ロールプレイとは何か

テーブルトークRPGを取り上げ、「ロールプレイとは何か」を大真面目に考察しました

迷惑なプレイスタイル

今度は、テーブルトークRPGがロールプレイ主体からなりきり主体になったために、プレイスタイルにどんな変化が起きたかを例を挙げて説明する。特に、旧来のロールプレイングゲームをしたい人の中にそうでない人が混じるとどんな問題が起きるかについて考えたい。

パワープレイ

敵が出たらとりあえず殴る、そんなプレイが「パワープレイ」と呼ばれる。きっとこの人はコンピュータRPGしかやったことがないのだろう。コンピュータRPGでは敵が出たら殴るしか選択肢がないが、テーブルトークRPGではそうではないのだ。隠れてやりすごすとか、わなを仕掛けて待ち伏せするとか、やれることはいくらでもある。しかしそういう人に限って運が良く、「敵が出た→殴る」だけでどうにかなってしまう。他のプレイヤーはそんな事は既に「D&D」の時代で飽きたのだ。

サイコロを振ったらいい目が出てそれで敵を一刀両断に切り伏せられたら確かに気持ちがいい。そして「パワープレイヤー」はそれを目的にしている。だから考える事は抜きにしてとにかくサイコロを振りたがるのだ。サイコロを振っていい目が出るのがうれしいのだから。

こういうプレイヤーは他の人があれこれ作戦を練っているとイライラする。「そんな相談なんかしなくても目の前に敵がいるんだから乗り込んでいってぶっ倒せばいいんだよ」と。そしてしばしばそれを実際に実行してしまう。もしそうやって無理な状況で敵に突っ込んでいき多数のモンスターに袋叩きにあってキャラが死んでしまったとしたら、その人はゲームマスターに文句を言う。「敵が多すぎるんじゃないか?バランスをもうちょっと考えろ」と。考えるべきは自分の方なのに。

こんなプレイヤーがいたらゲームマスターは無理な行動をする前に再三警告すべきだ。「そんな事をしても袋叩きにあって死ぬだけだぞ。それでもいいのか?」と。そしてその警告を無視するようなら遠慮なくキャラを殺す方がいい。そこで下手な手加減をするとかえって増長するからだ。

一番問題なのはパワープレイヤーの意識である。パワープレイヤーはでやぁっと叫んで剣を振っていい目が出ればうれしいというだけであって、どう行動すればいいのかを考えたいわけではない。ゲームをする目的が一人だけ違っていてうまくいくわけがない。

マンチキン

「なりきり」とはあまり関係がない(そして、なりきりの普及によって数が減少していると思われる)が嫌われるプレイヤーに「マンチキン」がいる。

「マンチキン」とはキャラクターを強くすることしか考えていないプレイヤーだ。まあその事自体はゲームという観点からすれば正常な行為である。しかし「マンチキン」はルールの穴を見つけてでもとにかく自分のキャラを強くすることを考える。

ファイターであれば戦闘以外のスキルは一切とらない。武器は常にダメージの大きい両手剣を使う。命中率とダメージの計算をしてみて長槍の方がダメージが上だとわかるとすぐそちらに持ち換える。残念なことにこういうプレイヤーはパワープレイをしやすい。

こうしたプレイは古くからのウォーゲーマーに多い。ウォーゲームではダメージが大きいのが善であり、ルールで許された最良の方法をもっていかに効率よく敵を倒すかを考えるゲームだからだ。そしてその延長線上にあるRPGでも原則は同じである。基本的な考え方が正しいだけに一概に否定することはできない。

