ネット世代の心の闇を探る

現代社会の様々な特性が、若者の心をむしばんでいる。

萌えとは何か

「萌え」とは何か。これもまた難しい話である。現実 と虚構の区別でも同じような内容のことを少し述べたが、ここでは「萌え」 についてまとめてみたい。

萌えと現実逃避

ロリコンアニメやエロゲーを見るようなオタクを「犯罪者予備軍」と呼ぶ人も いる一方、当事者は「そんなことはない。事実はまるっきり正反対だ」と主張 する。いったいどちらが正しいのだろうか。

結論から言うと、どちらも正しい。両者は、実は正反対のことを言っているの ではないのである。

萌えは犯罪者予備軍か

ロリコンアニメやエロゲー反対派の中には、こうしたものを見ることで、そこ で描かれていることを実際にやりたくなると主張する人がいる。あるいは、銃 で人をバンバン撃ち殺すようなゲームをやることで、現実世界でそういうこと をやりたくなるのが問題だと主張する。これは、間違いである。

実際はむしろその反対で、オタクは現実にはこういうことを一番やりそうにな い人達である。彼らは規律意識が高く、社会のルールに違反するようなことは絶対にやろうとしない。(本当はそこが問題なのだが)

萌えアニメを見るからオタクになるのではない。因果関係が逆だ。オタクだか ら萌えアニメを見るのである。そう考えると、事実関係ははっきりする。

「萌え」はガス抜きである

彼らが主張するように、萌えアニメを見ているようなオタクは、現実世界で問 題を起こすことはない。なぜなら、彼らの願望はアニメで充足されるからであ る。では、オタクは最も犯罪を起こしにくい人たちなのだから、オタクを犯罪 者予備軍扱いするのは不当な言いがかりなのだろうか。いや、そうでもない。 これは、「犯罪者予備軍」という言葉の意味の問題だ。

彼らは、彼らの内にたまっている鬱屈した感情を、萌えによってなんとか抑え 込んでいる。だから、萌えがなければ、その鬱屈した感情は暴発し、犯罪行為 を含む反社会的行為へとエスカレートするだろう。このことを、普通の人は 「犯罪者予備軍」と言うのである。

「萌えがなければ犯罪を起こす」という主張と、「萌えがあるから犯罪を起こ さない」という主張は、正反対どころか、似通った主張である。

現実離れした空想

普通の人は、萌えアニメの設定がいかにも夢物語で現実離れしていることを問 題にする。しかしそこで安直に「オタクたちはこんな夢物語を本気で信じてい るのか」と思ってはいけない。そもそも、物語が現実に沿っているという前提 を彼らは持っていないのである。

オタクたちは、萌えアニメが現実でないことは良く知っている。いや、それど ころか、現実でないからこそ良いのだと言う。だから、現実離れした設定の方 をかえって好む。バカげた設定の方が、「これはひょっとして現実なのではな いか」と思わずに済むからである。

オタクたちの現実感は、現実離れしたものを受け入れてしまっている方向に歪 んでいるのではなく、むしろ逆に、現実を受け入れない方向、現実に起こって いることでさえ、「夢物語だ」と切り捨ててしまう方向に歪んでしまっている。 彼らにとって、普通の男女が普通に恋愛をする物語は耐えられない。なぜなら、 自分達はその「普通の男女」からはみ出してしまっているということを痛感さ せられるからだ。だから、こういう物語を「メディアが作り出した虚構だ」と 思い込むことで、問題を回避する。

この思い込みは、半分当たっている。彼らが恋愛だと思い込んでいるものは、 メディアが作り出した虚構でしかない。彼らは、現実を見ようとしないまま、 「こんなの虚構だ」とだけ言っているのである。

感情移入しない物語

普通の物語は、そこに登場する人物の誰か(もしくは複数)に感情移入して、物 語世界の中に自分が入り込んで読み進むように作ってある。それに対して「萌 え」では、その登場人物に感情移入することなく、そこで語られる出来事を外 から眺めて楽しむように作られている[1]

