パズル、戦術、そして戦略

面白いゲームに含まれるもの、よく「ゲーム性」と言われるものの正体を探ります。

戦術性

さて、「パズル」の話が終わったところで次に「戦術」の話をしよう。例によって辞書を引いてみると「一定の目的を達成するためにとられる手段」とある。「一定の目的」とはつまりゲームに勝つことで、そのためにとる手段というのが戦術だ。

では戦術というのを論理的に定義づけてみよう。ゲームには「勝利条件」というのがある。「キングを詰ませたら勝ち」とか「囲んだ地の多い方が勝ち」といったものである。そしてそれを実現するためにいくつかの可能な手の中からどれか一つを実行する、それが「戦術」である。そしてどれを実行すればいいかを考えるのがゲームの楽しみであり、「戦術性」である。

戦術とパズルの相違

さて、要約すれば戦術性とは「目標を達成するのに一番いい手はどれか?」という問いの答えを考えることだ。そしてパズルとは「問いの答えを考える」ことだ。おっと、戦術とはパズルの一部なのか?この答えはそうであるともそうでないとも言える。戦術とパズルは時として同じになってしまうこともあるが、目的と姿勢が明らかに違う。

パズルの目的は解を見つける事であり、戦術の目的は目標を達成する事である。これが一番の違いだ。パズルの場合は解でなければ価値がないのに対して、戦術の場合は一番いい手でなくてもそこそこの価値がある。将棋が好きだったら「詰将棋」と「次の一手」の違いだと言えばわかるだろうか。詰将棋は詰められない手では意味がないのに対して、「次の一手」の問題の答には正解だけではなく、複数の解答とその優劣が述べられる。「Bの手は悪くないけれどAには劣る」というように。つまり評価が正解か不正解かだけではなくランクがあるのだ。

そして、戦術では一番いい手がわかるという保障はない。パズルの場合は解がある事が保障されているし、解答者はそれを見つけ出すことが期待されている。しかし戦術の場合にはすべてがベストの解答である事は期待されてはいないし、多くの場合不可能だ。そして解答が正しかったかどうかは目標を達成できたかどうか、あるいはどれだけ点数を稼げたかで計られる。しかしこれはとった戦術の直接評価ではない。戦術がたとえ悪くても相手の出方次第では点数がとれたりするからだ。戦術の場合には直接評価はできず、結果論になってしまう。

つまり、パズルの場合には正解だったかどうかが直接的にわかるのに対して、戦術の場合には目標が達成できたかどうかで間接的にわかるだけなのである。だから考える方も「絶対的な正解」ではなく「目的を達成するのに自分でベストだと思う解」で満足するわけである。

推測と決断

多くのゲームでは盤面からは見えない要素がある。相手の持っているカードは見えないし、場に伏せて置いてあるカードの中身も見えない。そして相手がどう考えているか、どうしようとしているかもわからない。こうした内容を推測しながら一番いいと思う手を選ぶのが戦術だ。推理パズルも似たような状況だが、「推測」と「推理」は違う。「推理」は論理で追い詰めれば正解が決まるのに対し、推測では「そうである確率が高いんじゃないかな」としか言えない。

先にも少し述べたが、戦術では一番いい手が試行錯誤や論理展開などでわかる事は少ない。戦術では多くのあやふやな推測をもとに、ある時点で考えるのをやめてどの手をとるのか決断しなくてはならない。その際にしなくてはならないのは、それぞれの手を自分なりに評価をつけてどれがいいかを決めることだ。ここは素直に守っておくのか、それとも相手の弱点を果敢に攻めていくのか。攻めていくとしたらどこの弱点を狙うのがいいのか。こうした事を自分で考え、最終的にどれか一つの手に決断する。この「推測」と「決断」が戦術性の源泉だ。

パズルが好きで決断力のない人は唯一絶対の解を求めて長考を繰り返す。これは他人にも迷惑だし戦術の楽しさをスポイルする。長考が悪いと言っているわけではない。考えても無駄なことを必死になって考えようとするのが悪いのだ。いつかは自分で評価してどの手をとるかを決断しなくてはならないのである。「下手の考え休むに似たり」とことわざにもある。

戦術がパズルになる時

特殊な環境下では戦術ゲームがパズルに変化する時がある。一番いい手が論理的に導き出せる場合だ。例えば将棋で終盤になって詰め将棋状態になった時のことだ。王手の連続で相手がどう対応しても勝てるという状態になったら、それはもう戦術ではなく詰将棋というパズルだ。アマチュア初級の場合は見落しがある可能性があるためやることもあるが、普通の対局では詰将棋状態になったらそこで片一方が投了してゲームは終了する。わざわざパズルをやるのは時間の無駄だというわけだ。

簡単なゲームでは途中が「確率計算」というパズルになってしまうこともある。「サイコロで○が出る確率は××だから、一番効率が高いのはこの手で……」となってしまうことだ。もちろんすべての手がこうなってしまっては単に面白くないゲームなわけだが、途中でたまたまこうなってしまう場合もあるだろう。これは戦術ではなく戦略を重視するゲームで起きることもある。

戦術がパズルになってしまうというのは、戦術で不可欠な2要素のうち「決断」の要素が無くなってしまうことである。唯一絶対の最適解が見つかったのだから、もはやどの手にするかを決断することはなく単にその最適解を実行すればよい。だからこうなってしまったらもはや戦術とは言わないのだ。

戦術が無意味になる時

戦術で最適解が見つけ出せてしまったらそれはもはや戦術ではなくパズルだと先に述べたが、戦術が戦術でなくなってしまう場合はもう一つ存在する。情報が少なすぎて推測ができなくなってしまう場合だ。

