おたくの歴史

おたくの考え方を歴史から探る

おたくと萌え

キャラクターという概念が生まれて、自我は関係であるとされた。すると次の問題は、その自我は連続なのかどうかである。

まあ、そういう堅い話はまとめの部分以外で言わないことにしよう。アニメは一つの壁にぶち当たっていた。今までアニメは「形式」だった。「SFアニメ」「ファンタジーアニメ」「魔法少女アニメ」であり、SFアニメが好きな人ならばSFアニメは全部同じものであると解釈した。ガンダムが好きならマクロスもボトムズもザブングルも見た。1話を見たら2話を見るのと同じように、あるアニメが終わって同じ時間帯に次のアニメが始まったらそのアニメを見始めるのが当たり前になっていた。

しかし、アニメは形式はなくキャラクターだということになると、キャラクターが違えば別物だということになる。1話を見たら無条件で2話を見ようとするのはそれが続き物だからである。しかし続き物でないなら無条件で見る必要はなくなった。

マーケティング的に言えばこれは困りものである。あるアニメのファンをどうやって次のアニメに引き継いていけばよいのだろう。

アニメキャラクターの矛盾

この問題は、ドラマや映画には起きなかった。ストーリーや役の他に「俳優」という実在のものがあったからである。ある映画が当たれば同じ俳優を使った次の映画も当たる。「ブラピ」「レオ様」「ヨン様」と、ファンは横滑り的についてきてくれた。

しかし、俳優とアニメキャラには大きな違いがある。俳優と違ってアニメキャラは(当然のことながら)他の作品には出ない[1]。映画では映画の役と俳優という二つの顔があるが、アニメキャラには役という一つの顔しかない。

つまり、アニメキャラには永続性がないのだ。あるドラマが当たってヨン様人気が出たら、ヨン様を使って別のドラマを作ればよい。しかし、いくらガンダムが当たったところで、アムロが別の作品世界に登場することはあり得ない。

ガンダムが当たってその続編となるZガンダムが作られた時には、主人公も周りの人もがらりと変わった。ストーリーを重んじる場合にはこれは当然である。ガンダムはアムロの葛藤と成長を描くドラマだった。そして本編を通じてアムロは成長した。とすると、もう同じようにアムロの成長を描くことはできないのだ。だから、他の人を主役に仕立て、別人の葛藤と成長を描くしかない。

つまり、アニメの場合は同じ主人公で同じストーリーを描くわけにはいかないのだ。ヨン様は役の名前さえ変えれば同じような舞台で同じような話をいくつでも作れるのに対し、アニメでそうしようとすると矛盾が生じる。

シリーズ化の試み

もっとも安直な道は前回の続きを作ることであるが、それはあまりにも危険だ。主人公は成長したのだから、もう同じことをしていてはいけない。しかし、人気の秘訣はその「同じこと」にあるのだ。ガンダム=「主人公の成長のストーリー」だとすると、成長した後のアムロを使って何をやってもそれはもうガンダムではない。

つまり、あるアニメに人気が出たからといって簡単にその人気にあやかった続編を作ることはできないということだ。「続編はヒットしない」の法則はここから生まれたものだ。宇宙戦艦ヤマトは同じような旅を何度も行って帰ってくるという方法で安直にシリーズ化して、マンネリ化して視聴者に飽きられた。「お前、以前も同じような事あっただろうが。全然覚えてないのか」と批判されることになった。一度完結したストーリーを同じキャラクターでもう一度再現するのは無理な話なのだ。

同じ枠組を使い回すことでシリーズ化するということはよく行われた。同じようなストーリーを配役とメカを変えて同じように作る、というパターンだ。これは今までに見た「面白い物語製造機」そのままだ。その頃にはまだキャラクターではなくお話のパターンが面白いのだと思われていた。だからキャラクターは使い捨てでパターンだけを使い回すことにしたのである。ただこれは面白さのパターンが通用していた時代の話で、キャラクターが重視される時代になると通用しなくなった。

タイムボカンシリーズは、キャラクターもパターン化によって解決しようとした珍しいシリーズだ。タイムボカンシリーズは、キャラクターを一人の人間ではなく「悪玉トリオ」という形式として永続させようとした。毎回微妙に名前とコスチュームが異なるが明らかに連続性が見てとれる。マージョもドロンジョもミレンジョは一応違うキャラだが、視聴者は同じ人だと思って見ていた。これはかなりウケたが、そのうち時代の流れに取り残された。悪玉トリオである限り、同じような話を繰り返す以外のことはできなかったのである。