最近のライトノベルには、作者の視点や、その世界には本来ないはずものを使っ た形容が多い。本来、小説では、こうしたものは「物語の中に入ったつもりに なって読み進める」という読み手の妨げになる。たとえば時代劇なら、たとえ 形容であってもカタカナ語は排除する。「信長が両手をメガホン代わりにして 大きな声で怒鳴った」なんて描写があると、戦国時代にいるつもりだった読者 が現実世界に引き戻されてしまう。最近のライトノベルはこれを逆手にとって、 従来はタブーとされていた形容をわざと盛り込み、積極的に物語から読者を引 き離すように、物語が虚構であることを意識させるようにしている。

現実でないから安心できる

「萌え」では、力や能力のある者は読者の感情移入の対象にならない。なぜな ら、ネット世代は自己肯定感に乏しく、ヒーローやヒロインに対して妬みの感 情を持つからだ。「自分はヒーローにはなれない」と最初からあきらめてしまっ ている。ヒーローが活躍するような物語を読んでも自分がみじめになるだけだ から、そうした物語が嫌いなのだ。

「萌え」では、作品世界は現実世界のアンチテーゼとして機能する。つまり、 「こんな世界は現実には存在しないんだぞ」と言うためのものである。だから こそ、わざわざ虚構であることを読者に意識させるのである。

ネット世代は、何かを見せられると、全部を現実として受け入れてしまうか、 あるいは全部を虚構だとしてはねのけてしまうかのどちらかの対応しかとれな い。内容を自分で検討して、虚構の部分と現実の部分をより分けることができ ない。だからこそ、現実のような虚構が嫌いなのだ。そういうものを見せられ ると、どこまでがホントでどこからがウソなのかを考えなくてはならないから だ。最初から「全部ウソです」と断ってあるものでないと、安心して見ること ができない。

現実逃避

彼らは、虚構を「全部間違っている」と受け取る。本来、「全部ウソです」と いうのは、「間違っているかもしれないし、間違っていないかもしれない」と いうだけのものなのだが、それを彼らは勝手に「間違っている」と受け取るわ けだ。そのせいで、現実にもある要素ですら「現実はそうではない」と受け取っ てしまう。

萌えアニメを見ることが「現実逃避」ととらえられるのは、こういう事情があっ てのことだ。萌えアニメを見て、「よーし、僕も主人公みたいにがんばってモ テモテになるぞ」と頑張るのなら、萌えアニメもまた有益だ。しかし実際には、 どんなバカでもそう思えないようにわざと構成されている。そういうものを見 て、「メディアが言うことを真面目に受け取るのはバカだ」という結論を出し てしまう。

つまり、萌えアニメを見ることは、「現実は○○ではない」を積み重ねること になる。それを積み重ねることで、現実を否定し、すべてのことを「実はウソ」 と決めつけるようになってしまう。萌えアニメでは、決して「現実は○○であ る」は得られない。だから、現実逃避だと言われるのである。

「実はウソ」と言うことに慣れてしまうと、本当のことをつかみ取ることがで きなくなってしまう。そこに気づかないまま否定ばかりをするから、問題なの である。

受動性

「萌え」に関するもう一つの特徴に、受動性がある。「萌え」では、現実を自 分で切り開いていくことより、現実を受け入れて自分をそこに合わせていくこ とに重点が置かれる。

たとえば、自分の前に突然、小さいころ親が勝手に決めた許嫁が現れる。普通 の話なら、たいていは許婚を拒否して自分の好きな相手と駆け落ちするという ようなシナリオになるのだが、萌えの場合は逆に、勝手に決められた許婚を受 け入れてしまう。

