ゲームとは何か

ゲームとは何か。そしてゲームはなぜ面白いのか。

ゲームの思考

ゲームとは相手を負かそうとあれこれ考えることを楽しむものである。しかしただ考えるだけではない。今までに述べたゲームの特徴を踏まえるとゲーム独特の思考パターンが抽出できる。

ここではそうした「ゲームの思考パターン」について話をする。ここで述べる思考パターンこそが「ゲーム性」の本質であり、これを欠いたものはゲームではない。

最善手

ゲームの思考パターンの大前提が「最善手」という考え方である。つまり、数ある手の中で一番勝ちに近づく手を探し出すというものである。これは「勝つことが目的である」というゲームの原則から導き出されるものである。

最善手を考えるためには当然ながら前提が必要である。まず目的がわかっていないといけない。そしていくつかの可能な手がなくてはならず、それを自由に選べなくてはいけない。

この原則から、いくつかの遊びがゲームから分離できる。まずお絵描きや積木やなんとかシミュレータといった類いのものは目的がないからゲームではない。サイコロを振って前に進むだけの双六[1]は選択ができないからゲームではないし、ビートマニアもタイミングよくボタンを押すという選択しかないからゲームではない[2]

「最善手を考える」という思考パターンがゲームの基本である。そしてそれには目的が必要であり、そこに近づくための「手」が必要である。そしてどんな手が良いかを考えるという行為がゲームにおける思考様式である。

ゲームとパズル

ゲームと呼ぶには、最善手を考えるだけではまだ不足である。単に最善を考えるというだけなら「どの答えが正解だろうか」と考えるクイズもゲームになってしまうし、「このマスにはどの文字を埋めるのが最も良いだろうか」と考えるクロスワードパズルもゲームになってしまう。

パズルとゲームの違いは目的である。前者が解を求めるのを目的としているのに対し、後者は勝つことを目的にする。これは、ゲームの場合は絶対的な解答を求めるのが非常に困難で、ほとんどの場合不可能であることに起因する。

ゲームではプレイヤーは絶対的な最善手を出す必要はなく、勝つのに充分な手さえ求めればよい。しかしこれを「絶対的な最善手はない」と勘違いしてはならない。ゲームでは絶対的な解答はある。ただ人間がプレイ時間内に答えを出すのは不可能だというだけだ。後でまた述べるが、絶対的な最善手のないものはゲームではない。

パズル的思考でゲームにのぞむと、「下手の考え休むに似たり」という状態に陥りやすい。これはゲームなのに解を出そうとするからである。逆に、ルールが複雑でややこしいゲームは「頭が痛くなるゲーム」と称されて敬遠される[3]。パズルの思考とゲームの思考は違うものであり、パズルと違って複雑で考えることが多いのが面白いのではない。ゲームの褒め言葉は「シンプルで奥が深い」というものである。考える事自体は少なくてよい。何を考えるかが問題なのである。

読み

パズルは解を見つけたらそれで終わり、つまり問題が与えられたらそれに解答してそれで終わりなのに対し、ゲームはそうではない。自分の手が場に影響を与え、そしてまた次にその変化した状況に対して「どうしたらいいか?」と問題がやってくる。

これが一般に「読み」と言われるものだ。単に問題の解答を求めるものではなく、自分のとった手が世の中にどう影響するか、そしてその結果次にどんな問題に直面するかを考えることがゲームの要件である。ゲームはこれを繰り返すことによって進んでいく。

先程「パズルは解を見つけたらそれで終わり」と述べたが、これは厳密には正しくない。面白いパズルには読みの要素があり、自分の埋めた解答によって徐々に問題が解けていく。クロスワードパズルがよい例だ。ある一問に答えることによって、マスが埋まり、別の問題の答えがわかるようになる。これを繰り返すことによってクロスワードパズルを解いていく。

ゲームとパズルを分けるものは、読みの有無ではなく後戻りの有無である。パズルの場合、間違っていたら後戻りをすればよい。間違っていた個所を消して、また新たに始めればよい。ゲームではそうはいかない。一度手を決めたら変えることはできない。よく「人生にはゲームと違ってリセットボタンはないんだ」と言う人がいるが、リセットボタンがあるものはゲームではないのだ。

