おたくの歴史

おたくの考え方を歴史から探る

おたくの理想

前の章をまとめると、おたくは「進歩しろ」という古い価値観と戦ってきた。「お前らの言っている『進歩』というのは形だけで中身がないんだよ」と反論した。そして、進歩とは何かを自分で考えようとした。自分あるいは自意識を一番大事にする考え方を確立した。

おたくが「自意識過剰」と呼ばれるがその通りだ。自意識というのは大切なものだ。世間に流されず、しっかり自分を見定めるためのものだ。おたくの前の世代は自意識がなさすぎた。世間の流行に流され、自分で考えることもせず、マスコミが言ったことをただ繰り返すことしかできなかった。おたくは自分で考えることと自分で評価することの大切さを叫び続けたのだ。

進歩とは何かを自分で考えるという考え方が確立すると、次は進歩とは何かという答えを出す番だ。

おたく的価値観の矛盾

おたく的価値観は矛盾を内包する。「世間に従わなくてもいい」と言ったけど、本当にいいのか?という疑問である。おたく原理は、主観を大事にして客観性を排する仕組みである。自分がいいと思ったものは何でもよく、自分が悪いと思ったものはとにかく悪い。この原理はトートロジーである。トートロジー論理は否定されることもないかわりに肯定されることもない。何が進歩なのかを自分で勝手に決めていいのなら、そんなものに答えを出す意味はあるのだろうか。

おたく原理は世間が自分たちを否定することに対する反発から始まった。だから当初は「否定されることはない」利点しか見ていなかった。そして否定されることがなくなってよくよく考えてみると、否定されない代わりに肯定もできないじゃないかと愕然となった。おい、本当にこれでいいのかよ、と不安になった。

不安を解消するために始めたのが、おたく同士の横のつながりである。おたく同士で「俺はこれをいいと思うが、お前はどうだ?」と聞き合った。そして他人が何を「いいもの」だと思うかを知り、自分なりに「いいもの」とは何かを見出だそうとした。

主観に根拠を求めたのである。いいものに対して、なぜいいのだろう、どこがいいのだろうと考え始めた。

アニメとSF

自分の観点からいいものを見つけようと思ったおたくが真っ先に飛びついたのがSFだった。SFとは「科学という枠組以外の一切の制限を取り払った物語」である。そして科学とは「根拠があって正しいこととされているもの」である。

「大人は結婚しなくてはならない」というのは根拠のないルールだ。地球上をくまなく探せば、結婚という概念のない部族がいるかもしれない。おたくはこうした根拠のないルールを否定した。しかし万有引力は根拠のあるルールで、地球上いや宇宙上どこを探しても万有引力のない所はない。根拠のないルールをどこまでも否定して、根拠のあるルールだけでお話をつくろうとしたのがSFというジャンルだ。

SFの舞台は異世界である。異世界というのは現代日本のルールが通用しない世界だ。いや、現代日本だけではなく既存のどこの国のどのルールも通用しない世界である。異世界を設定するということは既存のルールをすべて否定するということだ。既存のルールをすべて否定してみて何が残るかという思考実験なのである。これがおたく原理にのっとったものであることは言うまでもない。

なお、ファンタジーはSFの分派であり、よりラディカルなグループだ。SFは「万有引力は否定されることのないルールだ」と仮定したが、ファンタジーはそれすら否定する。ファンタジーの方がよりおたく的な分野である。

おたくにとってSFはなくてはならないものであり、必然的に異世界であることが要求された。しかしそれは映像化という面ではマイナスだった。この世のどこでもない世界を実写で撮影することは不可能だったからである。そのために特撮技術が発達し、数々の名特撮映画が生まれた。しかし、お金もかかるしやはりどこか作り物臭かった。

この問題を解決したのがアニメである。アニメはどんな世界でも描くことができた。アニメなら宇宙だろうが他の惑星だろうが簡単に描けたし、アメーバ状生物や変身生物などこの世にあり得ないものも簡単に描けた。いくつもの名作SFアニメが作られた。

おたくにとってSFは必然であり、SFはアニメで表現することが必然だった。おたくがSFアニメを見ることには理由があったのである。

「燃え」の発見

おたくが集まると、あのアニメがここがすごい、ここがいいと激論が交わされた。皆自分なりにどこがいいのか、なぜいいのかを他人に説明しようとした。もちろんそれは感性の問題だから、なかなか他人には伝わらなかった。しかしいくつかの「よいポイント」が見つかった。

例えば、ザクが大写しになってモノアイがビンと光るところがかっこいい、ズゴックがジムの頭を片手で握りつぶすところがかっこいい、あるいはロボットを無数のミサイルが白い航跡を残しながら追っていくところがかっこいい、というようなことである。あくまで「自分の感性だけに従って」と言っていたおたくも気がついた。かっこいい場面というのは自分だけではなく誰しもかっこいいと思うのだ。

つまり、トートロジーで何も証明していないかのような自分の価値観には実はどこか共通する普遍性があったのである。これを「燃え」と呼んだ。「燃える場面」とは、誰もが良いと評価する場面や設定のことである。