「ジョジョの奇妙な冒険」は、名前とテイストだけ残して毎回舞台もキャラクターも変えてシリーズ化した。しかしこれは荒木飛呂彦の天才によるもので誰も真似できなかった。名前をまったく変えて新シリーズとして連載しても良かったのであり、これを真似したら誰でも同じようにシリーズ化できるというものではなかった。

強さのインフレ

ジャンプ系と呼ばれる一連のグループは、大会というものを明示的に導入することで安易なシリーズ化に成功した。例えばドラゴンボールは天下一武闘会によってストーリーものをシリーズ化した。ヤマトのように突発的な危機が何回も起きるとシラけてくるが、天下一武闘会は毎年開催されることが初めから明らかになっているし、その大会は複数の試合が連続することで成り立っている。物語設定そのものに繰り返し性が入っているこの手法はシリーズ化しやすく、しばらくジャンプはこの手の手法であふれることになる。

ジャンプ系の大会手法が発明したのは「強さのインフレ」である。今までの問題は、キャラクターがストーリーを一度通過することでキャラクター的に強くなって、二度と同じところで同じことを問題にかかえることはないという事実によるものだ。成長したキャラクターに同じ敵を差し向けても今度は通用しない。「強さのインフレ」は、この問題を解決するためのシステムだ。同じ敵を差し向けても通用しないのなら、一段強い敵を差し向ければよい。ヤマトは最初から14万8千光年などという遠くを旅してしまったからシリーズ化で破綻をきたした。最初は町内会レベルで、市の大会、地方大会、全国大会、アジア大会、世界大会、太陽系大会、銀河系大会と徐々に広げていけばいいのだ。そうすれば全く同じことをしても8回もシリーズ化できることになる。「強さのインフレ」のキーポイントは、インフレすることを見越して最初は小さなところから始めることにある。

この方法に対する一つの問題は、「町内会レベルの話を見て本当に面白いのか?」という疑問だ。ヤマトは14万8千光年を旅する壮大なロマンだったから面白いのであって、これがもし隣町へ行くお話だったら面白くないのではないか、と。これは「設定」というものに意味があるかどうかの話だ。面白いのは設定ではなくストーリーのパターンだとすると、14万8千光年を毎日1万光年の速度で進むお話と、14.8km進むだけだけど毎日1kmしか進めないお話とは同じものである。ヤマトの良さは14万8千光年というケタ外れの数字に対するロマン、言い替えれば異世界に対するロマンだ。異世界そのものに意味を感じない人にとっては町内会レベルの話でもどうってことはない。スケールの大きな話は面白いのではあるが、スケールが小さいからといって面白くないわけではない。

というわけで、最初は身近な話から始めるというジャンプ的大会手法が確立された。今までアニメはどこか遠いところの話が多かったのに対して、身近な話から始まるようになった。副作用として、設定そのものが雄大なSF的世界観が姿を消した。舞台が最初から大きくては、それをどんどん拡大していくことはできないからだ。

しかし、強さのインフレにも限界があった。あまりに長く続けているとインフレしすぎて訳のわからない世界に突入する。近所のチンピラとケンカしていたような不良少年がそのうち天国や地獄や神様まで手玉にとるようになり、あまりの飛躍にシラけてしまうようになる。

声優ブーム

「キャラクターだけを抜き出して永続させること」の問題をまったく別の視点で解決したのが声優にスポットを当てることである。アニメでは声優は声以外はまったく表に出ず、その声を出しているのは誰かを気にする人はいなかった。そこにスポットを当てることで、アニメキャラに対する俳優としての声優を確立しようとした。

「声優ブーム」という言葉は今までに3回使われている。第一次声優ブームは海外ドラマや海外映画全盛のころ、その吹替えを担当した野沢那智などの声優が中心だ。この頃は画面には本物の役者がいて声優はその声だけ担当するという、よく考えてみれば奇妙な関係である。アランドロンの顔と甘い声に人々は魅了されたわけだが、実は顔はアランドロンだったけど声は別人だったのである。じゃあ声は誰のだろうと思うのは当たり前のことで、そこで脚光を浴びたのである。しかしその人気は表である役者と切り離せない存在であり、声優本人たちは自分がそれと同一視されるのを嫌がった。声優が表に出るのはタブーだった。