これははっきり言ってゲームマスターの責任である。戦闘しかしないこと、そして色々な状況を用意しないことが原因である。例えば長槍が一番ダメージが大きいからと長槍のスキルだけをバンバン上げたキャラクターは、岩のかげに隠れて待ち伏せという戦法がとれない(どうしても槍の先が見えてしまうからだ)し、酒場でいきなり乱戦という場面でも活躍できない(短刀は懐にいつもしまってあるかもしれないが、長槍をいつも小脇にかかえて酒を飲むバカはいないからだ)。こうした様々な状況を用意しないでだだっ広いところで「モンスターが出た、はい戦闘」という場面しかなければ、じゃあ長槍のスキルだけ上げておけばいいやということになってしまう。

一度誰かがそういうキャラを作ってしまうと「今日の舞台は天井の低い洞窟だから長槍は持って入れないよ」とやってしまうとそのキャラは何もできなくなってしまう。そんな事のないようにキャラを作る際に事前に注意を促すべきだ。そしてその注意を聞かないようならあえてその人には洞窟の中では手ぶらでぼーっとしててもらおう。

強い武器にはステータスには現われないデメリットがある。そのことを頭に入れておいてほしい。

ヒーローキャラ

多くのファンタジー小説の主人公はとにかく派手だ[1]。巨大な剣の一撃で目の前の敵をすべてなぎ倒したり古代の超魔法で山を吹き飛ばしたりする。そうした小説に慣れたプレイヤーがテーブルトークRPGを始めるとそのギャップに愕然とする。

作ったばかりのレベル1キャラは弱いのである。洞窟の巨大コウモリを倒すのすら大事だ。世界の歴史に残るような大冒険が体験できると思ってゲームを始めたのに、村の人に雇われてコウモリを退治しお駄賃を貰う毎日だ。なにか違う。

ゲームマスターも同様だ。今はキャラがレベル1なので仕方なく洞窟のコウモリ退治をやっているのだが、ちゃんと魔王の宮殿は用意してあるしどこかの洞窟にはもの言わぬガーディアンに守られた古の超兵器もあるのだ。キャラクター達はせっかく1000年前に悪の魔王を倒した五賢人の末裔という設定にしてあるのだから、そういう壮大な物語をやりたい。

こういう話を聞くと、「ああ、ドラクエの影響ってすごいんだなぁ」と思う。ドラクエの物語構成そのままだからだ[2]。これははっきり言ってドラクエの影響である。エルリックサーガなどのヒロイックファンタジーの影響ではない。なぜならヒロイックファンタジーの主人公は最初からヒーローなのだ。それに対してドラクエでは主人公は最初は何も知らないただの人で、ひのきの棒なんかを振り回しながらだんだんヒーローに成長していく。

やっとわかった。ドラクエは「私みたいな平凡な一般人でも世界を救うすごい人になれる」というシンデレラストーリーなのだ。そういうお話の主人公になりたいというのがプレイヤーの欲求だったのだ。モンスターとか謎なんてどうでもよかったのだ。

ウォーゲーム時代からやっているプレイヤーの欲求はそうではない。目の前につきつけられた難問を無事解決して、目的を達成することが喜びなのだ。それが世界を救うことであろうと、隣の八百屋のおじさんの家に入った泥棒を見つけ出すことであろうとかまわない。「問題を解決すること」自体が喜びなのだから壮大なストーリーなどどうでもいいのだ。

テーブルトークRPGの謳文句にだまされてヒーロー体験ができると思ったプレイヤーはがっかりして文句を言う。ゲームマスターもそれに答えようとする。そして……

高レベルキャラ

ロールプレイではなくヒーローごっこをしたいゲームマスターは、とりあえずレベルが低いうちは導入部だと思っている。適当に話の伏線を張ってあとはどっさり経験値を与えて速くレベルアップさせる。さあ、君達はヒーローだ。ずっと楽しみにしていたヒロイックファンタジーを楽しもうじゃないか。

という段になって、ゲームマスターは困り果てる。常識が通用しないのだ。キャラの両手剣の一振りは数十人のオークをなぎ倒し、魔法使いは一夜にして都市一つを壊滅させることができる。そんな化物相手にどんな冒険を用意すればいいのだ?

