけないと、 人をうまく描き分けることができない。明確になっていないものを考えること ができないからである。言い換えると、様々な種類の「ふつう」を描くことが できないのだ。

世界の広がり

セカイ系は、「世界の広がり」を感じる能力が不足している。世界の広がりと はつまり、自分が今見ていない範囲にも世界が広がっているということだ。セ カイ系の人は、壮大なバックグラウンドを前提としながら、実際は狭い範囲の ことしか描けない。「銀河をまたにかけた冒険」と言いつつやっていることは 単なる痴話喧嘩だったり、「人間とは?意識とは?」と問いかけつつやってい ることは「ボクにもこんな彼女欲しい」だったりする。ここが、単なる痴話喧 嘩に人生の悲哀を盛り込むことができる、まともな小説との違いだ。

これは、物語が世界のあちこちを舞台にしなくてはならないというわけではな い。むしろ、そう考えてしまう人はセカイ系だ。実際に見えるもの以外に意識 を向けることができず、明示されていないもののことを考えることができない。 セカイ系の小説は、説明過多になる傾向がある。説明をしないで「ほのめかす」 ことができないからだ(書き手の能力不足のこともあれば、読み手にそれを期 待できないからということもある)。書いてあることしか読み取れないので、 書いてないことの存在を感じさせることができない。

セカイ系と恋愛

セカイ系と恋愛ものは非常に相性がいい。なぜなら、恋愛とはごくプライベー トな出来事だからだ。「きみとぼく」だけ描けばよくて、その他の人を描く必 要がない。

そうそう、前にも「きみとぼく」と書いたが、これはセカイ系の一つの特徴だ。 人間関係を、常に「きみ」と「ぼく」の2人の関係に分解して考える。それ以 上の人数をまとめて扱うことが苦手なのだ。ネット世代の頭の中には、「自分 が相手に合わせる」か「相手が自分に合わせる」かのどちらかしかない。双方 が歩み寄るという概念がない。だから、3人以上の関係をうまく考えることが できないのだ。

ネット世代の恋愛観については別のところでまとめて述べることにするが、セ カイ系との関連で特筆すべきことがある。相手を好きな理由が「自分に好意を 持ってくれるから」や「相手が自分に合わせてくれるから」であるということ だ。純粋に相手が好きなのではなく、本当は自分が好きなのであり、相手がど ういう人間なのかということは実はどうでもいい。

セカイ系は実は「きみとぼく」対「セカイ」ではなく、「ぼく」対「セカイ」 になってしまっている。他人の入る余地がどこにもないのである。

セカイ系の人の意識

セカイ系の意識がモロに見えてくるのが、「世界を救う」タイプのセカイ系で ある。このタイプのセカイ系物語を通して、セカイ系の人の意識を探ってみよ う。

「セカイを押し付けられる」物語

セカイ系の物語では、自分の個人的なことが世界の運命と直結してしまってい る。そこでは、世界の運命と自分の個人的な感情が同列に並べられてしまう。 こう書けば、思い当たるフシがたくさんあるだろう。

そして、これは願望というよりむしろ、そうなってしまっているという現状認 識として語られる。本当は、セカイなどとは無関係でいたいのだ。無理やりセ カイを押し付けてくる人を拒絶し、自分の個人的な感情を守ろうとする。セカ イ系の物語では、主人公は変化を嫌い、平凡な日常がダラダラと続くことを望 む。

「特殊な力などいらない。普通の人になりたい」と叫ぶあたりが、能力のない 我々一般人にはぜいたくに感じるところだ。しかし、これには理由がある。

セカイより自分を選ぶ

世界を救うセカイ系の話の典型が、「世界を救う」と「恋人を救う」の二者択 一を迫られ、恋人をとる話だ。面白いことに、セカイ系の話では、これがプラ スとプラスの葛藤ではなく、マイナスとプラスの葛藤になっている。つまり、 「世界を救いたい。でも恋人も救いたい」ではなく、「世界を救わなければな らない。でも本当は恋人を救いたい」になっている。

本人は、本当は世界など救いたくはない。なのに、「世界を救わなければなら ない」ということにされてしまっている。そんな時に、「そういうことにされ てしまっている」嫌なことをやめて、自分のやりたい事をやるというのだ。ま るで宿題をやらずに遊びに出て行ってしまう子供のようだ。このあたり、 中二病というキーワードとも大きく関連する。ま た、「やらなければならない」ということに対して過剰に反応するのも、ネッ ト世代の特徴である。

一般には、自分の個人的なことより社会的なことを選ぶ方が、より良い結論で あるとされている。この点でセカイ系は逆である。セカイ系には「社会」が見 えていないから、「社会的なこと」というのは偽物であり、本人の単なる勘違 いであると思っている。「社会」などという、ありもしない事を優先するのは バカだと思っている。