第二次声優ブームは1970年代から1980年代にかけてで、おびただしい数のアニメが作られた中で「このキャラの声優は誰だろう」と皆が興味を示すようになった。これはウンチクが好きなおたくが、どうでもいいことに対する精緻なデータベースを作った結果である。彼らはアニメキャラと声優の対応表を懸命に作ったが、その目的は「自分がその対応表を知っていること」であり、その知識を人にひけらかすためだった。声優は名前だけの存在だった。

ここで語る意味での声優ブームは、キャラクターが独立して存在できるようになってから始まった。アニメキャラを声優が「演じている」と見るようになったのだ。そして声優をアニメキャラと同一視するようになる。これが第三次声優ブームと呼ばれるものである。

この顕著な例が「サクラ大戦」である。声優達が実際に自分が演じたアニメキャラに扮して舞台に上がる。声優がスポットライトを浴び、半ばアイドルの扱いを受ける。これは前回述べた「キャラクターのコスプレ」が成立したからこそできたことでもある。そして、観客は声優つながりで同じ声優が演じている違うアニメを見る。これは、前のアニメの人気を引き継いでまったく違うアニメを買わせるための新しい方法だった。

ただ、この方法には一つ問題点があった。声優は声はいいし歌もうまい。ただアイドルというには外見が(略)だった。それはある意味当然のことで、声優は誰でもできるような職業ではないのだ。だからあまり広がらなかった。

やおい

同じキャラクターで延々とストーリーを展開するのには限界があった。同じストーリーを繰り返すと破綻するし、かといって大会形式でもそのうち破綻する。しかし違うキャラクターで違うシリーズを一から始めるとせっかくのキャラクター人気が宙に浮いてしまう。それならいっそ割り切って、ストーリーを無くしてしまったらどうだろう。今の視聴者はキャラしか見ていないので、ストーリーなんかどうでもいいのだ。

そもそもストーリーとは何だったかというと、山あり谷ありクライマックスありのお話の筋だ。人は意外性に驚き、シチュエーションの巧妙さに感心し、張られた伏線に気付いて納得する。しかしこれはどれもキャラとは関係がない。だからそんなものは無くていいのだ。これは多くの人が気づかなかった盲点だ。

ストーリーには山も谷もクライマックスも何もなくてよい。キャラクターとはシチュエーションに対する反応だったから、シチュエーションだけ設定してあとは反応を見せればよい。それは意外である必要も面白い必要もない。そのキャラクターにぴったりかどうかだけが評価の対象である。いろんなシチュエーションに対してその人らしい特別な反応が返ってくると「キャラが立っている」と呼ばれる。そしてそれが最高の誉め言葉だ。

ストーリーが無ければストーリーの破綻もない。キャラさえ持ってこれば後は何が来てもいいのだ。世界背景さえ関係ない。同じキャラを現代に持ってこようが江戸時代に持ってこようがSFに持ってこようがよいのだ。逆に、そうやっていろんな場面に持っていった場合にそのキャラがどう反応するかを見せることによって、よりキャラを見せることができる。

「天地無用」はこの方法で、同じメンバーで同じようなものを作り続けて、それで破綻することはなかった(別の見方をすれば破綻したまま続けていたのであるが)。始まった当時はよくあるSFものだったのが、時代の流れとともにただのラブコメになり、あげくのはては魔法少女ものにまでなった。キャラは全員同じままで。もし次のガンダムがいきなり魔法少女ものになったらスタッフ全員殴り殺されるだろう[2]。よく考えればムチャクチャなやり方なのだが、なんとかやり通してしまった。

これが「山なしオチなし意味なし」がもととされる「やおい」の原義である。思い切ってストーリーを無くしてしまうことで、キャラクターはいつまでも存在できるものになったのである。

キャラ立ち

言葉だけ出したがもう一度はっきりさせておこう。(今風の)良いキャラクターの条件である。

キャラクターは外見および行動の特徴の集まりである。そして、それがそのキャラクターと他のキャラクターを分けるものである。キャラクターは特徴だとすると、良いキャラクターとは特徴がはっきりしたキャラクターである。これが「キャラが立っている」である。

「キャラが立っている」とは、そのキャラクターの特徴がはっきりしていて、他のキャラクターと見分けがよくつくことである。キャラクターの特徴とは外見の特徴もあれば行動の特徴(つまりは性格の特徴)もある。これらが明確なことがキャラ立ちの要件である。

