ゲームとは何か

ゲームとは何か。そしてゲームはなぜ面白いのか。

ゲームと情報隠蔽

前章でも少し言及したが、ここではゲームにおける「隠された情報」について話をする。相手の手の内にあるカード、ダイスを振った時に出る目、テーブルに伏せて置いてあるカード、などなどのことである。

情報隠蔽の歴史

ボードゲーム、もっと言えばボード海戦シミュレーションゲームでは「情報を隠す」事は悲願だった。それは単なる物理的な制約である。もともと海戦というのは索敵の戦いであり、敵の位置をいかに早く知るかが勝負である。しかしプレイヤー同士でテーブルを囲んで戦艦のコマをボード上に置くと、本来わからないはずの敵の位置が丸見えになってしまう。これはボードゲームである以上いかんともしがたい欠点であり、いろいろと解決方法は考案されてきたものの決定打はなかった。

この問題を解決したのがコンピュータである。コンピュータを使ってお互いが自分のディスプレイしか見ないようにすれば、敵の位置を簡単に隠すことができる。これは素晴らしい進歩だ。おそらくボードタイプのシミュレーションゲームが衰退したのもここに原因があるのだろう。ボードでやるという制約のせいで、ボードゲームはコンピュータゲームにシミュレーション性で負ける。

コンピュータが出現したおかげで、ゲーマーの夢である、より現実に近いゲームを実現できるようになった。「テーブル上で実現する」という制約がなくなったからだ。プレイヤーに見えない情報は自由に隠すことができるようになったし、コンピュータの処理能力のおかげでパラメータもどんどん増やすことができた。どんな面倒なルールでもコンピュータにやらせれば問題ない。そういうわけで、ゲームの規模はどんどん肥大化していった。

ゲームの規模が大きくなるにつれて、プレイヤーが状態を把握するのさえ一苦労になった。何百とあるコマの一つ一つにいくつものパラメータが存在し、それがプレイヤーに把握しきれなくなった。そこで表示を簡略化することが考えられた。あまり見えなくていいパラメータは表示を省き、画面に表示されるデータの洪水にプレイヤーが圧倒されないようにした。これは同時にゲームを大衆化するのにも役に立った。今までは膨大なデータに圧倒されないような変人にしかゲームができなかったのが、誰にでもゲームができるようになったからである。

そして今に至る。ゲームの大規模化によって様々な所に歪みが出始めている。ゲームがプレイヤーに把握できない所まで大きくなり、それをコンピュータの力で無理やり小さくして見せているからだ。結果として何をやっているのかわからなくなってしまう。

実際には、プレイヤーが把握できるだけの情報に、ちょっとだけ隠された情報があればゲームは十分面白くなる。しばらくこの問題について見ていこう。

完全情報ゲーム

ゲームにとって情報隠蔽は必須事項ではない。それは囲碁や将棋を見れば明らかだ。すべての情報が見えていても十分ゲームとして成立する。これを「完全情報ゲーム」と呼ぶ。

ただし理想論ではこうはいかない。細かい言及は避けるが、囲碁や将棋、チェスやオセロなどの「完全情報ゼロ和ゲーム[1]」では、「先手必勝」「後手必勝」「引き分け[2]」「無限に終わらない」のどちらかである。三目並べを考えてもらえばわかるだろう。極限までに優秀な二人のプレイヤーがいれば三目並べは必ず引き分けに終わる。相手の手がどうであっても、それにどう対応すれば負けないかがわかっているからである。同様に、囲碁も将棋もプレイヤーが極限までに優秀であってすべての可能な手を読み切ることができれば、結果としてゲームを始める前に結果がわかってしまう。それはもうゲームではない。

もちろん実際にはそんな事は不可能だから、囲碁や将棋はゲームとして立派に成り立っている。しかしゲーム性を揺るがす微妙な問題が一つある。一人で遊べてしまうという問題である。