自己が侵食される

セカイ系のファンタジーやSFで出てくる「特殊な能力」のほとんどは、自己意 識を失う危険が伴う。「化け物になってしまう」とか、「意識が武器に取り込 まれてしまう」とか。あるいは、人造人間だったりロボットだったりすること もある。こうした存在は、最初から「自己意識」 が存在しないか、あっても確かなものではない。考えてみると、とても興味深 いことだ。

セカイ系の人にとって、能力とは「やりたくないことを押し付けられるやっか いな存在」であり、「自己意識を失ってしまうもの」である。セカイ系ファン タジーの(見せかけの)主人公は、能力を持つと同時に、外からの干渉によって 「自分が自分でなくなってしまう」恐怖と常に闘っている。

傍観者の立場

普通の小説などでは、何らかの行動を起こす人を「主人公」に据えている。し かし、セカイ系では逆で、主人公は基本的に何もしない。主人公は無個性で無 能であり、エキセントリックで個性的な周囲の人にただ引きずられ、それに対 して感想をぶつぶつ言っているだけである。そして、読者はそういう主人公に 対して感情移入をするように作られている。

普通の小説では、「世界と恋人の二者択一を迫られる」という葛藤を、読者が 一緒に味わうように作ってある。しかし、セカイ系の小説はそうではない。読 者は、葛藤している主人公を眺める恋人の立場である。つまり、この話は、読 者にとっては「世界よりあなたを選んであげる」と主人公に言ってもらうとい うことなのである。

常に「行動をする側」ではなく「行動をされる側」に自分を置いて考えるのが、 ネット世代の特徴である。一言で言えば、受動 的なのである。自分が傍観者の立場であるということは、 萌えでも良く言及される。そして、彼らは、傍観者 であるということが客観的であるということ だと思ってしまっている。

評価者

では、見せかけではない本当の主人公は何をしているのか。彼らは、事態を傍 観し、「評価」を下す。「君は僕にとって大切な人だ」と言うことで、相手の 「自分が自分でなくなってしまう恐怖」を柔らげようとする。セカイ系の見せ かけの主人公は、自分で自分を評価することができない。「自分で自分を評価 する」というのは、一言で言えば「自信」だ。

セカイ系の物語では、主人公側の登場人物たちはみな自信がない。それに対し て、主人公の敵にあたる人達は多くの場合自信たっぷりである。しかし、物語 が進むにつれて、その「自信」の基盤がとても幼稚なところから来ているとい うことが明らかになる。セカイ系の人にとっては、本当の意味での自信は幼稚 であり、偽物なのである。そしてそれは、彼らが本当の意味での「自信」を理 解できないからである。

彼らは、評価される側ではなく、評価する側に回ろうとする。評価される側に 立つと、「自己が侵食される」ように感じる。だから、評価されることを恐れ、 傍観者に回ろうとする。

この構図は、生産者と消費者という構図と同じだ。ネット世代の人は、自分達 が消費者であり、それが生産者より立場が上だと思ってしまっている。生産者 が作る様々な商品は、消費者が評価をしなければただのクズであって、「自分 たちが消費をしてあげているからこそ生産できるんだ。ありがたいと思え」と 思っている。

本来、評価には客観性がある。良い物だから、皆が「良い物だ」と言うのであ る。しかし、ネット世代の人たちは客観性について考える力が衰えてしまって いて、「皆が良いと言っている」から良い物だと思ってしまう。そう思ってし まうと、評価は「物」ではなく「評価をする人」が生み出すことになってしま う。

まとめ

セカイ系とは、「自分の認識範囲」=「世界」になってしまっている人のこと だ。こういう人は、自分の認識範囲が変化するとすぐ、自分の持っている世界 観が揺らいでしまう。自分の認識範囲に余裕スペースがないのである。だから、 自分の認識範囲を広げていくことがとても困難である。

彼らは、自分には見えないことについて考えることができず、「ない」と断言 してしまう。そのため、他人も自分と同じような人間であると見ることができ ない。他人の心の中は「見えない」からである。しかし、そう思いながら、無 意識のうちに「他人も自分と同じような人間である」という仮定を置いている。 ここが、普通の人とは違うところだ。普通の人は、「人間は皆同じだ」と思っ ているが、自分の認識に柔軟性があるので、たいていの事について「俺も同じ だ」と思う。

彼らは、傍観者の立場に立って、外の事柄に対して評価を下す。そして、「評 価する」という行為を肯定的に評価することで、自分への評価を保っている。 彼らは、評価する立場には立っても、評価される立場には立とうとしない。他 人の評価をうまく受け止め、自分の認識を広げていくことができないからであ る。他人からの評価に対して、自分が自分でなくなってしまうような感覚を覚 える。これは、自我が未発達だからである。



  1. 映画「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」と「マトリックス」は、 セカイ系を考える上では非常によい題材である。 ↩︎