「燃え」が発見されると、皆は燃えるものを紹介し合い、燃えるものを共有しようとした。同人誌を作り、そこに自分がかっこいいと思った(燃えた)場面を描く。これは燃える場面を紹介することでもあり、また自分が燃える場面を追体験することでもある。

その集大成が山賀博之監督の「DAICON4 オープニングアニメーション」である。これは、とにかく燃える場面や要素を放り込んだという意味で、おたく第二世代の夢のフィルムとも言えるものである。数分のショートフィルムなのだがとにかくすごい。このフィルムの偉大なる発見は、「ストーリーも脈絡も何もかも無視してただ面白いものを突っ込んだだけで面白いものができあがる」というものである。

これは今の人が見てもどこがすごいのかわからないかもしれない。このフィルムの存在理由は、当時すべてのおたくが共通に素晴しいと思ったものを余分な所なく詰め込んだことにある。だからこのフィルムは元ネタを知らないと楽しめない。よくわからなくてただ漠然と面白いと思っていたものが整理されて目の前に提示された時の感動だ。当時のおたくの夢が具現化されたのだ。だから「おたくの夢のフィルム」なのである。

面白いものを作る方法論

面白いものはいつ見ても面白いし、繰り返し見ても面白いし、何が起こるかわかっていても面白い。ドリフの後期からひょうきん族へ続く流れである。普通の話に意外なオチを持ってくるのではなく、意外な話にいつものオチを持ってくる。つまり、ストーリーが用意されていてそこに入れるべき面白いものを考えるという作り方ではなく、面白いものが既に用意されていてそれを生かすストーリーを考えるという作り方になった。メカと美少女というのがまずあって、それを生かすストーリーを考えるというやり方だ。

テンションの配分ということも考えられなくなった。昔はストーリーをまず考えて、そのどこを面白くしようと考えた。だから面白い個所はいくつもあったが連続してはいなかった。今では逆の発想で、面白いものを用意してそれをどうつなぎ合わせるかを考えるようになった。だから面白いものが連続するようになった。最初からテンションが上がりっ放しで、息継ぎをしなくても最後まで持っていけるようになった。「ジェットコースタードラマ」という言葉も生まれた。面白いものをこれでもかとぎゅうぎゅう詰めにしたものがもてはやされた。それらは事実面白かった。

まとめよう。おたく第二世代の特徴は、燃えの発見によって「良いもの」が客観的に明らかになったことだ。売れる方程式ができたのである。面白いものを作る文法に従えば面白いものができた。腕の見せどころはその文法をどう適用するかである。

いわゆるハリウッド的映画である。「スターウォーズ」が典型だろう。感性だけにのっとって映画を作るのではなく、過去の映画を分析してその面白いところを研究するということを始めた。面白い映画の作り方がわかったせいで、皆がそのやり方に従って面白い映画を作った。

パクりとオマージュ

こんなことは、今だったら「パクりだ」と言われて非難されるだろう。しかし、この頃にはそんな言葉はなかった。パクりは悪いことではなく、むしろ誉められるべきことだったからだ。彼らがした作業は、既存のものの中から「燃え」のエッセンスを抽出する作業だった。これは十分に知的で才能のいる仕事だったのである。そして、あるものからパクったということは、そのあるものに「燃え」のエッセンスがあったということであり、それはそのものを面白いと称賛していることにあたる。

例えば、熱帯の林が突然割れて中から滑走路が出てくるところはかっこいい。しかし、これをそのまま真似するのではなく、このシーンのどこを捨ててどこを残さなければならないのかを考えなければならない。「熱帯の林に滑走路がある」ではなく、正しく「何かが割れて中からマシンが出てくる」をだけを抽出して、プールが割れて中からロボットがせり上がってくるようなシーンを作るのが才能なのである。

「燃え」とは、面白い作品から個性を抜いて、不要な部分をすべて削り抽象化したものである。抽象的なものだからもう誰のものでもなく自由に使える。しかし抽象的なものをそのまま出すわけにはいかないから、いろいろと自分なりに肉付けして出すわけである。これが当時のいろんなものの作り方だった。

「燃え」の考え方からするならパクりは非難されるものではない。面白さに理由と必然性があるなら、似たものになるのは仕方がないのである。面白さに普遍性があるのなら、そして面白さにパターンがあるのなら、そのパターンにのっとっていないと面白くないのなら、面白いものを作ろうと思ったらそのパターンを使わないといけない。答えが一つしかないなら誰が解いても同じ答えになる。

「燃え」の発展

燃えの特徴は、何回見ても面白いことである。同じビデオを何回も何回も、セリフを全部暗記するまで見た。それでも飽きることはなかった。結局、それは未知のものや意外なものを知る喜びではなかったのである。もっと直接的で、何らかの光と音のパターンによって脳の中の快楽中枢にスイッチが入って無条件に面白いと思うようなものだったのだ。各地で「上映会」が開かれた。その面白さに感動して、「自分も同じようなものを作ってみたい」と思うようになった。