上では「現実」と書いたが、彼らが現実だと思っているものは、実は「価値観」 である。「現実を受け入れる」という言葉を、彼らは「社会の価値観を受け入 れる」という意味で使う。彼らは、自分の価値観を持つことができないのだ。 そして、価値観こそが「現実」だと思ってしまっている。価値観の話は後で書 くことにするが、言葉の意味が違うことをあらかじめ断っておく。

前世代のハーレムラブコメ

「萌え」というキーワードでまっ先に思いつくのが、冴えない男が突如として たくさんの女の子にモテモテになるという、いわゆるハーレム型のラブコメで ある。

昔の男性向けのラブコメでは、主人公の男は女ったらしで、しじゅう女の子を 追いかけていて、女性から何度もメガトンハンマーをくらっていた。こういう 「スケベな主人公」が、最近では少なくなってきている。昔のラブコメは男が 見さかいなしに女をナンパするが、最近のハーレム型ラブコメは、男が何もし ないで女の方からアタックをかける。

一方、女性向けのラブコメでは、恋愛にはとんと無関心な男をどうやって振り 向かせようかという構図になる。女性の方もはっきりとした行動ができずにい て、第三者がなんとか二人をくっつけようと画策する。ここで、「なんとか二 人をくっつけようとする第三者」は女性であることが多く、一人の男にたくさ んの女性が寄ってたかっていろんなことをするというハーレム型ラブコメに似 た構図になる。

恋愛ゲーム

「萌え」ラブコメをその前の時代のラブコメと比較すると、前の時代のラブコ メはどことなくカラッとしていて明るく、登場人物にせよ第三者にせよ、恋愛 をゲームとして楽しんでいるような雰囲気がある。いったい、どこが「ゲーム」 を連想させるのだろうか。

恋愛がゲームとして成り立つには、次の条件が必要である。

  • プレイヤーの最終目的がはっきりしている。
  • プレイヤーは、最終目的を達成するために自分が取るべき行動を考え、実 行する。
  • 複数のプレイヤーの利害が一致しないため、衝突が起きる。

このように箇条書きにすれば、恋愛とゲームの共通点がよく分かるだろう。こ の3条件があるからこそ、ラブコメはゲーム的な面白さを持つ。

逆に、この3条件を満たさないラブコメがどうなるかと考えると、少女マンガ にありがちなあるタイプの物語に対する、「てめえら、ぐだぐだやってないで 早くくっつけ」という感想に集約される。何の障害もなく、ただ本人たちが認 識しさえすればハッピーエンドになるのに、それができない主人公たちに対す るもどかしさである。「認識」というのは本人の問題でしかないから、他人に は何ともできないのである。

もちろん、ゲームでないから面白くないと言うつもりはないが、とにかく、前 時代的なラブコメには、男女双方に「恋愛を獲得するためにあの手この手を尽 くす」という暗黙の恋愛観が存在するということだ。そして、それが今の「萌 え」には存在しない。

価値観の押し付け

「萌え」では、誰と誰がくっつくのかは物語の初めに既に決まっている。そし て、それを阻むものは存在しないか、あるいはいても最初から負けることが決 まっている。障害がないから、恋愛ゲームにはならない。

主人公がしなければならないのは、自分の運命を認識することだけである。あ らかじめ決められた最終目的を受け入れ、自覚することだ。ただそれだけで、 ハッピーエンドが待っている。「萌え」では、ただ「はい、そうします」と言 いさえすればそれで達成できるような目的しか設定されない。

これは、正確に言えば「ハッピー」の定義を外から与えられているだけである。 外から与えられた最終目的を受け入れるということは、「これが幸せなんだ」 という基準を外部から受け入れるということだ。ネット世代は、自分の価値観 に従って行動するのではなく、外部の価値観に自分を合わせようとする。ただ、 昔のように外部の価値観が一つではなく、多様化した価値観の中から選ぶこと ができる。そこで、何もしなくてもよい価値観、自分の今の状況がハッピーで あると定義されている価値観を選ぶ。