キャラクターは一般人からすれば神のごとき存在であり対等の会話などできるはずもない。一国の王様もキャラクター達にとっては召使い扱いである。もうファンタジー世界ですら敵を見いだせなくなったゲームマスターは仕方なく、この宇宙を統べる暗黒の存在とかなんとかいうわけのわからないものを持ち出す。

かくして壮絶なバトルが繰り広げられる。王国が一つ二つと隕石で破壊されるだけでは飽き足らず、山脈が一瞬で消し飛び、大陸が丸ごと海の底に沈み、地球が真二つに割れ、果ては次元のはざまで死闘が繰り広げられる。

こうなると、想像力のない人にはついていけない世界に突入する。「じゃあハワードは月を暗黒の存在めがけて投げつけます」「ソニアは神様にお願いして時間を敵の攻撃が起きる前に戻してもらいます」うう、じゃ俺のキャラは何をしたらいいんだ?

この問題は少年マンガが陥りがちな問題としても指摘されている。「ドラゴンボール」がいい例だろう。最初は武闘家の少年が諸国を漫遊する冒険話だったのが、最後には神様すら自分の手駒の一部にしてしまう。パワーという刺激を求めて際限なくキャラクターのレベルを上げていった結果だ。

さて、以前にロールプレイは「行動の選択」だと言った。これとあれとあれの選択肢がある中でどれか一つを決めるのが「選択」だ。もちろん新しい選択肢を考え出すというのもある。しかし「なんでもできる」となってしまうと選択のしようがないのだ。もう一つゲームマスターも困っている。ゲームマスターは「その世界での常識を基にキャラクターの行動の結果を提示する」のが仕事だ。常識が通用しない世界でどうやってこの作業をすればいいのだろう?

この問題の解決法は一番最初にある。そもそも速くレベルアップさせたのが間違いなのだ。ロールプレイングゲームは強いキャラでなくても、洞窟のコウモリ退治でも十分楽しめるのだ。

キャラクタープレイ

RPGではキャラクターの背景や生い立ちなどを詳細に設定し一人の架空の人間像を作り出す。しかしそれはあくまで「その人がどういう行動を取るか」を考えやすくするためである。このため、そのキャラの物の考え方や行動原理、信条を決める。

例えば以下のような事柄である。

  • そのキャラクターはどんな悪事でも裁かれなければならないと思っているか?それとも悪事でもその人の事情によっては許されると思っているか?

  • 牛や豚は人間じゃないからいくら殺しても構わないと思っているか?それとも生きるために仕方なく殺しているわけだから敬意を払うべきだと思っているか?それとも牛や豚も殺してはいけないと思っているか?魚はどうだ?虫は?闇のモンスターは?

  • 瀕死の重傷を負っている人にはとどめの一撃を与えた方がいいと思っているか?それとも無駄だとわかっていても手当てしてあげるべきか?

これらの項目はすべて、意見の分かれる難しい問題だということに気がついただろうか?プレイの最中にこんな問いをつきつけられたら誰だって小一時間は悩んでしまう。それでは大変だからこういった事はあらかじめ決めておくのだ。

こういった質問にはきりがないから事前に設定として全部決めておけるはずがない。だから代わりに生い立ちとか性格を設定する。「このキャラは牛飼いの子供で、少年時代は牛を友達にして遊んだ心の優しい人です。」と設定して、実際に牛が惨殺される場面に出くわした時に「このキャラはきっと牛や豚も大切な命だと思っているだろうと考えます。だから許せない。犯人を探し出そうとします」と行動選択の指針にするのだ。逆に牛にあまり同情心を持てないキャラだったら「今度は人間が襲われるかもしれない。そう思って村を警備します」という行動になるかもしれない。「村の大切な財産が傷つけられては困る。犯人を探し出そうとします」とやっぱり犯人探しに協力するかもしれない。つまりは、なぜその行動をとったかの理由付けに使うのだ。