対局後に、今の対局のどの手が良かったか悪かったか、あの時どう打っていればどうなったかを検討する「局後検討」は上達のためには非常に良い事だ。しかし、対局での自分の手番でやる事と局後検討でやる事は実質的に違いはない。つまり、局後検討に相手が必要ないのであれば、本番の対局でも相手は必要ない事になってしまう。

例えば一人将棋を考えてみてほしい。まず自分が先手となり、勝つつもりで一手進める。次は自分が後手になったつもりで、後手に勝たせるように一手進める。これを繰り返すのである。「先手になったつもり」「後手になったつもり」の気持ちの切替さえできれば、この一人将棋と二人でやる普通の将棋とで本質的な違いはない。これは「相手が必要である」というゲームの原則と矛盾する。

完全情報ゲームは、理想論を言えばゲームの定義から外れてしまう。非常に難しいが答えがある問題であり、壮大なパズルだ。しかし現実的にはこのような問題を解くことはできない。そしてその事によってのみゲームとして成り立つ。

無情報ゲーム

次に、完全情報ゲームとは対極にあるもの、無情報ゲームについて考えよう。無情報ゲームとは行動の判断に何の情報もないゲームである。実際にはこれはゲームとして成立しないから、こんな言葉はない。無情報ゲームの代表はジャンケンやサイコロの数当てなどである。

ジャンケンは相手に勝つ手を考えるゲームだ。相手がグーを出しそうならチョキを出せばよい。簡単なことだ。問題は相手がどの手を出すつもりなのかがわからないことだ。「相手が出す手がわからない」というのは多くのゲームで共通する事であるが、ジャンケンが特殊なのはそれを判断する情報すらないということである。

情報がないとそれぞれの手の価値判断ができない。どの手を出しても特に有利ということはないから、3つの手から適当に出すしかない。そしてジャンケンにおいてはそれが負けないための最良の戦略だ。自分が「適当戦略」を使っている事がバレても、そしてそれに対抗しようと相手がどんなに考えていても、結果は確率的な五分五分以上のものにはできない。そして情報がないためにどんなに考えてもそれより分のいい戦略は考えつかない。結果として、ジャンケンは考える事なく適当に手を出してその結果が勝ったか負けたかを見るだけのものになってしまう。

結論。プレイヤーに情報がなさすぎるとゲームにならない。

予測可能性とその不確実性

ゲームにおいて情報とはプレイヤーが未来を予測するためのものである。行動Aをとったら局面がどう変化するか、行動Bをとったらどうなるかを考え、それに対して相手がどう反応するかを考え……と「読み」を続けていき、最終的に一番良いと思った行動を実行する。これがゲームだ。

しかし、これが完全に読み切れてしまうとゲームではなくなってしまう。相手が必要なくなってしまうからだ。相手がどんな手を打ってきても必ず勝つという局面になった時点で、相手が投了してゲームは終了する。

「自分の選んだ行動によって局面を自分の有利な方向に持っていくことができる」というのがゲームの面白さの源泉である。だからこそそうなるように一生懸命に行動を考える。逆にどうやっても勝てる状態、あるいはどうやっても勝てない状態になってしまうと興味は薄れてしまう。勝負はそこでついたことにしてゲームは終了させるべきだ。

ゲームでは予測可能性、つまり自分の選んだ行動によって局面がどう変わるのかが事前にわかることが重要である。しかし勝利までの道筋がすべてわかってしまうとゲームはそこで終わってしまう。わかった道筋をたどればいいのであり、あれこれ考えることがなくなってしまうからだ。予測は可能であるがそれが完璧ではないからこそゲームが成立する。

ルールの隠蔽について

予測可能性から容易に導ける結論が一つある。ゲームのルールを隠してはいけないということだ。どんなルールに従って局面が変化しているのかがわからなければ作戦を立てることはできない。だからプレイヤーにはすべてのルールを知らせなければならない。