「萌え」と評価

今まで述べたように、「萌え」と価値観には密接な関係がある。価値観とは、 物事に対する評価基準のことだ。「萌え」では、自分の外の世界にはたらきか けることなく、すべてが自分の中だけで完結してしまう。これはなぜかという と、評価が現実から切り離されてしまっているからだ。

「評価されるものには理由がある」と考えることができず、何の理由もないま ま本能のおもむくままに評価付けをする。そして、価値観を自分の中だけで作 り上げてしまう。さらに、自分がそうであるだけでなく、他人もそうだと思っ てしまっている。

評価者になる

最近のハーレムアニメで、何のとりえもない主人公の男がなぜああまで女性に 好かれるのか、不思議に思うかもしれない。そのため、「モテない男性の妄想」 で片付けられてしまう。しかし、よく観察すると、そこには一定の構図がある ことがわかる。

ハーレムアニメの登場人物である女性達は、たいていは美人で能力も高く、と きどき超人的な能力さえ持っているのだが、みな自己肯定感が乏しくて、自分 の存在を誰かに認められたがっている。ハーレムアニメの主人公は、その「誰 か」に自分がなることで、女性たちに好かれている。

彼女らが「私なんかがこの世に生きていていいのかな?」と問うのに対して、 主人公は「もちろん、君は生きていていいんだよ」と答える。このことにこそ、 主人公の価値がある。そういう構図になっている。

逆に、主人公の方は、「人に価値を与えている」ということによって評価され る。お互いに価値を認め合うという約束になっていて、その約束が続く限り、 他人に価値を認められ続けるというわけだ。

だから、主人公はたいてい何のとりえもない人に設定される。何らかの得意分 野がある主人公は、それだけで何らかの価値を持ってしまうから、「相手を評 価するだけで、相手からも価値を認められる」というメッセージにならない。

評価と支配

この構図が成り立つためには、相手が自分の評価を欲しているという前提が必 要となる。自分に自信を持って生きている人は、萌えの対象にはならない。精 神的に弱く、自己否定ばかりする人しか出てこないのはそのためだ。どんなに 冷静沈着なように見える人でも、強気に振る舞っている人でも、本心には必ず 心の満たされない部分があり、他人にそこを埋めてもらわないことには生きて いけない。そういう前提を彼らは持っている。

自分の評価を気にする人に対しては、自分が相手を評価することによって、相 手を支配することができる。相手を良く評価すれば、相手は喜んで自分へ良い 評価を返してくるだろうし、相手を悪く評価すれば、相手を怒らせることがで きる。相手がどう反応しようと、それは相手が自分の評価に操られている証拠 であり、ある意味「自分のことが気になっている」状態である。こうして、相 手と自分との関係性を感じることで、自分の存在を確かめようとする。

彼らは、自立した人間がいるということを信じたくない。自立した人間は、ど れだけ媚びを売ろうと、おだてようと、本当のことをズバッと言うからだ。し かし、ネット世代には「本当のこと」という概念がないので、こういう人のこ とは「ウザいヤツ」としか認識できない。そこで、そういう人を避け、自分が 相手をおだてればその分だけ自分のことをおだててくれる人と付き合おうとす る。

彼らは、「人間は他人の評価に動かされる」ということを当たり前だと思って いる。そして、自分の評価を使って他人を動かすことによって、自分の存在価 値を見出だそうとする。

神の視点

萌え系の物語では、ラストで、主人公が世界を好きなように選択するというモ チーフがよく使われる。「今まで現実だと思っていたお話が実は夢でした」で 終わる夢オチとは逆に、「これからは夢の世界が現実になります」という、逆 夢オチとも言えるパターンだ。もちろん、読者も本気でそう思っているわけで はなく、ここで言う「現実」が物語の中の虚構でしかないという認識の上での 話なのだが。