例えばじゃんけんを考えてほしい。確かに相手の出す手を推測してそれに対して勝てる手を考えるという意味では戦術だ。しかし相手の出す手を推測しようにも手がかりはどこにもない。だから普通の大人は「戦術ゲームとして」じゃんけんを遊ぼうなどとは思わないのだ。

しかし子供は違う。じゃんけんを純粋にゲームとして楽しんでいる。それはなぜかというと、自分なりの論理で必死に相手の手を推測しようとするからだ。「さっき相手はパーを出したから今度はパーは出さないに違いない」とか「その裏をかいてもしかしたらまたパーを出すんじゃないか」と考えているのだ。「今度はグーを出すつもりだよ。えへへ。」とブラフをかけたり、何か意味ありげなポーズをとってみたりと、これらはじゃんけんを「戦術ゲーム」にするのに必要な駆け引きなのだ。こうした駆け引きで得られた情報を勘案して相手が出すであろう手を推測し、それを基に自分の出す手を決断するのが面白いのだ。

しかし、そうやってじゃんけんを面白いと思って夢中で遊んでいた子供達を襲う魔の手がある。「どれだけ考えても結局は相手の手を推測するに足る証拠は何もない」という事実に気がついてしまうことだ。これに気がついてしまうと「どうせよくわからないのだから3つの手のどれかを適当に出しておこう」という結論になってしまう。そして相手がそういう結論に達してしまった事を知ると、それに対抗するにはこちらも3つの手のどれかをランダムに出すしかなくなってしまう。結局のところ、じゃんけんは2人がランダムに手を出して偶然にどっちかが勝ったり負けたりするゲームになってしまうのだ。ここにはゲームとしての面白さは何もない。

じゃんけんに不足しているもの、それは「状況判断のための情報」なのである[1]

まとめ

戦術では唯一絶対となる正解はあるかもしれないが普通はわからない。だからそれを求めてはいけない。これが戦術とパズルの違いの本質である。では代わりに何をするか。それは「推測」と「決断」である。現在の状況を推測し、それに対応する手を考える。手はいろいろ考えられるだろうからそのうちの一つを決断し実行する。そして結果を楽しみに待つというものだ。

そしてそのためには状況を推測するに足る情報があること、そしてそれから複数の可能な手が考えられること、そしてそのうちのどれかを決断しなくてはならないことが重要である。

コンピュータの戦術ゲーム

実は「戦術ゲーム」あるいは英語で「タクティカルゲーム」という名前がついているものはそう多くはない。ほとんどの場合は後述する「戦略ゲーム」の名前で売られているからだ。しかし逆に考えると、推測と決断の要素はほとんどのゲームが持っているものであり、わざわざ「戦術ゲーム」と名前をつけないのは戦術がゲームにはあって当たり前のものだからなのかもしれない。

例えば格闘ゲームでは相手を出方を「推測」して打撃か投げか逃げかを「決断」する。RPGでは敵の強さやボスまでの距離、残りアイテムの量などを勘案しながら攻撃するか魔法を使うか逃げるかを決断する。FPS[2]であれば周囲の状況や敵の居場所を考えてどの武器でどう戦えばいいかを決断する。反射神経と慣れだけが勝負のゲームでなければ、ほとんどのゲームに戦術はつきものなのである。

戦術性を評価する時には、それがパズルになってしまっていないか、そしてじゃんけんになってしまっていないかを考えてほしい。判断の際に不確定要素がなさすぎるとパズルに、ありすぎるとじゃんけんになってしまいがちだ。ほどよく情報があって、ほどよく隠された情報があるのが望ましい。パズルの時と同様にこれもまた「バランス感覚」なのである。

パズルのところでの述べたが、コンピュータゲームでは戦術もまた短時間での判断を迫られるものが多い。格闘ゲームなどはまさにそれだ。そしてその弊害もまた同様である。人が短時間で推測して決断できる内容なんてたかが知れている。だからその時々に奥深い戦術を考えられるようなゲームであってはいけないのだ。簡単な戦術的判断を時間にせきたてられながら何回も行わなくてはならない。

コンピュータRPGではこれを問題を簡単にすることで解決している。つまり「適当に攻撃してHPが少なくなったら回復魔法をかけなさい」とか「○○という敵が出てきたら火の攻撃魔法をかけなさい」というわけだ。状況をぱっと見ればどうすればいいかは深く考え込まなくてもわかる。このおかげで戦闘がボタンを押すだけでテンポよく進んでいくが、代わりに戦術を考える楽しさは失われる。

格闘ゲームでは反対にじゃんけんの要素を取り入れることが多い。「打撃にはガード」「ガードには投げ」「投げには打撃」と三すくみの要素を取り入れ、あとは勝手にしろというわけだ。ここで普通のプレイヤーは適当に技を出して当たったり当たらなかったりして適当に勝負がついてしまう。そして勝負の結果を反射神経やボタン操作や運のせいにしてしまいがちだ。つまりこれは「戦術を考える」という要素を見い出せなかったか、あるいはいくら考えても自分の腕ではそれは結果には反映されないと悟ってしまったかのどちらかであり、どちらも「戦術を考えるようなゲームではない」と結論づけてしまうものだ。

戦術を楽しむためには、戦術を考えられるだけの思考時間の余裕がなくてはならない。そうでないと単に反射神経と慣れのゲームになってしまい、初心者が入り込めないゲームになってしまう。


  1. 実はもう一つゲーム論的に重大な問題があるのだがそれはまた別の機会に述べることにする。

  2. 一人称視点シューティングの略。(典型的には)兵士が銃を持って敵を狙撃するタイプのゲームである。DOOMやUnrealTournamentのことである(がこれでわかる人にはFPSの意味も自明のことだろう)。