これは現実を正確にシミュレートしたコンピュータゲームで顕著だ。こうしたゲームではあまりにもルールが多すぎ、プレイヤーがすべてを把握することはできない。しかしプレイヤーはルールを把握しないことには作戦を立てることができない。結論として、現実を再現する事に重きを置くシミュレータではゲーム性はどうしても落ちることになってしまう。

例えばレースゲームで、気温によってタイヤの固さが変わってコーナーリング性能が違ってくるようなルールがあったとしよう。よっぽど劇的に変化しない限り、プレイヤーがそれを知らなければそのルールは気づかれないままだ。そのせいでコーナーリングに失敗しても、プレイヤーはきっと「ちょっとブレーキタイミングが遅かったかな」としか思わないだろう。つまりプレイヤーから見たらあってもなくても変わらないことになる。

「気温によってタイヤの固さが変わるのは現実にもあるのだから、それに気づかない方が悪い」という意見もあるかもしれない。しかしそれでは不十分である。シミュレータは現実をすべて忠実に再現できているものではないからだ。プレイヤーはそれが「気温が車の走りに影響する」事だけではなく、「その事がゲーム内においても忠実に再現されている」事も知っていないとその結論は出せないわけだ。でないと「もしかして連戦のためにドライバーの体力が減っていることが影響しているのだろうか」とか「もしかしてレースの時期によって使用するタイヤの製造工場が違っていたりするのだろうか」と的外れな事を考えてしまう。ゲームデザイナーがどの要素をどうアレンジしてそのゲームに取り入れたのかを結論づけることはできないから、結局「よくわからないから無視しよう」と結論付けられてしまう。

プレイヤーが知らないルールはあっても意味がない。ゲームとはプレイヤーが考える事であり、ルールはその根拠だからだ。ルールはプレイヤーが考慮に入れるためにある。ルールがわからないと何が起こるかわからない。そんなゲームで真面目に先の展開を読むことはできない。最低でも隠しパラメータにすべきだ。そうすればプレイヤーは少なくとも何が起こるのかはわかし、ルールに書いていない事は起こらないという確証を持てる。

ゲームと乱数

乱数はゲームにおいて非常にしばしば使われる情報隠蔽の手段である。「サイコロを振る」と決めた時には、サイコロで出る目はわからない。「カードを引く」と決めた時には、何のカードが引けるかわからない。先に「予測可能性がないといけない」と言ったが、これは「乱数はよくない」ということだろうか?結論から言うと、乱数は適度に予測でき、適度に不確定要素がある。どのくらいそれを活用するかがゲームデザイナーの腕である。

適度に予測可能な乱数を作る一つの方法は、大数の法則を利用することである。サイコロをたくさん振ってその合計を乱数として使えば、それは平均値に近くなる。それを何回も繰り返せば出現回数はだんだん平均値に近くなる。これが大数の法則である。[3]

もう一つの方法がカードを使う方法である。カードの場合、山から一枚ずつ引いていけば必ずそれぞれのカードが1枚ずつ引かれる。カードで特徴的なのは配られた手を見ることによって見えないカードもある程度予測できることだ。トランプを4人に均等に配ったとき、自分にハートが多ければ相手には少ないと予測できる。あるいはゲームが進んでキングが3枚捨てられたらもうあと一枚しかないと判断できる。サイコロとは違って過去の履歴を覚えておく必要があるから難しくはなるが、その分面白いゲームになる。

コンピュータゲームに乱数を使う時は注意しなくてはならない。ボードゲームとは違って使える乱数の種類に制限がないから、予測不可能な乱数をゲームで使ってしまいがちになってしまう。単にサイコロを1つ振ったに等しいような単純な乱数一つで重要な判定をしてはいけない。

ゲームとシナリオ

次はゲームにおけるシナリオについて考えよう。これもプレイヤーが知らない情報である。しかし、そもそも「シナリオ」とは何だろうか。もしそれが今まで述べた「局面」「行動」「ルール」のいずれでもないなら、それはゲームではない。例えば、ゲーム中に街の人の一人に話しかけると、そいつが何やら台詞を言ってアイテムをくれるとしよう。これは上記のどれにあたると解釈すべきだろうか。