ゲームでは後戻りはできない。だからゲームではパズルにはない「確実性の評価」が必要になる。危い橋を渡るか、石橋を叩いて渡るか。将棋にも「寄せは俗手」という格言がある。ゲームはパズルと違って最善手を打つのが目的ではなく、勝つのが目的である。そして一番勝つ確率が多くなる手を考える。神様が考えれば正解はあるのだが、それは人間にはわからない。正解は「ある」のでも「ない」のでもない。これがゲームの面白さである。

三手読み

ゲームとパズルを確実に分けるものが「敵がいるかどうか」である。ゲームには何人かの敵がいて、自分と同じように勝利を争っている。しかしただ争っているだけではない。自分のとった手が相手に影響し、相手のとった手もまた自分に影響する。

読みの基本は三手読みである。自分がとる手、それに対して相手がとるだろう手、それに対する対抗策と三手先を読み、その結果が勝ちに近付いていなければならない。三手読みは口で言うと簡単だが実行すのは案外難しい。ある手に対して相手の対抗手段はいくつかあり、そのすべてに対して三手目を考えないといけないからだ。考えることが格段に増える。複雑な初めてルールを覚えたゲームでは、三手どころか一手目の結果すら見通せていなかったりする。三手読みをバカにしてはいけない。

初心者は将棋を打つときにやたら王手や飛車取りの手を打ちたがる。これは一手しか見ていないからである。盤面だけ見ると、相手の飛車が取られそうになっていていかにも自分が有利に見える。しかし相手は当然飛車を逃がすわけで、そうなってみると実はかえって不利になっていたりする。初心者は、相手もまた自分と同じように考えて行動しているのだということを忘れがちだ。

つまり、ゲームでは自分の手が相手に影響し、相手の手がまた自分に影響する。これによって、ゲームは正解を探すという受身の行動ではなくなる。自分の手が状況を変えるのだ。

戦略

単に最善手を探すというだけではゲームの思考としては不足だ。人間には完璧な最善手を考え出すことはできないし、よっぽどのプレイヤーでない限り数手程度しか先は読めないのだから。「状況をただ分析して対処するだけではなく、自分から状況を作り出していく」これがゲームの面白さである。つまり、「勝てる手を見つける」のではなく、「勝てる手が見つけやすいように状況を変えていく」のである。その場で一番いい手ではなく、将来の状況を見据えた手を打つ。これが「戦略」である。

戦略という考え方を導入すると、「読み」も一通りではなくなる。今までは読みの目標は「最善手」だった。しかし「戦略」を導入すると最善手はどうでもよくなる。しょせん人間には最善手を考え出す能力はないのだ。その代わりに、勝てる手が見つけやすい状況にどうやったら持っていけるかを考える。

「勝てる手が見つけやすい」状況はまず「勝ちに近い」ということが第一条件になる。「どうやっても勝てる」というのが一番「勝てる手が見つけやすい」状況だからだ。それ以外の話になるとプレイヤーによって違ってくる。選択肢が少なくてわかりやすい方が見つけやすいかもしれないし、勝てる手がどこにもないという状況を避ける方が見つけやすいことにつながるかもしれない。「見つけやすい」は主観であり、プレイヤーがそれぞれ好きに考えることができる。

つまり、戦略とは、勝てる手を見つけやすくするために状況をどのように持っていくかを考えることである。これは計画の楽しさである。「どこへ旅行に行こうか」というのと同種の楽しさである。

主導権

ゲームでは相手が存在するため、自分の思ったようにゲームが運ぶわけではない。いくら計画をたててもゲームがその通りに進まなければ意味がないわけだ。そこで重要なのが主導権である。つまり、自分が思ったように事を進められるようにすることが重要になってくる。

主導権をとるということはつまり相手を攻撃する側に回ることである。「先手をとる」ともいわれる。先に攻撃すれば、相手はまず防御をしなくてはならない。攻撃側は自分の好きな場所を攻撃できるし、攻撃しないという選択もある。それに対して防御側は(もし守らないことが即負けにつながるのであれば)守らないという選択はない。相手が攻撃してくる場所を守らず、他の場所を守るという解も(ほとんどの場合)ない。攻撃側は好きなように行動を選べるのに対して、防御側は行動を自分の好きに選ぶことはできない。

主導権をとってゲームをするのは面白い。しかし気をつけなければならないのは、多くのゲームでは攻撃側が損をするように作られていることだ。主導権をとって面白く暴れ回ってみても、ふと気がつくと相手にはほとんど損害がなく自陣ばかりボロボロになっていたりする。[4]