アニメキャラの髪の毛がすべてあり得ない色をしているのも、キャラに特徴を出すためである。髪の毛は顔のかなりの部分を占める。キャラによって髪の毛の色を違えておかないと誰が誰だかわからなくなる。さらにカチューシャや三つ編みやおだんご(あれ何て言うんだろう)などのように髪型も変える。小道具を持たせるのも特徴を出すテクニックだ。性格もキャラごとに特徴を出す。活発な人やおとなしい人、おしゃべりな人にもの静かな人、などなどである。

キャラが出来たら、ストーリーよりも何よりもまず「キャラ設定」だ。キャラ設定とは、キャラクターの特徴を箇条書で書くことだ。性格、趣味、好きなもの、嫌いなもの、などなどである。キャラ設定さえあればストーリーはいらない。

キャラクターの特徴は派手についているほどよい。「おいおい、こんな奴いるかよ」と思ってはいけない。そんな奴はいるわけない。これは架空の世界なのである。変であれば変であるほどよい。変というのは特徴があるということであり、キャラが立っているということなのだ。生活感ゼロであるべきだ。生活感というのは常識をわきまえているということであり、平凡であるということであり、特徴がないということであり、従ってキャラが立っていないということだ。

ギャルゲー

今までずっとアニメの話ばかりしてきたが、ゲーム機の性能が上がってきれいな絵が何枚も表示できるようになり、さらには声や動画まで出せるようになると、おたく的なものを提供するメディアとして急浮上してきた。

おたくが欲するものがストーリーではなくシチュエーションに対するキャラの反応であるとなると、アニメ的なものよりゲーム的なものの方がずっとよい。アニメはある特定のシチュエーションで一定の反応を見せるだけだが、ゲームだとシチュエーションをプレイヤーが選ぶことができるからである。

ここで語る意味でのギャルゲーとは、「自分が女の子に対してとる行動を選択し、それに対するリアクションを楽しむ」という形式のゲームである。そういう観点から一番しっくりくる名前は「恋愛シミュレーションゲーム」である。この名前だけで誰もがぱっと名前を挙げるだろう。「ときめきメモリアル(ときメモ)」である。

「リアクション」というのが重要なのだ。今まで語った通り、観客が見たいのはキャラクターであり、キャラクターとはある状況に対する反応である。だから、観客が選んだ行動に対するキャラクターの反応こそプレイヤーが一番見たかったものなのである。アニメでは主人公の女の子をデートに誘う場面は見られても、女の子のデートを断る場面は(それがストーリーになければ)見られない。ゲームでは、二回やって一回目は「誘う」を選んで二回目は「断る」を選べばどちらの反応も見られる。これは観客が喜ぶわけだ。

これらのゲームは、操作対象である主人公は自分と同一視できるように作られている。自分の行動に対して女の子が反応してくれる。これは素晴らしい。ご都合主義だとか現実をシミュレートしてないとか文句を言ってはいけない。ときメモがシミュレートしているのは恋愛ではなく藤崎詩織(など)である。もともと現実ではないものをシミュレートしているのだ。

シミュレーションゲームはシミュレートしている対象をよく知る優れた方法だ。ときメモは藤崎詩織(など)をよく知るための手段だ。これを「キャラを知る」と呼ぼう。ギャルゲーはキャラを知る最適なメディアだ。

こういうタイプのゲームに対して、「ゲームのキャラを意のままに操って面白がってる」とか「本物の女の子は相手にしてもらえないからこういうものを相手にしているんだ」と思うのは間違いだ。自分の思い通りに動くような相手はいらない。自分の思い通りの反応をしないからこそ意味がある。目的はその反応を理解することである。いろいろとつっついてみて、その反応を見ることで相手を理解するのだ。本物の女の子は自分の好き勝手にいろいろつっついてみるわけにはいかない。相手の嫌がることはできないし、反応を見るためだけにわざわざ誕生日に変なプレゼントを贈るわけにもいかない。だからゲームであること、本物でないことに意味があるのだ。どちらかというと、何回でもやり直せることの意義である。

最近では、本質にあまり影響しないパラメータ上げ作業はゲームに組み入れないようになった。パラメータは選べる選択肢を制限するための仕組みである。そんな迷惑なものはあってほしくない。そして、単に選択肢を選んで反応を見るというビジュアルノベルに変化していった[3]。ビジュアルノベルは選択によってストーリーが分岐し、いろんなエンディングを見ることができる。ビジュアルノベルの大元であるアドベンチャーゲームも同じ仕組みだが、アドベンチャーゲームでは唯一「勝利」といえるエンディングがあり、他はすべて「敗北」だった。プレイヤーの目的は勝利エンディングを見ることだった。ビジュアルノベルではすべてのエンディングにそうした上下関係はない。目的は全部のエンディングを見ることだ。もはやこれはゲームではなく、キャラのすべての反応を見るという反応再現機である。