またゲームマスターはキャラクターシートに書いていない事項についてそうした性格設定や生い立ちを頼りに演繹する。「そのキャラは牛飼いの子供だから難しい学問書は読めないだろう。」といったように。

キャラクター設定を選択の手助けではなく選択の強制だと思っているプレイヤーは、性格を設定したらどんな場合もその通りに動こうとする。例えば蛇が出たら「きゃー、蛇きらーい、と言って逃げ出します」と。それは間違いだ。そのキャラが蛇に耐えられなくなって逃げ出すかどうかを判断するのはゲームマスターであってプレイヤーではない[3]。「蛇が出たよ。そのキャラは蛇が嫌いだから逃げ出すかもしれないなぁ。ちょっと自制心でロールしてみて」とゲームマスターが言うまで待つべきだ。そしてロールが成功だったらそのキャラは蛇を我慢できたのだ。これは素晴しいことではないか。キャラを誉めてあげよう。

ロールプレイングゲームは将棋でいう「次の一手」を考えるゲームだ。そしてキャラクター設定は将棋で言うと「駒の動かせる範囲」である。プレイヤーは次の一手を考えるのに喜びを見出だすべきであって、駒の動かし方が理解できたことや駒を動かすことそれ自体に喜びを見出だすべきではない。駒を動かすことなら誰にでもできる。目的を達成するにはどうすればいいかを考えるのが難しいのであり、難しい問題を一生懸命考えるのが「ゲーム」なのだ。

一本道シナリオ

今まで何回もくどくどと話してきたこと、それは「行動の選択肢」である。しかし、実のところこれを用意するのは簡単ではない。どうしても「一本道シナリオ」に陥っていまう。

一本道シナリオとは選択肢のないシナリオだ。「悪い強盗団を退治に洞窟に行って下さい」。まあ断わる理由はないよなあ。「君達は洞窟に入った。前から強盗が襲いかかってきたよ」。まあ剣を振るって倒すしかないわなぁ。「強盗団は無事やっつけた」。まあ目的達成だし帰るか。「村人は君達に非常に感謝している。君達は村のヒーローだ。はいおしまい」。

プレイヤーは単に言われたことにはいはい答えただけでゲームは無事終了して経験値をもらえた。でもこれのどこが面白いの?ゲームマスターの作った物語をはいはい言いながらじっと聞くゲームなの?

この構図はほとんどのコンピュータRPGと同じ構図であることに気づかれただろうか?「○○の洞窟にある△△の実をとってきてください」。はいよ。洞窟に入って、敵を倒して……。あ、あった。これを持って帰ればよいと。「ありがとう。お礼に××のはねを差し上げます」。ああ、これは□□の姫が欲しがってたやつだ。次は彼女に会いにいけってことだな。

これの何が面白い?って聞かれてもなかなか答えられないだろう。少なくとも、貴重な休日の時間を使って近所の公民館の会議室を予約して数人で顔をつき合わせてまでやる事のようには思えない。「あー暇だ。なんかやる事ないかなぁ。仕方ない」と言ってやる程度のものではあるかもしれないが。おまけに、テーブルトークRPGには綺麗なCGアニメーションもミニゲームもない。

もちろん理由はわかっている。シナリオの出来が悪いのだ。しかし一概にゲームマスターも責められない。選択肢が豊富な面白いシナリオを作るのはとても大変だからだ。これの対処法は一つ、「プロの作ったシナリオを買ってくる」というものだ。腕がないならお金を出そう。シナリオを自分で作るのはもっと腕が上がってからでいい。少なくとも、シナリオが下手だとどんなうまいゲームマスターでも面白いゲームにはできない。

手加減ロール

モンスターがプレイヤーを攻撃する時、ゲームマスターはサイコロを振って判定する。ただしそれはプレイヤーから見えないようについたての後ろで行い、自分で判断して当たったかどうかの結果だけを告げる。