以前挙げたTCGの例から類推して解釈してみよう。ここでいう「街の人」というのは裏返しになったカードである。プレイヤーはそれに向かって「話す」という行動をした。カードをめくって書いてある指示を読むと「街の人:話しかけると薬草をくれる」と書いてある。その指示に従って薬草をもらう。

ここに以前述べたことを当てはめてみると、「街の人:話しかけると薬草をくれる」というカードの指示はルールである。そして、そのカードがどこにあるかは局面である。たくさんカードが裏返しになっている中でどのカードがそれかというのも局面である。つまり、シナリオというのは局面とルールの混じったものである。それに対して今まで述べた事を適用しよう。ルールは隠してはいけない。街の人に話しかけた時の反応はすべてルールであり、プレイヤーが知っていなくてはならない。プレイヤーが知らない情報というのはその中からどの反応が出るかである。そしてそれもある程度の予測性がないといけない。

と考えると、ほとんどのゲームのシナリオはゲーム失格である。台詞やイベントの中身は事前に知らされていなければならないと言っているのだから。結論として、シナリオはゲームの一部と考えるべきではない。

結局、シナリオというのはゲームとゲームの間の寸劇としてとらえるべきだ。あってもなくてもゲームそのものには関係なく、ゲームに彩を添える役割である。シナリオにいくら選択肢があろうとそれはゲームではなく、次にどのゲームをやりたいかを選ぶ意味でしかない。ゲームとして見れば、スーパーマリオで面クリア時に花火がドドンと上がるのと同じくらいの重要性でしかない。

テーブルトークRPG

今までの規則にことごとく違反したゲームジャンルが一つある。テーブルトークRPGだ。TRPGの特徴は、ルールをプレイヤーが把握する必要がない事だ。

TRPGでは、極端に言えば仮想世界の世界法則がすべてルールだ。プレイヤーが取れる行動にも制限がなく、仮想世界上で可能なことならどんな行動でもできる。普通のゲームではこれは不可能だ。ゲームではルールで許される行動しか取れないし、ルールというのは事前に決まっている有限のものだから、結果として普通のゲームでは事前に決まった有限の行動の中からどれかを選ぶことしかできない。そういう意味で、TRPGはより行動の選択肢が広がったという面白さがある。

前に「ルールは隠してはいけない」と言った。ルールは事前に決まっていて、プレイヤーがそれをすべて把握していないといけない。TRPGは一見この原則に矛盾するように見えるが、実はそうではない。TRPGではルールとは仮想世界の世界法則すべてである。それが無限にあって語りつくせないだけだ。前にレースゲームの例で、「現実のうちのどの要素が実際に取り入れられているかわからないのが問題だ」と言った。TRPGではこの問題は起きない。現実のすべての要素が取り入れられているからだ。

これを可能にするTRPG独特の機構が「ゲームマスター」である。彼はルールの生き字引である。プレイヤーは彼にルールを聞けば何でも教えてくれる。だからプレイヤーは無限にあるルールをすべて覚えるという(不可能な)苦労をする必要はなく、ルールは必要に応じて聞けばいい。そのルールがルールブックになければゲームマスターは自分の裁量で新たに作成する。ルールが必要に応じて作られるから、ルールが無限にあっても機能する。そしてプレイヤーはルールを聞いた上で戦術を考えればよいのである。

現実とルールが食い違った場合、TRPGでは現実の方が正しいとされる。ゲームマスターはルールが現実に合うように適切にルールを補ったり修正を加えたりする。これはゲームマスターが一方的に行うのではなく、プレイヤーの方でも、ゲームマスターが言ったルールが現実と食い違うと思ったら修正を要求する。例えば「このキャラは建物の陰に隠れているのだから、矢の防御に修正があるはずだ」というように。そしてゲームマスターはそれが理にかなっていると判断したなら言う通りにルールの方を修正しなくてはならない。