間違えるな。ギャルゲーはデートの過程を楽しむものではない。デートの相手を楽しむものなのだ。だから過程なんてどうだっていいのだ。大切なのはキャラであってストーリーではない。そして、その目的は相手を自分の望むように操ることでも良いデートのやり方を勉強することでもなく、キャラをよく知ることである。「恋愛とは相手をよく知りたいと思うことである」なんて、おたくにしてはなかなか言うじゃないか。

キャラの所有

おたくの行動原理は「キャラを良く知ること」になった。キャラの特徴を隅から隅まで把握し、頭に叩き込んで、頭の中でそれを再現できるようにする。それはつまり頭の中にそのキャラクターを持つということである。キャラクターを所有するということだ。

絵という二次元媒体よりフィギュアという三次元媒体の方がこれには向いている。あちこちから眺めることができるからである。アニメやマンガよりゲームの方がいい。「彼女はこう言われたらどう反応するだろう?」を実際に試すことができるからである。

しかし、メディアが提供する「キャラクター像」はある程度のところまでしかない。それ以上キャラクターをよく知りたいと思ったら自分で作り上げるしかない。思考実験である。つまり、自分がよく知りたいと思うキャラをあるシチュエーションに置いてみて、そのキャラがどう行動するだろうかと考えることである。その手段が前章で述べた二次創作である。

「自分で勝手に考えた行動が本当にそのキャラクターのものだと言えるだろうか」と思う人もあるかもしれない。しかし、それはメディアが提供したそのキャラクターの全特徴から推測したものだ。とすると完璧に当たってはいないかもしれないが全くの外れでもないはずだ。何より、わからないのだから推測するしかない。誕生日にもらって喜ぶのはエルメスのバッグかリルケの詩集か?それは今までのキャラの行動を見ていればだいたいわかる。そして、それがわかったらキャラ設定に「エルメスのバッグよりリルケの詩集が好き」という新たな一行が加わる。

おたくは自分の観点からそのキャラクターの特徴を作り出す。それは二次創作という形で小説やマンガとして記録される。他の人はそれを読んで、それに納得したら自分の頭の中のキャラ設定にも新たな一行を加える。納得しなかったら「私の○○さんはそんなことはしない」と拒否する。これの繰り返しで、キャラクターはより詳細に出来ていく。皆でキャラクターに深みを与えることができるようになった。自分の考えたキャラクターの特徴を皆で共有することによって、キャラクターというものを皆で作っていくのだ。

萌えというパターン

良いキャラの条件とは「キャラが立っている」ということで、これはキャラに特徴があるということだ。つきつめて言えばそのキャラが変人だということである。良いキャラほどまともな人間ではなくなる。

各自がキャラを「所有」するようになると、「わかりやすいキャラ」という基準も生まれた。所有しやすいキャラ、つまり特徴が少なくてはっきりしているキャラだ。わかりやすいキャラほど特徴が少ない。

つまり、究極的に良いキャラとは、わかりやすくて立っているキャラ、つまり数少ない変わった特徴があるキャラということになる。要するに単純な変人である。本当にそんなキャラが良いキャラなのだろうか?

特徴というのは「他の人とは違うところ」である。つまり、キャラは他のキャラと違っていなくてはいけないのだ。一つの場所に同じようなキャラが2人以上いると「キャラがかぶっている」と言われる。特徴的なキャラとは、他のキャラと同じところが一つもないキャラである。特徴がたくさんあると他のキャラとかぶる確率も高くなるので、特徴は少なくして重複がないようにする。

本物の人間と同じようにリアルで、常に葛藤や心の動揺があり、いろいろな事を考え、奥の深い感情があるキャラを考えてみよう。こういうキャラは外面は普通の人と同じように見えるが、深く付き合ってみるとその人の深い思想や感情が見えてくる。しかしこういう設定のキャラは失格だ。わかりやすくないし、外面からは普通の人と同じように見えるからである。

キャラは行動の特徴であるとすると、同じキャラは同じ場面に出逢ったら同じ行動を示さなければならない。普通の人間はそんなに単純なものではない。人間の心にはいつも葛藤や気まぐれがあり、同じ場面で同じ行動をとるとは限らない。だからこそ面白いドラマやストーリーが生まれるのだ。