これはなぜかというとプレイヤーの見ている前でダイスを振って命中判定をすると敵の強さがわかってしまうからである。ゲームマスターが6面体ダイスを2個振って9が出た時「ああ、攻撃を外した」と言ったら10以上でないと当たらないことがバレてしまう。

しかしサイコロが見えないことをいいことにサイコロの出た目を見ないゲームマスターが現れた。あるいは話の展開にひどく不都合な結果が出ると無視する。これが「手加減ロール」である。都合の悪いサイコロの目を無視するんだったら、そもそもサイコロを振る意味なんてないじゃないか。

こういう反論があるかもしれない。「いや、でもね、オークが剣を振ったら、たまたまクリティカルヒットが出ちゃったのよ。それで、そのダメージをそのまま適用したら、キャラが死んじゃうわけ。ね、その辺の雑魚オークに殺されたら困るでしょ?」

結論を言おう。困らない。そのキャラは雑魚オークの会心の一太刀を受けて死亡したのだ。新しいキャラを作ろう。自分のキャラが死んでしまったことにプレイヤーがぶうぶう文句を言ったらこう一喝すべきだ。「こっちも相手も真剣勝負なんだぞ。当然触れれば血も出るし当たり所が悪ければ生命も危ない。それを承知の上での戦闘じゃなかったのか?お前は命がけの戦いをダンスかなんかと勘違いしてるんじゃないのか?」

戦闘は危険だ。だから現実には人はできるだけ戦闘を回避し、殴り合いよりは話し合いで解決しようとする。しかし、なぜかRPGのプレイヤーの中には進んで戦闘をしたがる輩がいる[4]。最近はそういう人が多いのでゲームの始めに一言忠告するべきだろう。「私のセッションではキャラが死んでも手加減しないからそのつもりで。戦闘はしないに越したことはない。」と。

もし相手が人間や知性のあるモンスターだったら、優勢・劣勢がはっきりしたら降伏勧告をしよう。その時には敵のダメージ状況を大体でいいから告げて。「敵の首領はまだほとんどダメージをくらっていないよ。どうする?このまま行ってもおそらく勝てないよ?降伏する?逃げてもいいし、愚かにも向かってきてもこっちは構わないよ」と。それでもまだ猪突猛進するバカだったら遠慮はいらない。さっさと斬り捨てて新しいキャラを作らせよう。

そういう意味で野生動物は恐い。説得がきかないからだ。相手が人間だったらこっちが降参すれば命までは取らないが、野生動物はこちらか向こうかのどちらかが死ぬまで猛然と向かってくる。そしてコンピュータRPGの雑魚の多くが野生動物であることから不慣れなプレイヤーは動物を雑魚扱いする傾向にある。これもゲームマスターが注意すべきだ。例えば森で熊と一対一で対面したら現実だったら例え一流の武術家でも生きて帰るのは奇跡に近い。街道をそれて森を進むのは死の危険を伴う行為なのだ。

こうした危険を犯さない一番の方法はやはり「戦闘をしないこと」である。武力は見せつけるだけで行使しないのがいいのだ。王様を説得するのに大失敗したところでせいぜい屋敷から追い出されるだけで済む。できるだけ戦闘をしないですむシナリオを考えたい。

GM不在の進行

そこらの凡百の小説やマンガやアニメには「お約束の展開」というものがある。例えばこういうやつだ。

GM: 「森を進んでいくと、ちょっとした谷になっていて川が流れているところにぶつかったよ」
ソニア: 「まあ、きれい! 水浴びをします!」
一同: 「おいおい。お約束の展開だな(笑)」
ソニア: 「グース、いい?のそいちゃだめよ」
グース: 「いったん森の中に隠れます。そして頃合を見はからってやっぱりのぞきに行きます(笑)」
ソニア: 「きゃー! だれか見てる! ファイヤーボール! ちゅどーん」
グース: 「ぐふ、やられたぁ! でもちょっとうれしかったりして」