このシステムは、「現実はプレイヤー全員にとって周知の事実である」という仮定によって成り立っている。石を投げたらどのくらい飛ぶか?人間の走る速さはだいたいどのくらいか?こういった問いに対する答えは一つであり、議論の余地のないものである。プレイヤーはこうした問いの答えを「常識」として皆知っている。だから「常識」イコール「ルール」である限り、プレイヤーはルールをすべて事前に知っていると言える。すべての人が知っている「常識」をベースにしてゲームをするなら、ルールをいちいち明文化しなくても問題は起きない。ルールは必要になったらその都度常識に合うように作ればいいのだ。

まとめよう。TRPGでは「ルール」イコール「常識」だ。そしてこれはプレイヤー全員が予め知っている。TRPGではゲームマスターがいて、常識をゲーム上のルールに置き換える役割をする。そして、ゲームマスターと双方向にやりとりができるからこそTRPGはゲームとして成り立つ。逆に言えば、ゲームマスターと緊密なコミュニケーションが保てない場合にはTRPGはゲームとして成立しない。

相手の行動の推測

相手のプレイヤーが考えていること、あるいはしようとしている事はわからない。相手と同時に行動するタイプのゲームではこれが重要になってくる。対戦格闘ゲームがこれだ。多くのゲームでは、例えば打撃技に対しては防御、防御に対しては投げ、投げに対しては打撃が有効だ。

しかしこれだけでは単なるジャンケンであってゲームにはならない。対戦格闘ゲームには、時と場合によってそれぞれ有利不利がある。投げが得意なキャラクタがいたり、打撃技で一発逆転が狙える状況だったりする。そのような時、誰しも自分に有利な手を積極的に狙っていく。しかし、相手の手を予想して適切な対処をすれば、それだけで相手より有利にゲームを進められる。

しかし、相手の手を読まれる事をも予想して、さらにその上を行くことも考えられる。相手もさらにその上を予想して……と、どこまで行ってもキリがない。これはジャンケンでさんざん繰り返されてきた事だ。結局何も考えずにランダムに手を出すしかないのだろうか?

いや、「ランダムに」というのは正しいが、「何も考えずに」というのは正しくない。理論的にはある行動をある確率で選ぶという戦略にすべきだ。なぜなら、ワンパターンな行動では相手に見破られてしまうからである。行動が予想されると不利になる。だから、相手が見破ることのできない乱数を取り入れるべきだ。しかし、それぞれの手をどんな確率で選ぶかというのは考えないといけない。ジャンケンと違ってそれぞれの手で条件が違うからだ。投げが得意なキャラなら打撃技も混ぜつつ投げを高い確率で選ぶようにする。どのくらいの確率で混ぜればいいのかは、自分のキャラと相手のキャラ、そして相手の性格によって変わる。それを考えることで「ゲーム」になる。

この種のゲームには、理論的には「ミニマックス解」という最適解がある。双方がお互いを負かすために最善をつくせば、どの手をどの確率で選べばよくてその結果どのくらいの確率で勝つかである。これは一方のプレイヤーだけの戦略の話ではない。双方がお互いに最善をつくした時の双方の勝率の話である。

ミニマックス解というのは「均衡点」である。将棋や囲碁の場合と違って、ミニマックス最適解をプレイしていれば常に勝てるというわけではない。あなたがミニマックス最適解に従ってプレイしていても、相手にはそれに上回る戦略がある。しかし、その相手の戦略に対しても対抗手段をとることができ、その結果相手は損をする。結論として、双方が最善のプレイをする限りどこかの解に落ち着く。これがミニマックス解である。

つまり、ミニマックス解というのはあくまで「相手が最善のプレイをするなら」という仮定の上で成り立っている話である。しかしあなたがもしそう思い込んでいるなら、相手は最善のプレイをしない事であなたを負かすことができるのである[4]。ボードゲームをやり込んだ人なら、「普通に考えたら明らかに不利な手をやられて負けた」という経験もあるだろう。こんな場合に相手を非難する人もいるがそれは筋違いだ。ルールで認められている以上、勝った人が勝ちで負けた人は負けだ。