面白いものの作り方がシステマティックに整理されたおかげで、あとは速かった。同じような文法に従って同じように面白いものがいくつもいくつも出てきた。以前は毎回毎回同じものを見るだけだった「上映会」が、違うものをとっかえひっかえ見るようになった。違う視点から燃えを見るのもまた燃えの研究にはよかった。

燃えの経験が積み重なると、燃える場面はさらに有利になった。誰かが誰かの顔を片手でつかむシーンを見るだけで、あの名場面やこの名場面やその名場面が頭をよぎるのである。本来のシーンが持つかっこ良さに加えてそれらすべての名場面の感動が加わるのだからこれは面白さ倍増だ。そして元ネタに似ていればこれはそれだけ有利に働く。

このようにして、既存のもののシーンや設定の流用とつなぎ合わせだけでいくつもの作品が作られるようになった。それらは後発でいいとこ取りをしたものだったから、既存のものよりずっと面白かった。

メディアの限界

おたくは一般大衆が勝手に真理だと言うものを捨てて、独自の真理を探し始めた。そして探索の結果、独自の真理を見つけた。それはおたくの勝利であると共に敗北でもあった。「客観的な価値はない」と主張したおたくだったが、客観的な価値を見つけてしまったのだ。「皆がいいと言うものは信用しない」と言っておきながら、ガンダムを皆が見て「あれはいいものだ」と言った。自己矛盾である。

過去の名場面の後押し効果によって、過去の評価が高いものの方が低いものの方より価値があることになってしまった。これは昔の一般大衆と同じじゃないか。外の世界を否定してひたすら内の世界を探究していくうちに、いつの間にか外に出てしまっていた。

自分たちの作ってきたものは実は既存のもののつぎはぎだけで、何ら新しいものは作っていないことに気がついた。作っていないというより作れないのだ。アニメという手法が使われすぎて、既存のものに似ていないものを作ることは不可能になった。

今まで「アニメ」という特定のジャンルでのみ語ってきたが、これはアニメ界だけの問題ではない。なぜなら、アニメは当時のどのメディアより範囲の広い表現形態だったからである。アニメは人間の五感のうち最も重要な二つの感覚を自由に作り出すことができる。それ以外の感覚を利用しようという試みがいまだに遊園地のアトラクションレベルから外に出ないことを見ても、これはある意味究極のメディアだ。それに、この問題はおそらく嗅覚や触覚を提示できるようになっても解決することができない、メディア文化そのものにつきつけられた究極の問題なのである。アニメに限界が来たのではなく、今までの文化全体に限界が来たのだ[1]

お約束の否定

それ以来、ポジティブな意味を持つ「燃え」はネガティブな意味を持つ「お約束」と呼ばれ、批判の対象となった。既存のものをつぎはぎする手法には限界が見えてきたからである。だから、それをいまだにありがたがっている一部の人達を批判する。お約束のつぎはぎはもう腐るほどやってきて、それはそれでなかなか良いものだったが、その繰り返しでは進歩がないことを知れ、というのだ。

「お約束」を批判された人は、「だって、○○も××もお約束だったじゃないか」と反論する。その通りだ。その当時はそれでよかった。今でも昔と同じことをしていていいというのが間違いなのだ。○○や××が称賛されたのは、お約束を使ったからではなく、お約束という手法を自分で発明したからだ。偉大な発明者とそのおこぼれにあずかっている自分を同一視するな、というわけである。

当時、いろんなものに対して「マニュアル」がさかんに作られた。デートコースのマニュアルとか、服装のマニュアルとか、あるいは就職のマニュアルや就職先のマニュアルもあった。ある問題に対して最適な手法を開発して皆がそれに従うという方法である。いかにも一般大衆的ではあるが、一般大衆的なものを最も嫌っていたおたくでさえその手法を踏襲してしまっていた。それに気づいて自己嫌悪に陥ったわけである。

おたくは、世間が正しいとする「価値」を否定し、価値とは何かを一生懸命考えた。第二世代がその後を引き継ぎ、正しい「価値」のあり方をついに見つけ出した。しかしそれは自分たちが昔でいう「世間」にとって代わっただけのことだった。同じ論理を使えば、自分たちの「価値」もまた否定されてしまう。この矛盾に気がついておたくは沈んでいったのである。

機械仕掛けの価値

おたく達は一生懸命になって自分たちの信じる良いものを追及した。そしてそれを発見した。そればかりではなく、その背後にある単純な方法論まで見つけてしまった。良いものというのはそんなに素晴らしいものでも特別なものでもなく、「良いもの製造機」にかければいくらでも出てくるものだった。

自分が追い求めた「価値」とか「世界」はそんなに難しいものじゃなかった。貴重な青春を費して探していた労力がバカバカしくなるほど簡単なものだった。


  1. ちなみに、SF界も同じ事を悩むようになる。SFが行くところまで行きついた(と皆思ってしまった)。「SFの役目は終わった」などと言い出す人も現れてよく論争になる。 ↩︎