このやりとりにGMが参加していないのが特筆すべき点である。いや、参加しなかったのではなく、できなかったのだ。プレイヤー同士で勝手に始めてしまったからである。

プレイヤーは周りの状況を知らないのだから勝手に話の展開を作るべきではない。もしかしたら暗殺者が彼らの後をつけ狙っていて、グースが一人で森に隠れた好機を逃さず背中から襲いかかってくるかもしれないのだ。プレイヤーはキャラクターの行動を宣言したらゲームマスターの状況説明を聞かなくてはならない。こんな事が続いたらゲームマスターだって嫌になってこんな展開にしてしまうだろう。

ソニア: 「グース、いい?のぞいちゃだめよ」
グース: 「いったん森の中に隠れます。にやり。」
ソニア: 「きゃー! だれかのぞいてる! ファイヤーボール!ちゅどーん」
GM: 「MPを減らしてダメージ計算してね」
ソニア: 「えーと、25ダメージ! (笑)」
グース: 「うっ! 25ダメージ受けました(笑)」
GM: 「違う違う。ソニアが撃ったのはたまたま居合わせた村の猟師だよ。あーあー、彼は黒焦げになってしまって当然息絶えてるよ」

そして、街についた一行は、外壁の「お尋ね者掲示板」に自分たちの名前があることに気がついた。衛兵に取り囲まれて牢屋にぶちこまれ、無差別殺人の極悪犯として死刑台に……

確かにゲームマスターも大人げない。ゲームマスターはちゃんと聞き返して本当の行動宣言なのか冗談なのかを区別すべきだ。

GM: 「ソニアが水浴びをしていると、森の向こうに人影が見えたよ」
ソニア: 「きゃー! だれかのぞいてる! ファイヤーボール!」
GM: 「本当?本当にファイヤーボールを撃ったのならMPを減らしてダメージ計算してね」
ソニア: 「うそうそ。嘘です。叫び声をあげただけです」

ロールプレイングゲームの楽しみ

ロールプレイングゲームの楽しみとは、つまるところ、「問題を解決するために行動を考える」ことである。それは昔からそうだった。敵を斬りつけるべきか、逃げるべきか、回復の呪文を使うべきか、それとも高価なアイテムを使うべきかの選択だ。

問題は「HPがいくつ以下だったら回復をかける。それ以外では敵を斬りつける」というように最良の解が見出だせてしまったことにある。その時はもうそのゲームはやめるべきだ。三目並べをもう遊ばなくなったように。そんなものはもうゲームではない。

現代のロールプレイングゲームはそうならないように戦闘以外の様々な機構を採り入れた。もう自明の最良解が存在することはない。モンスターの目の前に刀を抜いて立っている以外の様々な状況が生まれたからだ。だから安心していつまでも遊べる。素晴しいことではないか。

しかし、その反面、このゲームはゲームに熟知したゲームマスターが必要なゲームになった。この点が致命的なネックである。そんな人がそうそういるわけがない。仲間内で新しく始めようという集団では特にだ。そういった人々は試行錯誤でこのゲームの「面白さ」を探すしかなかった。ある人は「サイコロで高い目を出して大ダメージを与える快感」を、ある人は「自分の想像上の人物になりきって行動する快感」を見つけ、それを追求し始めた。

ロールプレイングゲームで得られるのは「快感」ではない。「面白さ」だ。感情に訴えるのではなく、知性に訴えるものである。だから「ゲーム」という名前がついているのだ。


  1. 「指輪物語」のような優れた小説はそうではない ↩︎

  2. ついでに言うと、勇者の末裔が勇者になるという出生差別的なお話がいまだにまかり通っているのはどういうことだろう?人権団体は文句を言わないのだろうか? ↩︎

  3. もちろん逃げ出した方がよいと思ったのなら逃げ出せばいいのだが ↩︎

  4. これはプレイヤーの責任ではなく、そういうものだとRPGを紹介したマスコミと戦闘しかないRPGばかりを世に送り出したゲームメーカーの責任である。 ↩︎