しかし、ドラマやストーリーはどうでもいいのだった。際だった特徴がいくつかあるだけのいわゆる「典型的」なキャラが尊ばれた。しかし、そんな特徴をいくつも思いつくほど作り手の引き出しは多くなかった。例えば、「髪型」という特徴を考えてみても、そんなに何十種類もあるわけではない。そのうち重力の法則に反した不自然な髪型ばかりになった。性格だって、キャラ設定の「性格」の欄に書ける言葉は限られている。これもまた何十種類もあるわけではない。本当は性格なんて一言で書けるものではないのだが、一言で書けないような性格はわかりやすくないしきわだってもいないから失格である。

キャラクター設定は単純化するのがよく、単純化するということは細部を取り払って大枠だけを残すということだ。こうして、キャラクターにはいくつかのパターンが生まれるようになった。昔、ストーリーにパターンができたのと同じである。良いキャラクター設定には客観性があり、正解は限られた数しか存在しないものだった。

これが「萌え」だ。ストーリーのパターンは「燃え」と呼んだ。その類推による言葉である。キャラクターのパターンに「萌え」という言葉を当てはめることによって、キャラクターは「萌え」の組み合わせによって表現されるようになった。

まとめよう。もともと、キャラクターとは特徴の組み合わせだった。数ある特徴の中で、最も効果的な特徴がいくつか見つけ出された。これを「萌え」と呼んだのである。

萌えの永続性

おたくは一つのキャラを二次創作によって勝手に膨らませるようになった。もはやアニメやマンガやゲームは不要になった。キャラクターは永遠に残るようになったが、新しいキャラクターが不要になってしまった。マーケティング的には困った話である。

それが「萌え」によって解決された。キャラクターは特徴の組合せであり、それは「萌え要素」と呼ばれた。おたくが求めていたのはキャラクターではなく萌え要素の組だったのだ。だから、同じ萌え要素を組み合せれば同じように受け入れられる。とすると、今度は萌え要素を抽出する番だ。既存のキャラからさまざまな萌え要素が見つかった。萌え要素はそうした過去のキャラの最大公約数である。

調べてみると、そうした最大公約数は思いのほか大きかった。「眼鏡をかけている」という特徴だけで、「もの静かで本を読むのが好きで理屈っぽくて、自分の姿に劣等感を持っていて、普段は目立たない存在だけど眼鏡をとると実は美人」というところまで同じだった。萌え要素というのはこういったいろんな特徴を一言に凝縮したものである。

つまり、キャラクターの顔に眼鏡を書くだけで受け手は上に書いたいろんな特徴をそこから読み取るのである。これは楽だ。そしておたくは、眼鏡をかけたあるキャラを気に入ったら、次には別の眼鏡をかけたキャラを好きになっていけばいい[4]。そしてそこに過去に好きだった眼鏡っ娘の面影を全部重ねればいい。重ねれば重ねるだけ「眼鏡」という特徴は重みを増していくのである。

そして時代は巡る

昔のおたくが「物語製造機」に「燃え」たように、今のおたくは「キャラクター製造機」に「萌え」るようになった。まったく同じ構図である。そろそろキャラクター製造機にみな矛盾を感じ始めてきたころだ。

ただ、前回の結論は「世界はワンパターンだ」であったのに対して、今回の結論は「自分はワンパターンだ」という結論だ。こちらの方がずっと恐しく感じる。

ネットで流行っているなんとか占いというのは自分をパターン化しようとする試みだ。いくつかの質問に答えると「あなたは○○型です」と診断される。これが萌え要素の意義だ。わざわざインドの奥地まで自分探しの旅をしなくても、いくつかの質問に答えるだけで自分がわかるのだ。簡単なものだ。

しょせん人間なんて単純な生き物なのだ。


  1. 手塚作品などでは別の作品のキャラがふらっとやってきてファンを喜ばせることもあるが、基本的に脇役でしかない。 ↩︎

  2. 今の天地無用しか知らない人のために一応書いておくと、本当にガンダムなんかと対比できるようなSFものだったのである。正確に言えばガンダムではなくメカと美少女ものなので、あんなのとガンダムを一緒にするなというお叱りを受けるかもしれないが。 ↩︎

  3. ビジュアルノベルはやったことも見たこともないので想像だけで書いています。間違っていたらすみません。 ↩︎

  4. なお、ここの「好き」には性的な意味は込めていないつもりなのでそのつもりで。 ↩︎