主導権をとることは「自分の思ったように事を運べる」というメリットがある。だからみな主導権をとりたがる。しかし主導権を維持することは難しい。そして、主導権をとりながら確実に勝ちへ向かうのはもっと難しい。主導権をとることが手段ではなく目的になってしまいがちだからである。ゲームは勝つことがすべてだ。「面白ければよい」ではいけない。だから、時には主導権を放棄しなくてはならない。それもまたゲームだ。

勝手読みとハメ手

「戦略」で勝ちに向かう計画をたて、「主導権」をとってそこに向かうことができるようになったとしよう。ここでプレイヤーがよく陥る落し穴が「勝手読み」である。勝手読みとは、「相手はこう動くだろう」と相手の行動を勝手に決めつけることである。「自分がこう打つと相手はこう来るはず、それに対してはこう打てるから丸得だ」などと喜んでいると、相手が違う手を打ってきてひどい目にあったりする。「こう来るはず」が間違っていたのだ。

パズルのような逆算思考で考えると勝手読みに至りやすい。すなわち「ここに飛車を打ちたいのだが、今の状況では敵のあの駒が邪魔だ。ならばここに歩を打ってあの邪魔な駒を動かしてしまえばよい。」こう思いつくと、三手読みを実行しようとした時、「歩を打つ」という第一手に対して「邪魔な駒が動く」という第二手しか思いつかなくなってしまう。これが勝手読みである。「こうあってほしい」という将来の姿が存在してしまうので、どうしてもそこから離れられないのだ。逆算思考自体は悪くないのだが、それと三手読み自体はまったく切り離して考えなくてはならない。これがまた難しいからゲームというのは面白い。

勝手読みはプレイヤーのミスだが、それを意図的に行うのが「ハメ手」だ。ハメ手とは、相手が正しい応手を打たないと非常に有利になる手のことだ。そしてまた、相手が正しく応ずればかえって不利になる。不利になるかもしれないことを承知で打つのがハメ手である。ほとんどの場合、この「正しい応手」が非常にわかりにくかったり意外な手だったりする。

もちろんゲームである以上どんな手でも打っていいわけだが、ハメ手は相手をバカにした行為である。「相手はこのハメ手の応手を知らない」ということを前提にしているからだ。もし本当にそうだとして、ハメ手で勝ったとしてもそれは相手のレベルが低かったというだけだ。本当にうまいプレイヤーにはそんな手は通用しない。

ハメ手というといかにもインチキ臭いが、これに似た構図はゲームにはよく出てくる。「ここにおとりを置いて、相手がそれに引っかかっている間に本隊で相手陣地を攻略だ」などというのは、面白い戦略に見えるがハメ手である。相手がそれに引っかからなかった時のことを考えてないからである。良い戦略とは、相手がどう動こうとも自分に有利に働くような戦略である。

相手が自分の思い通りに動くのなら、相手がいる必要はない。相手が自分の思惑とは違った動きをするからこそ面白いのだ。相手の動きを勝手に決めつけて、その通りに動かなければ自分が負けるというのでは、それはゲームではなく単なる博打である。相手がどう動こうとも対応できるようにするのが「読み」であり、ゲームの面白さである。

まとめ

単にプレイヤーに考えさせるだけでゲームになるのではない。ゲームの楽しみは微妙なもので、そこを外すと「確かに面白いがこれはゲームという感じはしない」というものになってしまう。ゲームの概念は一言で言い表すことはできない複雑なものだが、ここでなんとか言い表そうと努力してみた。微妙なニュアンスを感じとっていただけたら幸いである。


  1. 念のため補足しておくが、ゲームではないと言っているのは「サイコロを振って前へ進むだけの双六」である。そうでない双六もある。

  2. スコアのためにあえてチップを無視したりタイミングを遅らせるというワザもある。しかし、ビートマニアの本質はあくまでタイミング良くボタンを押すことにあり、こうしたワザは本質ではない。ゲームでないものをわざわざゲームにする必要はない。繰り返しになるが、ゲームだからといって偉いわけではないし、ゲームでないからといってつまらないわけでもない。

  3. こういうのを好んでやる人々もたくさんいるのだが。

  4. このあたりはフンタで大統領になってみればよくわかるだろう。