これはエロゲー系のビジュアルノベルや育成系のシミュレーションRPGといっ たゲームからの影響だろう。こうしたゲームでは、「自分」がゲーム内に存在 せず、プレイヤーが直接世界を操作して、自分の望む結果を作っていく。

自分の見ている「世界」に自分自身は存在せず、世界の外から直接登場人物を 操る。こうした構図に慣れてしまっているから、物語を読む時でも、自分がそ の世界にいるように想像して読まない。まるでテレビを見ているかのように、 物語を外から見て楽しむ。

普通の人は、萌え絵の女の子と会話するようなギャルゲーを見て「アニメの女 の子とデートするなんてキモい」と思う。普通の人は、ギャルゲーを「自分が 画面上の女の子とデートするもの」だと思っているからである。これを、画面 上の女の子を操って楽しむゲームであると解釈すれば、キモいことには変わり ないかもしれないが、見方が少し変わるのではないだろうか。そこに自分が関 わってくることはないのである。

現実世界では、こうした態度はいわゆる「釣り」となって現れる。自分をその 場の外に置いて、他人を操って遊ぶ。他人がどんな反応をしようと、自分はそ の影響の外にいる。相手が真剣に受け止めようと、怒ろうと、「わはは、マジ になってやんの」で終わりだ。

一方的な評価

自分がその場にいるのではなく、外から傍観しながら、自分勝手に物事を評価 する。そうなると、自分が見ている世界の中に、自分が存在しない。このよう な態度になってしまうと、「自分を見る」ということができなくなってしまう。 見ることができる範囲の中には、「自分」が存在しないのだから。同様に、自 分自身の評価を考えることもできなくなってしまう。

これはつまり、自己を客観的に見ることができなくなってしまうということだ。 そればかりでなく、「視点」というものの存在を認識することすらできなくなっ てしまう。「視点」という概念を理解できないため、自分が見えている範囲が 世界のすべてだと思ってしまって、今見えていない範囲に目を向けることがで きなくなってしまう。

ネット世代は、評価に基準があるという前提を持たない。自分勝手にどんな評 価でもつけられるという前提に立っている。他人が自分に対して下す評価につ いても同様に、そこに何らかの理由や基準があるとは考えず、その人が好みに 従って自分勝手につけただけのものだと思っている。

現実世界では、自分は他人から評価を受ける。しかし、この時には他人からの 評価を「普遍性のない自分勝手な評価」とみなすことで、評価から逃れること ができる。こうして、自分は評価されることなく、自分が一方的に評価を与え る存在になる。

萌えの問題

結局のところ、「萌え」が問題なのは、アニメ絵や声優など、一般に「萌え」 と呼ばれている各要素ではない。何でもかんでも萌えに結びつけ、萌えのない ものは買おうとしないところが問題なのだ。萌えとは、何かが「ある」ことで はなく、何かが「無い」ことなのである。何が無いのかを一言で言えば、「現 実」とか「意味」という言葉となろう。「○○である」ということが抜けてし まっている。「萌え」は、現実を直視できない人が、現実から目をそらし続け るための機構なのである。

「萌え」では、価値観には理由も正当性もない。ただ、自分がそれを受け入れ るかどうかだけが問題となる。内容について考えることをしないで、丸ごと受 け入れるか丸ごと拒否するかのどちらかでしかない。そして、他人に与えられ たものをただ受け入れることで、自分を肯定しようとする。

「萌え」では、自分を世界の外に置くことによって、自分が評価されることを 避け、安全な位置から物事を一方的に評価する。そして、自分が相手を評価し たことが何かしら反応として返ってくることによって、自分の評価の影響力を 確認する。

ここまで見てくると、「萌え」にはネット世代の問題を表すいくつものポイン トが凝縮しているのがわかる。



  1. ネット世代には「感情移入」という言葉の意味がわからない人が多いので、気をつけるように。 ↩︎