相手の戦略を推測するのはこのように奥が深い。だから面白い。

ランダム戦略のジレンマ

相手の戦略を推測するのは面白い。しかし、この面白さをだいなしにする方法がある。それは戦略を持たないことだ。何も考えず、ただランダムに手を出すことである。相手が何も考えていなければその行動を推測することはできない。

ランダム戦略の代表はジャンケンである。プレイヤーがランダムに手を出すように決めた瞬間から、それはゲームではなくなってしまう。相手の行動を推測することができなくなり、自分も考えることがなくなってしまう。

正確に言うと、ランダム戦略とは単にランダムに自分の手を出すだけではない。「自分はランダムに手を出す」と宣言し、相手の手は見ず、相手とは無関係にゲームの手を選ぶ。これでは「相手がいる」というゲームの特徴が無意味になってしまう。ゲームではなくなってしまうのだ。

ダウト系でこの問題は起きやすい。「自分の手を見て、その手の通りプレイするか嘘をついて違うものをプレイするか決める。他のプレイヤーはその嘘を見破る」というタイプのゲームで、自分の手を見ずにプレイする手を決めることだ。その手が嘘かどうかはプレイした本人にもわからないから、嘘を見破るには運に頼るしかない。すると完全に運だけのゲームになってしまう。[5]

カードゲームで、自分の手をシャッフルしてランダムに出す人がたまにいる。これも同じようにランダム戦略であり、ゲームを台無しにしてしまう行為だ。ただ、ほとんどのカードゲームではこれはあからさまに不利な行為なので、あまり問題にはならない。「何も考えなければ負ける」ゲームなら問題はない。プレイヤーは負ける事はしないからだ。問題は「何も考えなくても勝つ確率が減らない」ゲームである。

この現象が起きるゲームは、普通に考えるほど少なくはない。いくつかのゲームで起き、そのせいでゲームはつまらなくなってしまう。しかしそのプレイヤーを責めてはいけない。ゲームではどんな手をとってもいいのであり、それでつまらなくなってしまうとしたらそれはゲームのルールが悪いのだ。

まとめ

ゲームは考える遊びだから、考えるための情報がないといけない。しかしすべての情報が与えられてしまうと、理論的な最適解が存在することになり、ゲームというよりパズルに近いものになってしまう。

適度に情報が隠される事で、プレイヤーはその情報を推測することができる。それによってゲームはより複雑になり考える幅が広がる。相手の戦略を考えるのは奥が深く面白いゲームになる。ある程度予測ができ、それでいてある程度の不確実性があるのがよい。

しかしルールを隠してはいけない。ルールというのはゲームデザイナーが勝手に決めるものであり、推測しようにも必然性がないからである。隠されたルールがあることすらプレイヤーは知りようがない。だからそんなルールは無視されるか、あるいはイカサマをしているとしか思われない。ルールとして提示された以外のことはしてはいけない。


  1. 「ゼロ和」というのは、自分と相手の利益が相反するということである。つまり相手が勝ったら自分は負けであるということだ。多くのゲームがそうである。

  2. これは「引き分け」がゲームのルールに定義されている場合に限る。

  3. これをうまく利用したのがボードゲーム「カタンの開拓」である。

  4. ここが将棋や囲碁などの完全情報ゲームと違う点である。将棋の最善手は相手がどんな手を打ってこようと常に最善であり、相手が最善手以外を打ってきたら必ず有利になる。

  5. マイナーなゲームで恐縮だが、「チャオチャオ」というゲームでこの現象が良く起きる。このゲームはダイスの目の通りにプレイするか嘘をつくかをプレイヤーが決め、その嘘を見破るというゲームだが、ダイスの目を見ないという戦略がかなり有効だ。それをしてしまうと単なる運のゲームになってしまう。